縄文・・・私は縄文時代のことなどほとんど知らないうちから、ジョウモンの重厚でいて、しかも、しなやかな響きのこの言葉に魅せられていた気がする。しかし、そもそもこんな雪深い只見にどうして縄文人が住むことができたのかが、とても不思議だったが、その時代はとても暖かったそうで、少し納得できた。只見には以前から考古館があり、縄文土器を作るワークショップに何度か参加したことがある。おおよその工程は、粘土状の土を練り、ひも状にして、ぐるぐると積み上げて形作っていき、最後に細いひもを作り張り付けたり、ヘラを使って網状の模様をつけたりした。何か月か乾燥させた後、どうか割れませんように、と祈りつつ、ゆっくりと野焼きである。小さな子供が木をくべるその的確な動作に見とれながら、火を見つめ、気分はすっかり縄文人そのものであった。が、考えてみれば今の焼き物の工程とそんなに変わりはない。その時作った作品は今も大事に飾ってある。
去年、考古館がリニューアルして「ただみ・モノとくらしのミュージアム」となったが、このミュージアムで奥会津全体が連携しての「奥会津の縄文」が企画開催されていると聞き、やっと見に行くことができた。
真新しい建物の二階が会場になっており、正面には以前只見小学校に展示してあった「青い目の人形」が展示されていて、目を引いた。親善の証として昭和2年にアメリカから送られた多くの「青い目の人形」は、その後太平洋戦争中、敵国のものとして処分され、人形が残っているのは全国でも非常に珍しい。この町の古いものに対する並々ならぬ思いが感じられる。その斜め奥で縄文展は開催されていた。
最初のガラスケースの中の小さな深鉢はどっしりと重そうだ。そして浅い鉢は、鉢好きの私にはたまらないスマートさだ。隣の石皿も、綺麗に洗ってイワナの刺身でも載せたら、大ご馳走だ。北海道の日高でしか採れないアオトラ石の石斧もある。縄文人の遠征は今や常識となっているそうだが、それにしても川や海が今よりずっと近かったとはいえ、どんな手段でこの奥地まで運んだのだろうか。そしてたくさんの土器のかけらはそれぞれどんな思いで模様付けしていたのだろうか。イヤリングやネックレスまであって、縄文人は私よりよっぽどお洒落を楽しんでいた様子である。今見ればなんともユーモラスな女性の顔の土偶にはいろいろな祈りが込められているに違いない。最後は火炎土器を思わせる大きな深鉢が圧巻だった。
この辺りでは、40年ほど前まではムシロを織っている人が居たし、アカソやアオソ、シナッカワも身近にあった。クルミやクリで染色して着ていたし、ウサギやヤマドリは何よりのご馳走だった。山に小屋掛けして一か月以上も籠るゼンマイ小屋の生活は、竪穴住居の生活に近かったのではないだろうか。そして今も細々と作られているハヤの飯鮓は、縄文の頃からの食文化と聞いている。
今回企画展を見ながら、時代が近い平安時代の衣擦れの音や鎌倉時代の刀を打つ音よりも、はるか縄文の火を囲む生活がよっぽど身近でほのぼのと感じることができるのは、私達にとって当たり前のことなのだ。
鈴木 サナエ(すずきさなえ)