【忘れ語り、いま語り】 震災のあとに考えた、いくつかのこと | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

館長のつぶやき

【忘れ語り、いま語り】 震災のあとに考えた、いくつかのこと 

2023.10.01

 赤坂 憲雄(奥会津ミュージアム館長)

 この文章を書いたことすら忘れていた。シンポジウムへの参加の依頼があって、そこに『「轟音の残響」から』(晩成書房)という本に寄稿していたことに気付いた。いや、正確には、この本を慌ててネットで買い求めて、たしかに「震災のあとに考えた、いくつかのこと」と題されたエッセイを見つけたのだった。この本は書棚にも見当たらず、原稿を送ったきり忘れてしまったのかもしれない。本の刊行は二〇一六年三月だから、執筆はそれ以前ということになる。

 今度こそ変わらねばならない、と思った。そう思い詰めていた自分を、笑う気にはなれない。世間はいつしか、まるでなかったかのように震災を忘却し、気がつくと、社会的言説の磁場といったものが大きな変容を遂げていた。それでも、わたしは頑なに、あの混沌のなかで考えたことこそが信ずるに値するのだと思う。わたしはたぶん、いまも同じ場所に立っている。
 三・一一から三週間ほど、東京郊外の自宅の地下の書斎に籠もっていた。しばらくは、テレビやパソコンの画面のなかで、巨大な津波に人や車や家々や街が呑み込まれてゆくのを、ただ呆然と眺めていた。そして、海辺に並んだ四基の原発が、次から次へと爆発事故を起こすのを、なすすべもなく見つめていた。その間、わが家の車の一台は救援物資を積み込んで、仙台へと旅立っていった。それから、バソコンの画面で、『ゴジラ』と『風の谷のナウシカ』を見た。一週間近くが過ぎて、ようやく言葉が戻ってきた。語らねばならないと、ささやかな覚悟を決めた。
 震災のあとにはじめて読んだ本は、いささか唐突かもしれないが、石光真人編著の『ある明治人の記録』だった。副題には、「会津人柴五郎の遺書」と見える。幕末の戊辰戦争にさいして、奥羽越列藩同盟を結んで薩長と戦い、ついに会津戦争で敗北を喫した会津藩の士族であった柴五郎が残した遺書である。ひとつの予感がたしかに存在した。いま幕を開けようとしているのは、太平洋戦争のあととしての戦後ではなく、戊辰戦争のあととしてのもうひとつの戦後に擬(なぞ)えられるべき「災後」となるのかもしれない、という予感だ。むろん、あくまで漠然とした予感でしかなかった。ともあれ、わたしがそのとき、『ある明治人の記録』を手に取ったということは否定しようがない。再読ではあったが、前に読んだときの印象はすでに朧ろげなものだった。わたしはなぜ、書棚からこの本を抜き出し、読んだのか。
 こんな一節が、冒頭に近く置かれてあった。敗者となった会津の藩士とその家族たちは、ほとんど「シベリア流刑を思わせる」(司馬遼太郎『奥州白河・会津のみち』)やり方で、下北半島へと追われた。柴五郎はこう語っていた。

落城後、俘虜となり、下北半島の火山灰地に移封されてのちは、着のみ着のまま、日々の糧にも窮し、伏するに褥(しとね)なく、耕すに鍬なく、まことに乞食にも劣る有様にて、草の根を噛み、氷点下二十度の寒風に蓆(むしろ)を張りて生きながらえし辛酸の年月、いつしか歴史の流れに消え失せて、いまは知る人もまれとなれり。

 戊辰戦争のあと、「朝敵」と呼ばれ、敗者の精神史を抱いて生きねばならなかった会津藩の末裔たち。その一人が残した遺書は、いかにも大仰であったのか。おそらくは、違う。まさしく、それは北の凍てつく痩せた大地への流刑そのものだった。下北のはじめての冬はとりわけ、悲惨なものだった。餓死や凍死を免れることに精一杯のありさまだった、という。
 忘れることのできない一節がある。あるとき、ひとりの猟夫によって射殺され、凍った川面に放置された犬があった。それを貰い受けることができた。

その日より毎日犬の肉を喰らう。初めは美味しと感じたるも、調味料なく、塩にて煮たるばかりなり。しかも大犬のことなれば、父と余が毎日喰らいてもなかなかに征服できず。兄嫁は気味悪がりて最初より箸もつけず。余にとりては、これ副食物ならず、主食不足の補いなれば、無理して喰らえども、ついに咽喉につかえて通らず。口中に含みたるまま吐気を催すまでになれり。この様を見て父上余を叱る。
「武士の子たることを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを喰らいて戦うものぞ。ことに今回は賊軍に追われて辺地にきたれるなり。会津の武士ども餓死して果てたるよと、薩長の下郎どもに笑わるるは、のちの世までの恥辱なり。ここは戦場なるぞ」
と、つねと変りて語気高く叱る。予期せざる父上の激怒に触れ余の心戦き慄えて、口に含みたる犬肉の残り眼をつむりて一気に飲み下せば、胸につかえて苦しきことかぎりなし。父上も箸を休めてこの様を眺め、「今日はこれにてよし」と言われ、自らも箸を置けり。かくして、およそ二十日間、毎日肉を喰らいつづけたり。そのためなるか、あるいは栄養不足のためなるか知らず。春になりて頭髪抜けはじめ、ついに坊主頭のごとく全体薄禿となれり。

