【忘れ語り、いま語り】 生を見つめる現場として、島へ | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

館長のつぶやき

【忘れ語り、いま語り】 生を見つめる現場として、島へ

2023.08.01

赤坂 憲雄(奥会津ミュージアム館長)

 奥会津にはきっと、写真や映像がとても親和的だと感じている。奥会津の村や町に滞在して、写真を撮っている女性の写真家たちを、二人知っている。知り合いには、ドキュメンタリー映画を制作している、やはり若い女性監督がいる。彼女たちに奥会津で映画を撮ってもらうことが、ひそかなわたしの夢だ。隠す必要もあるまい。
 ここに再掲載するのは、ドキュメンタリー映画の『島にて』に寄せたエッセイである。舞台となっている飛島は、思い出深い島である。

     ☆

 この映画は一度ではなく、二度、三度と観てほしい。わたしはじつは、いくらかの時間を置いて、二度目に観たとき、いい映画だなとはじめて思った。あまりにさりげない映像であり、淡々としている。攻撃的なところがない、などと言ってみるが、当たっているかどうかは知らない。それなのに、ていねいに、きちんと島の暮らしと生業の風景が織りこまれている。二度目に細部が見えるようになって、印象が一変したのだった。
 二十数名の語り手が次々に登場する。平成最後の年に、一年の歳月をかけて撮影したらしい。小振りの撮影機材が使われているのだろうか。不思議なほどに、語り手たちはみな、ゆったりと流れる島の時間に身を浸したまま、ゆったりと撮られ、静かに語っている。その語り手たちがたたずみ、歩き、働いている姿から、また、その場や背景から、飛島という島のいまが周到に浮き彫りになる。しかし、それは記録をめざしているようには見えない。説明したいという欲望が、なにやら稀薄なのである。
 失われた風景へのノスタルジーは、ほとんど感じられない。その意味合いでは、これはみごとに反—民俗学的な映像なのである。民俗的なるものは、ただ意識せずに映りこんでいるにすぎない、といったさりげなさがある。むろん、観光のためのPR映像でもない。たとえば、民俗的な、あるいは観光PR的な映像であったとすれば、御積島の洞窟など欠かすことはできないだろうが、この映画にとっては必然がない。それぞれの語りを具体的に肉付けするために、言葉少なに映像が呼び出されている、といったところか。
 何度か飛島には渡ったことがある。数人の学生たちと飛島を訪ねたのは、一九九七年の七月であった。一週間ほど飛島旅館に滞在して、来る日も来る日も、島中あちこち歩きまわり、たくさんの島人たちのライフヒストリーに耳を傾けた。そのときの聞き書きの記録は、山形新聞に掲載され、のちに『山野河海まんだら』(筑摩書房、一九九九年)という本に収められている。夜ごと、本間又右衛門さんを囲んで、島の歴史や文化のあれこれに耳を傾けた。その又右衛門の訃報に接して、学生たちと島に渡ったのは、同じ年の十二月であったか。師走の海は荒れた。人の気配が島からは消えていた。夏場だけ民宿など営んでいるが、冬近くには酒田の別宅に移る家が多いと聞かされて、驚いた。夏の聞き書きでは知ることもなかった、島の現実が転がっていた。思えば、わたしはいつだって、夏の旅人にすぎなかった。
 映画のなかでは、「昔は、港々に女あり」と呟く和島十四男さんがいて、そのかたわらに妻のみよ子さんがいた。まったく瓜ふたつの場面に立ち会ったことがある。勝浦の本間熊二さん、記憶の鮮やかな楽しい語り手だった。熊二さんが妻の隣りであっけらかんと語ったことを、わたしは新聞の連載には書かなかった。いま、あらためて、昔は港々に女がいたという語りが生々しく甦った。本間又右衛門さんが、飛島には昔から遊女はいなかった、と語っていたことを思いだす。
 あの夏、島の人口は住民票のうえでは五百人足らず、実際には四百人を切っていると聞いた。飛島小中学校の生徒数は十七人だった。いまは人口が百四十人、渋谷新くんの中学校卒業とともに生徒はゼロになる。わたしが知っているのはおよそ二十年前の飛島の、ほんのひとかけらの風景だった。
 この映画に、ひそかな主人公がいるとしたら、それは「デイサービス和楽」を営む渋谷さんの家族と、「合同会社とびしま」につどい働く若者たちだろう。そこには、Uターンしてきた島の出身者と、Iターンで移住してきた者とが混在している。共通項はたしかにある。だれもが、しなやかに、それでいてしたたかに島で生きることを選んでいる。まるで、島とはむきだしの厳粛な現実のなかで、生きることの意味を見つめる場であるかのように。
 飛島には、縄文時代から人が暮らした痕跡がある。とはいえ、数千年にわたって定住生活が切れ目なく続いてきたわけではない。飛島には、渡(わたり)島、分かれの島、鶴路(つるじ)の島といった異称があったらしい。そこはかとなく遊動の匂いがする。夏の家と冬の家とのあいだを往還する暮らしのかたちや、かつての出稼ぎ漁の時代の家族のかたちを、ただちに異例なものと見なすべきではない。
 「合同会社とびしま」の松本友哉さんが、九か月は島で働き、残りはどこで働いてもいい、「三ヶ月有給」という制度を思いついたという。そのしなやかな強靭さがいい。飛島はきっと、縄文以来、定住と遊動のあわいに生き死にを重ねてきたフロンティアなのである。渡部陽子さんは、東日本大震災をきっかけに島に戻ったという。さらにコロナ禍とともに、時代は厳しい揺さぶりをかけられている。島はひっそりと、新しい生き方が生まれてくる現場へと成りあがろうとしているのかもしれない。
 くりかえすが、この映画は一度ではなく、もう一度観てほしい。