たしか、風煉ダンスの『まつろわぬ民』2017(作・演出/林周一、白崎映美/主演)という演劇のいわき公演のために、『福島民友新聞』に寄稿したエッセイである。わたしが観たのは、東京の座・高円寺で上演された公演であるが、とても力強く野生的な舞台であった。会津のどこかでの上演を願っていたが、コロナ禍でいまだ実現していない。
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東北の記憶の種子が散りばめられた舞台に、こころが騒いだ。どこか東北の、東日本大震災の影に覆われた町で、一軒のゴミ屋敷がいましも行政代執行によって解体されようとしている。鬼一族の巫女である老婆と、冷蔵庫やこたつやピアノに身をやつした鬼一族のものたちが抵抗の戦いを演じたすえに、敗北してゆく。「俺たちはゴミじゃねえ」という声が、通奏低音のようにこだましている。
鬼の一族とは、むろん古代エミシの末裔たちのことだ。野山に獣を追い、肉を喰らい、血をすすった者たち。エミシは西のヤマトの軍勢によって征服され、まつろわぬ鬼の一族へと変貌させられた。負けっぱなしを耐えてきた、千年の植民地だ。立て籠もる砦はいつしかゴミ屋敷と化した。千年の記憶。だから、忘却と掘り起こしこそが主題となる。
鬼の一族の裏切り者はなぜ、イタクと呼ばれるのか。イタクとは言葉の意だ。言葉は人を裏切る、たやすくは信じるな、ということか。しかし、これはまさしく、その全編が、亡き者たちの忘れられた声に耳を澄まし、棄てられた言葉を拾い集める物語ではなかったか。負けたもの、流されたもの、忘れられたもの、そのかすかな記憶が浮遊している。
それにしても、初演(2014年)からは、何かが大きく変貌を遂げていたようだ。つかの間露出していたものが、後景に退いている。黒いゴミ袋の山は、より真っすぐに福島の隠喩とならざるをえない。何より、もはや英雄が存在しない。この世界を建て直すために現われる救済者はいない。サンベというエミシの英雄、真っ赤な心臓は不在だ。俺はサンベだ、という叫びは遠ざかった。アラハバキの爪は、もはや一族の精神的な支えとはならない。呪力は失われた。
その代わりに、この砦で奇妙な邂逅を果たした人々は、敵も味方もみな、フィナーレには思いがけぬ場所へと連れ出されている。鬼の一族の巫女は、おめえらはサンベじゃねえ、でも、きっとサンベだ、見えるんだ、おめえらに、灰に埋まってるけど、小さな種火みてえな火がよ、という。蝦夷はもはや血ではなく、記憶である、ということか。劇中歌として一部が引かれていた、宮沢賢治の「原体剣舞連」が、「打つも果てるもひとつのいのち」と結ばれていたことを思いださずにはいられない。
エミシと呼ばれた人々は、「国家に抗する社会」(ピエール・クラストル)としての部族社会をいとなんでいた。まつろわぬ民こそがいま、賢治とともに、国家のかなたへと、多様ないのちが交歓する「銀河と森とのまつり」を構想しなければならない。この魅惑にみちた舞台には、そんな励ましの声が響いていた気がする。