赤坂 憲雄(奥会津ミュージアム館長)
これはいくらか場違いかもしれませんが、ここに掲載しておきたくなりました。『吉本隆明全集』第25巻の「月報」のために書きましたが、ほとんどまともに読んでくれた方はいないと感じています。
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対談や座談会にはたくさん参加してきたし、忘れがたい出会いもすくなからずある。しかし、はじめての対談はやはり特別なもので、鮮明な記憶が残っている。三十五、六歳であったか。雑誌に掲載されている対談などを見て、自分にはこんなふうに理路整然と言葉を交わすことはありえない、遠い出来事だと感じてきた。しかも、設定された対談のテーマは天皇制である。その相手がほかならぬ吉本隆明さんだった。それはのちに『天皇制の基層』(一九九〇年)というタイトルで、作品社から対談集として刊行されている。三十二歳で物書きとしてデヴューしたが、若いころにはずっと、吉本さんをひそかに最初にして最後の読者として想定しながら、文章を書いていた。対談がその総決算のようなものになったのは、きっと偶然ではない。わたしは独り立ちのときを迎えようとしていたのである。
どういう経緯があったのかは、すっかり忘れていた。しかし、『天皇制の基層』の「あとがき」を読み返して、作品社の編集者であった増子信一さんの提案から始まったらしいことを思いだした。昭和天皇の死と葬儀から、あたらしい天皇の即位と大嘗祭へと連なりながら、天皇制をめぐる基層の風景が顕わされ/隠される特別な季節であった。過ぎ去ったばかりの平成から令和へと移りゆく時間のなかでは、ほとんど惚けたように、問いそのものがまったく去勢されていたことを思えば、あの昭和天皇の死とともに幕を開けた時間がなんとも貴重なものに感じられる。だから、吉本さんとの濃密な対談が可能となったのだ、といまにして納得される。
対談は三回にわたり、実質的には十二時間ほどに及んだかと思う。わたしは対談のために詳細なメモを用意しており、それを眺めながら喋った。吉本さんはなにひとつ手元に持たずに、ゆったりと言葉を探しつつ、三、四十分途切れることなく話された。わたしもそれに釣られて、長く話すことになった。とてもよく覚えている。わたしは話しながら、つねにその数歩先のことを考えていたし、吉本さんが話されることも数歩先の予測がついて、大きく外れることもなかった。緊張の極限にあったが、冷静だったのだろうか、よくわからない。わかるのはただ、後にも先にも、いま自分が、また相手が語っている言葉に耳を澄ましながら、同時にその先の自分の、また相手の言葉が手に取るように聴こえてくる、そんな体験をしたのはそのとき限りだった、ということだ。いわば、わたしは吉本さんの言葉のほとんどをあらかじめ知っていたのだった。そんなことあるはずがないと言われるだろうし、傲慢な物言いに聴こえるであろうことも承知している。それでも、はじめての対談はそのようなものとして、わたしのなかでは体験されていたし、記憶されている。
あとで、編集者がわたしに求めていたのが、対談相手ではなくインタヴュアーの役割であったことに気づいた。わたしは生意気にも、それと意識することなく、吉本さんを相手に対等なやり取りを求めていたのである。その場に録音係として立ち会っていた若者が、あとで、「大人のケンカをはじめて見ました」と言っていたことを思いだす。わたしは無謀にも、論争を挑んでいたのであった。吉本さんはたしかに、くりかえし、わたしの発言を物静かにではあるが、まったく否定された。わたしは何度も叩きのめされ、起ちあがるために全精力を傾けねばならなかった。ただ、それは一回目の対談について言えることで、二回目、三回目と進むと、かなり雰囲気は変わっていった。わたしはすでに、いっさいのメモを持たずに対談に臨んでいたし、しだいに穏やかなやり取りになっていった気がする。
吉本さんはきっと、それが対談として成立するか否かについて、半信半疑であったかと思う。別に対談集としてまとめることには関心がなかったはずだ。いまにして思うが、三十歳も年下の「若い世代の篤学の研究家」(吉本さんの「あとがき」)にたいして、あれほど真っすぐに対峙してくださったことにこそ、吉本さんの凄みを感じざるをえない。そして、わたしはやがて、それが大先達からのかけがえのない贈り物であったことに気づかされた。はじめての対談で、最高の修羅場をくぐり抜けることになったわたしは、それ以降、あれほどの緊張を強いられる語りの場に立ち会わされたことはない。
それから、わたしは思いがけず、対談や座談会、インタヴューなどのかたちで多くの学者や評論家の方たちと向かい合うことになった。いったい何人の方たちと言葉を交わしてきたことか。百人近いか、それを越えるかもしれないが、数えたことはない。『東北学』という雑誌の責任編集者であった時期もあり、こちらがお会いしたい人を選んでは訪ねることをくりかえした。多くの場合に聞き役であったのは、こちらが編集者を兼ねていたからだ。それ以上に、話すよりも聞くことのほうが性にあっていたのだと思う。
それにしても、わたしにとって、吉本さんと天皇制について語りあったはじめての対談は、大きな転換点となった。そのときを最後に、わたしは特権的な読者を必要としなくなった。精神的な自立へと足を踏みだした、ということであったか。それ以降、吉本さんのお仕事に触れることはなくなった。とはいえ、『天皇制の基層』とほとんど前後して刊行になった『象徴天皇という物語』が、岩波現代文庫の一冊に収められたときに執筆した「補章 象徴天皇をめぐる祭祀のゆくえ」のなかで、吉本さんの「天皇および天皇制について」との再会を果たしている。天皇ないし天皇制が帯びる呪力の源泉について、吉本さんはやはり、もっとも根源的な思索を重ねた思想家のすくなくとも一人なのだと、あらためて確認したのだった。
父殺しという言葉が浮かぶ。わたしはいま、みずからの晩年の仕事のひとつとして、深い敬意とともに、もうひとつの訣別の辞を書かねばならないと感じている。