パソコンのなかに残っていた文章である。どこかに寄稿したのか、書きかけの原稿として残っていたのか、よくわからない。こういう時事ネタはたちまちに古びてしまうが、あえて記録として留めておきたい。福島県博の館長時代の発言である。
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古めかしい問いの立て方だ。東京五輪・パラリンピックにかこつけて、東京で巨大な公共事業が動く経済的利権のおこぼれを、地方が「いただく」――。こんな発想こそ、壊さねばならない。
歴史的に眺めると、大災害の後に大規模な公共事業が行われることは中世からあった。寺や城の建て替えなどに労働力とお金を投入する仕組みだ。日本は、古くさい経済復興策をまだ繰り返しているのだ。
東京誘致の際、東北の大震災からの復興が掲げられていたことを、遠い夢物語のように思いだす。しかし、今や「復興五輪」と口にする人は、少なくとも私の周辺では誰一人いない。恩恵なるものが、経済的な利益の分配を指すのであれば、そんなものは初めから存在しなかったのかもしれない。
日本社会は今、「成長」から「成熟」へと大きく変換することが求められている。目先の利益ではなく、20年、30年後の日本の姿をデザインするために必要な、地道な事業やプロジェクトに、きちんと目を向けるべきだ。
ここで、ロンドン五輪の際、スポーツ競技の傍らで芸術や文化のプログラムがイギリス全土で開催されたことを思い出してみよう。これらは長期的な視野の下、ソフトパワーの育成に役だった。われわれが切実に求めていることだ。だから、東京五輪の文化プログラムがきっかけになり、「2020後」につながっていくのだとすればいいことだと思う。だが、現状ではそうなっていない。十分な予算が充てられていないし、多くの関係者は助成金をどれだけもらえるか、という視点で動いている。その発想はもうやめよう、と言いたい。文化プログラムで重要なのは、人を育て、芸術文化をめぐるネットワークを構築すること。そこに資金を投入する必要がある。
視点を変えるためにどうすればいいか。私が期待しているのは、文化庁の京都移転と、文化庁が推進している「文化芸術創造都市」の浸透だ。地域の特性を文化芸術に生かし、地域再生に取り組む自治体のことで、文化庁が10年ほど前から毎年数都市を顕彰してきた。金沢市をはじめ、変化を遂げた自治体は着実に増えている。
今は、東京を中心とした同心円でしか国のビジョンを語れていない。京都を中心にもう一つの円が生まれ、それを上手に育てていけば、私たちの生き方も社会デザインも、多様性を担保できるのではと感じている。京都だって多くの難題を抱えているが、「千年の都」の力は強い。東北が文化の都を担うのは困難だ。京都が地方に目配りし、先頭に立ってほしい。
福島県立博物館(会津若松市)の館長を務めている立場では、これまで文部科学省本省が所管していた博物館に関する事務が文化庁所管になったこと(文部科学省設置法の改正、昨年10月1日施行)にも大きな可能性を感じている。教育や文化に関する構造が変わることは、思考の変化につながるからだ。
われわれはこの国の成熟のために、文化芸術のルネサンスを必要としている。東京五輪がそのきっかけになるならば、それこそが「復興五輪」の名に値するはずだ。