夕映の山河 奥会津の抄 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

奥会津の先人たち

夕映の山河 奥会津の抄

2023.02.28

飯塚真『夕映の山河 奥会津の抄』

序文

私はこの世に生を受け七十四年の生涯を顧みる時ある時は血気にはやり意外な損失を招いたり、また自信過剰のあまり、思わぬ失態を引き起こし、あるいは、自信喪失の路に迷う時期など、概して、若き日の青壮年時代に於てはこうしたいささか忸怩(じくじ)たるものを感じるのである。しかしながらそうした時代にこそ、心が練られ、物事の精随を見極め得る、精神面の力を涵養(かんよう)された。心身の精進と健康には、特に留意する事を覚え、ひたすら仕事に打ち込む事が出来て、七十三歳の大晦日、職場の契約期間満了まで、働き続けて来られた事を、最大の喜びとしている。そして以俊は世間でよく言われる、第二の人生を歩む事となった。

しかし、私の第二の人生は、どのように生きるべきかと考える時 、はたと突き当たるものがある。悠々自適の生活と人はいう。しかし私には、悠々として生きる趣味を持ち合わせていない。自分なりに思い巡らして、長い年月の間に蓄積された、知識と経験を生かして、幾許(いくばく)か社会に貢献出来る事をと思う時、既に体力の限界を感じるのである。

幸い、労苦を共にして、これまでに、幾多の苦難な境涯を支えてくれた老妻は元気で、しかも、妻は妻なりに、自分の趣味を生かして、今日は生け花、明日は唄会、ゲートボールと、第二の人生にしては、暇なく、忙しいまでに興じているので、私は救われたような気持ちと 共に、その姿を眺めて、ようやく私達の老後にも、ほのぼのとした人生が、始まったのだという感慨が、胸に満ちて来るのである。また、それと同時に、こうした姿を、生み出すことの出来た、過去の自分達の足跡は、どのようなものであったのかと、回顧の情が湧いて来る。私はこうした感懐に沿って、これといって趣味も無いままに、つれづれの間の、思い出日記を書く事にした。

少年時代等の思い出を書くことによって、思い起こされるありし日の父母の姿、壮年時代の交誼の友、熟年時代の職場の交友、等々、枚挙に暇がない。こうした思い出日記は、またとない自分の歴史でもある。しかし、水の流れるように書き綴る事は至難の業と思われるので、その時々に、少年時代、壮年時代と、思い出を整理しながら書こうと思う。

時代の変遷急なるを思う時、もしこの日記を読む者があり、少しでも何かの足しに成る事があれば、無上の幸せである。

飯  塚  真

目次

序文

第一篇  少年時代

私の里/先祖のこと/遠い昔の物語/生活のいろいろ/祖父のおもかげ/ヨテ叔母の家/母の姿/冬が来る/お正月のころ/音吉じいさん/お正月/春が来る/五年生の新学期/家で見つけた古文書(こもんじょ)/長兄の死/ホトトギスの話/二百二十日の大荒れ/叔母さんのこと/市の原の茅刈り/熊・狐・猯(まみ)の話/東の梨の古木/村のお寺/十三子参り/亨兄さん・父の姿/栗鹿毛の馬/電気工夫の人情/コブシの木/次道老/田舎の仕来たり/弟の旅立ち/初出の社会/打ち込んだ仕事/兄の出嫁ぎ/

第二篇

青年期

一年半ぶりのわが家は/寝床の中で屋根葺きの稽古/初めての仕事/樺太から兄の手紙/西山紀行/次々と仕事が/喜久馬さんのこと/巣立ちの旅/技量の陰/肩書きつきのゴム判作る/お湯の中に咲く仕事/町と村の仕事の差/雪の中で発電所の葺き替え/木代も払う/久し振りで実家へ/世のうつり変わり/妹は叔父と越後の五泉へ/父の事故死

第一篇  少年時代

私の里

会津若松駅から只見線の、黒煙を吐いて走る汽車で二時間乗ると、会津宮下駅に着く。

宮下は、山あいの村落にしては、明るい。家並、町並にしても都会めいた風情が漂い、垢抜けのした部落である。

私の少年時代は、汽車は手前の会津柳津駅が終着駅で、奥会津方面からはかなりの距離があるので、途中の宮下が、総べての中継基地的存在になっていた。そうした事から、商業、文化等あらゆる面での中心地でもあった。