 わたしは何がしかの覚悟を固めたかったのだ。そうして、あらためて、みずからの故郷(として選び取ることにした父親の故郷……)が、巨大な地震と津波、そして原発事故によって、これから背負わされることになるはずの運命の途方もなさに畏れ戦きながら、この書を読まねばならなかったのだと思う。これから、あの幕末の戊辰戦争のあとという、もうひとつの戦後に真っすぐに繋がるような「災後」が始まる。覚悟を決めよう。ただ、そのためだけに、わたしは『ある明治人の記録』を読んだ。これは、けっして声高に語られることのない秘せられた精神史のひと齣である。むろん、会津にとって、福島にとってこそ固有な精神史といわねばならない。
      ☆
 ところで、わたしは震災後にはじめて書いた、「東北の民俗知、今こそ復権」(読売新聞二○一一・三・二三)というエッセイのなかに、以下のような言葉を残している。三・一一から七日目の執筆であったか。

巨大なできごとが起こっている。東北は変わる。日本も大きく変わる。どのように変わるのかを語ることはむずかしいが、変わらざるをえない。わたしたちは幸か不幸か、きっと、この地球の未来図を先取りするように、いま・ここに生かされているのである。

 変わらねばならない、変わらずにいられるか、と思った。いや、今度こそ変わってほしい、という祈りのようなものであったか。そして、そのかたわらには、東北のいまは、日本の、世界の未来に起こることの先取りなのだという認識が転がっていた。フィルムが早回しされるように、いま・そこには、二十年、三十年後の日本がむき出しに顕在化してくるにちがいない。

ここでの復興とはしかし、元に戻すことではない。未知なる地平へと踏み出すことだ。たとえば、東北から、新たな人と自然を繋ぐ世界観を創ることだ。そのためにこそ、人としての身の丈に合った暮らしの知恵や技を、民俗知として復権させねばならない。人智が制御しえぬものに未来を託すことはできない。

 不思議な感慨が湧いて起こる。このとき、わたしは何を凝視し、何を語ろうとしていたのか。その後の被災地でくり広げられてきた「復興」は、いかにも奇怪なものだ。たとえば、三・一一の直前にあった海岸線、つまり人と自然とを分かつ境界のラインを自明の前提として、十数メートルの高さに防潮堤が築かれようとしている。しかも、数百キロの海岸線に沿って、だ。そこには、「新たな人と自然を繋ぐ世界観」といったものへの根源的な問いはない。八千万人の人口、そのうちの四十五パーセントが高齢者で占められている、だれも見たことがない社会の訪れに向けての想像力もまた、ない。すべてが倒錯しており、その倒錯にたいする自覚なしに、旧に復することがただ漠然と志向されている。
 あきらかなことが、少なくともひとつはある、とわたしは考えた。東京電力福島第一原発の爆発事故を目撃したわたしたちは、もはや原発という「人智が制御しえぬもの」と共存しての未来だけは思い描くことができない、ということだ。わたしはだから、「人としての身の丈に合った暮らしの知恵や技を、民俗知として復権させねばならない」と、うなされたように書いたのだった。しかし、その意味するところを明らかに認識していたわけではない。あくまで、そうあってほしい、という願望にすぎなかったかと思う。
 やがて、民俗知の復権など、甘やかな夢物語にすぎないことがむき出しになっていった。とりわけ福島は、原発事故によって深刻な分断と対立のチマタと化して、難民や棄民という未知なる問題に遭遇することになる。しかし、それはけっして、難民や棄民といった尖った言葉を身にまとうことはなく、いつだって曖昧模糊とした、見えにくい現実のかけらと化して浮遊しているのだった。そこに絡まる風評被害という言葉の、なんと暴力的であることか。それはかぎりなく現実を不可視のかなたに追いやる呪文ではなかったか。
 それから、わたしは被災地を巡礼のように歩きはじめた。ほんのつかの間、そこかしこに宗教的なものが顕在化していることに気付き、驚愕を覚えた。五月にはすでに、鹿(シシ)踊りのような民俗芸能が復活していた。二万人近い死者たちのための鎮魂と供養のフォークロアが、いたるところに転がっていた。巡礼のように、と書いたのは、わたしの被災地を訪ねあるく旅が、いつしか手向けられた花の前にひざまずき、手を合わせるための道行きとなっていったからだ。わたしはきっと、これまでの人生のなかで、もっとも濃密に宗教的な日々を生きていたのだと思う。
 あるいは、芸術と呼ばれる行為がきわどく、宗教に近接する場面にくりかえし立ち会ってきたといっていい。つかの間の光景に終わるのか否か、判断はむずかしい。むしろ、芸術と宗教とはいつだって表裏一体の関係にありながら、そこから顔を背けてきただけのことかもしれない。それはたぶん、遠い前近代に固有の現象ではない。震災がそれをむき出しに顕わしたのである。いずれであれ、それぞれの土地に根差したローカルな芸術や文化の潜在的な力には、励まされることが多かった。これもまた、思いがけぬ発見のひとつとなった。
 つれづれに、思い浮かぶままに、震災後に考えたことの一端を書き連ねてきた。三・一一のあとに、それからの巡礼の旅のなかで、たくさんのことを行きつ戻りつ蛇行とともに考えてきた。わたしはいまだ、この震災が日本社会のいかなる転換点となるのか、東京電力福島第一原発の爆発事故はいったいなに意味しているのか、といった問いにたいして、真っすぐな応答をするだけの準備ができていない。いや、それはまだ始まったばかりなのだ。さらに、世界のゆくえに眼を凝らしつづけねばならない。