宮下から、北東に流れる只見川の吊橋を渡り、高濡水を経て、只見川の流れに沿った県道を小半時も東へ進むと名入部落に入る。ここから、名入部落の人達が耕すヒロワラという山畑の作場道を通り、およそ五十間ほどの急坂道を登ると、大石田と西方本村を結ぶ村道に出る。この村道は、山の中腹を削り取って開いた道路で、緩やかな上り坂道である。この道路を北へ二千メートルほど歩くと中野である。ここ中野が私の古里である。

中野は、三町歩(さんちょうぶ)ほどの平地と、東側に車峠(くるまとうげ)、北側は寒焼山(かんやけやま)・西陣山(にしじんやま)と、何れも三百メートル余の小山と、西側が、小高いなだらかな原野で構成された、小さな、三軒だけの寂然(じゃくねん)とした佇(たたず)まいの村落である。

平地のほとんどと、谷あいの原野を開拓した所は、桑畑と、桐の木畑が多く、家の付近の、一応上畑といわれる所に、桐の木の回りを避(さ)けて、芋、大根、馬鈴薯など、自分達日常の食糧とする作物を作り、谷あいの山畑や、原野を切り開き、焼畑を作って、蕎麦(そば)、粟、豆、小豆等を蒔く、程度の低(ひく)い農家である。

田圃は少なく、自分達が一年食べる米を収穫出来る家は、極く一部である。そうした貧農に近い農家だけに、桑畑を育成して、養蚕をする。その繭(まゆ)の収入と、桐の木を育てて売る等、副業を以て、生計を維持している。

桐は、かの有名な会津桐下駄の素材で値も良く、またと無い収入源となるが、虫が食いやすく、寒さに弱く、植林が中々難しいという点がある。山村部落に 一歩足を踏み入れると、桐の木や、桑畑が、すぐさま目にとびこんで来て、山里の生活環境を、ありのまま知らされる。

中野では、東の車峠の山と北の寒焼山との間の谷を、勝負沢という。この勝負沢は奥へ奥へと延びて 、奥まった所に清水の湧き出る場所があり、真夏の渇水期(かっすいき)には、中野の人達には唯一の潤いの場所となる。そしてこの清水の所から勝負沢の沢頭(さわがしら)は南松・西陣山へと続く。

中野の西側は、小高い丘のような平地の原野が緩やかに西北へと広がり、はなれ林という地名の所で緩やかな平地の部分が尽きて、山裾に、松や栗の大木を抱いた西陣山へと続く。はなれ林、西陣山の西は、本部落大石田の君ケ山へと接する。この君ケ山へ接する所に谷水が流れていて、谷間に点在する田の用水に使われる。ところが、秋の長雨や時たま降る豪雨 の時には、西陣山・君ケ山の山肌に降った雨水を一度にまとめて、洪水の谷となり災害を齎すのである。

中野平(なかのだいら)の南側は崖で、十メートル位の崖の下を村道が一筋通り、大石田本部落へ通ずる。村道から更に下って、高尾原の崖との間、百メートルくらいの幅で段差のある田圃が続き、中野と大石田部落との中間の前の沢で、君ケ山・騎乗場など、谷あいに点在する田と共に、にわかに田面が広がる。君ケ山の谷の流れと、樫尾山方面から流れて来る堰の水と、牛尾沢方面から流れて来る水の、三水流が前の沢で合流して、水尻、滝の和合、赤谷と流れて、只見川へ注ぐ。前の沢の合流地点から幅員六メートル位の川となり、各所に散在する水田の灌漑用水に使われる大切な川である。

部落の人達は、毎年春先になると、人足といって、各自人手を出し合って、洪水で崩れた土手や、土砂流で流れの変わった川底などの補修工事をする。川の流れは、山間の地形的な制約を受けて、曲がりくねった川筋である。川には、ボヤという小魚が住み、子供などがボヤ釣りをし、曲がりくねった水の淀む箇所や、高い所の田に水を引くために堰き止めた場所などでは、水泳ぎなどを楽しむ川でもある。牛の水洗いなどみんなが盛んに川を利用するので、夕暮れになると、牛のモウーモウーと鳴く声は、部落の風物の一つになっている。

中野の崖の上に立って眺めると、やや距離をおいた差し向かいに、高尾原の広大な平地と、平地の北の果てから、茫洋とした、なだらかな芒(すすき)の原を抱いて気高く聳える御坂山の秀峰が見渡せるこの芒の原は亜寺沢と呼ぼれ、御坂山と高尾原には、数知れぬ古代の寺跡や墳墓史跡が隠されている。

高尾原は、殆ど名入・大石田・高清水の部落の人達で耕作していて、食糧生産源の貴重な耕地であり、亜寺沢の芒は近郷近在の屋根を葺く茅の取得場所である。

山里中野では、四月といっても、春は遅く、野も山も、残雪が一ぱいで、僅かに南傾斜の山肌に、大木の根元だけが、微かに地肌を覗かせ、斑ら模様を織りなす程度である。

中野より本部落大石田へは、北へ八丁、又本村西方へは、東へ二十四丁の道程(みちのり)である。学校は本村に、村立西方尋常高等小学校があり、同じ校舎内に、高等科二学年の学科教室が併設されていた。そして、大石田、高清水には、その分教場が設けられて、尋常科

四年生までの授業を行っていた。

本校までの長距離と、冬期間の雪中の通学は、下級生の体力では、無理とのことから、分教場教育の制度を用いているのである。

先祖のこと

私が十一歳の春を迎えて、さわやかな微風が、こころよく肌に触(ふ)れ 、時の流れも緩やかな陽盛りのころだった。珍しく父が、はなれ林へ、焼畑を造るといって、兄達と私を連れて、仕事に行った時の事だった。父は、田舎の生活は、一にも二にも、自分で考えて、自分の生活を守るより他に術(すべ)はない、田畑の少ない所では、原野を開拓して物を作るのも知恵の一つだといった。そしてお前達も、年輩の人達のやる事を、よく見たり、聞いたりして、学んでおく事だといった。

はなれ林は、十日程前に、母と兄達が、草や小柴を刈り払って、焼畑を造る段取りをしておいた所だった。昨夜母が、山畑焼(かのや)きをする、といっていたのは、そこの事だったのだ。父は、山畑焼(かのや)きは、母や子供だけでは、心配だからといって、率先して山畑焼(かのや)きに来たのだった。刈り払った草や小柴はすっかり乾燥(はしゃ)いで燃えごろになっていた。燃やそうとする場所の回りを一間程の幅で、枯草などを中の方へ寄せて、傾斜面の上の方から火をつけた。兄達は左側を、父と私は他山に接する右側を見る事にした。乾いた枯柴が燃えて、地面を舐めるように下へ下へと燃え下がって行く焔を見守って、他の山に燃え移らぬように、鍬や、鎌を持って、焔を追うように私も焔と共に下がって行く、かなりの広い場所が、燃え尽きた時は、陽は既に頭上を越して西に傾いていた。

母が、お昼にしようといって、蓑(みの)を敷いて、弁当籠と、やかんの水や山うどを持って待っていた。母は山畑焼きの合問に、谷の方へ降りて、山うどを取ったり、清水を汲んで、お昼の用意をしていたのだ。やかんの冷たい水を掛けて、山うどの外皮をむいて、味噌をつけながら食べた。歯触りがよく、油こく、新鮮な取りたての山うどのお菜(かず)で食べる弁当はほんとうに美味かった。食事の合間に父は、焼畑は、草や小柴の燃えた灰が、そのまま肥料になり、しかも地肌は焼けて雑菌の消毒になり、これほど合理的な畑作りは他にはないといった。

食事後、兄達は蓑の上で、うとうととしていた。私は父を交じえて家族が一緒になって、一つの仕事をした頼もしいような嬉しいような感じで、妙に頭が冴えていた。そこで、やはり昼寝をせずにいた父に、常日頃考えていたことを聞いてみた。中野には、車峠、勝負沢、西陣山と戦に纏(まつ)わる地名や、旧屋敷跡が所々にあるけれど、何があったのかと。

遠い昔の物語

 父はしばらく間(ま)を置いて、語り始めた。

 飯塚家の先祖は、昔、源平合戦の時、一方の旗頭で、飯塚丹波守といった人だ。何時の頃からか定(さだ)かではないが、この地に落ち延びて来て、一族郎党十七人がここに定着し、生活の糧を農に求め土着した。

 その時、武士を捨て、鎧・兜を石の櫃に納め、乾(いぬい)の方の土中に埋めて、これを先祖の印(しるし)と祀り、その守りとして石祠の稲荷様を安置した。また、寒焼山から宛(さなが)ら象が鼻を伸ばしたように突き出ている小高い丘を、象頭山と名付け、艮(うしとら)の守りにと、そこに小宮を建て、常に戦神として肌身に着けて来た毘沙門天を安置した。そして、寅の日を縁日と定めた。そうした事から、飯塚家では寅の日になるとみな仕事を休み、象頭山の小宮の前の広場で、野引き祭りといって、銘々が手料理を持ち寄って、長閑(のどか)で朗らかな祭りをしていた。その習慣が今も伝承されているのだと、先祖からのいい伝えを話してくれた。寝ていた筈の兄達も起きて耳を傾けていた。

寒焼山の一角に的場がある。農に帰属したといっても元は武士だから、弓矢の稽古をして昔日(せきじつ)の姿を思い浮かべながら、心を慰めていたのだろうと私は昔を偲んだ。何時だったか、祖父(おじや)が寒焼山を開墾した時、矢の根石を見つけたと話した事があった。

中野には、東へ行けば西方、西へ行けば大石田へ通ずる、帯を流したような道幅の部落の公道が一筋ある。この公道の、やや大石田寄りの中程から、T字路になって北へ進む道路を、百メートル程も入った所に、三軒の家が建っている。私の家は左側の奥まった茅葺きの、古びた家である。しかし柱など、栗の五寸角材で、梁や桁なども堅木を使い、大引きとか仲引とかいう家の中心を支える材料は、一抱(ひとかか)えもある丸太の長材を使い、東から西までの行間を、がっしりと押さえ仕組み、今様の鉋(かんな)の跡は全く無く、総べてが手斧(ちょうな)削りのまま、釘は一切使わず、枘(ほぞ)仕組みで、古代建築の粋がそこに見られる。

中野の人達は、T字路から入って来る道路を、街道と呼んでいる。

生活のいろいろ

寒焼山の中腹から湧き出る水と、麓の清水とが、中野の人達の大切な飲料水である。水上という所に、木製の水かめを据えて水を湛えて共同で使用していた。余水(あまりみず)が流れて自然に 掘が出来て街道沿いを流れる。幅二尺位のこの堀の水が、真夏日には水の量が細々となるが、他の時期には、殊に秋の長雨から雪どけの節には、堀一ぱい満ちて流れる。中野の人達はこの堀の流れで、朝は顔を洗い、野良帰りには手足を洗う。そして農作物の芋  大根等およそ食卓に上る自作の食物は、総べてこの流れで洗い清められる。

この堀の流れに沿って、春は雪の消えが早く、堀の土手には他に先がけて、いち早く、つくしんぼや、蕗のとう、たんぽぽ、かたくりなどが芽生えて来る 。母はよく、このつくしんぼや蕗のとうを摘み取って胡麻和えを作り御飯のお菜にした。私は、そのつくしんぼの胡麻和(ごまあ)えが好きだった。

 母はまたかたくりの球根を掘り起こしては水洗いし、摺(す)り潰(つぶ)して布で濾(こ)し、絞り取って、かたくり粉を作っていた。

桐の根元の雪が消えて、あさつきが黄色の芽を伸ばし始めると、堀の土手のたんぽぽやかたくりの花が咲いて来る。鮮やかな濃黄のたんぽぽの気障な花より、何となく優し気な可憐とも思える風情(ふぜい)の漂うかたくりの花が、私は好きだった。

学校の休みの朝だった。綿のような雲が中天に浮いて、西へ西へと流れていた。土手のつくしんぼは生長して、杉菜になっていた。土手の左側の畑には、唐黍(とうきび)の葉が大きく伸びて朝露を受けていた。微風に葉が揺れて、朝露が葉から零(こぼ)れそうになっていた。その唐黍の葉裏に、夏には早い夏蝉の、今殻から抜け出たばかりの透き通った体と、薄いガラスのような羽が、朝露の玉で毀(こわ)れそうに思えて、私は無意識のうちに唐黍の葉の露を払っていた。朝の顔を洗うことすら忘れていた。と、マーコと声を掛けられた。振り返って見ると、ヨテ叔母さんが何やら風呂敷包みを下げて立っていた。

祖父のおもかげ

父の妹で、姉のイソと、妹のヨテとは、共に大石田へ嫁いでいた。そのヨテ叔母さんが声を掛けたのだった。

私が生まれた時、祖父(おじや)が、三男が出来たか、名前は俺がつけてやろうといって、一字で真と呼ぶ名を付け、その頃、弟子に来て、崖の下という所で働いていた元吉を呼び寄せ、村役場へ届けさせたのだ。その時、祖父が呼んだマーコという呼び名が癖になっているのだ、と何時か母が私の呼び名の事を話したのであった。私が学校へ通うようになってから、祖父は私を呼び寄せては、色色な話を聞かせてくれた。「働かざる者、食うべからず」とは数ある祖父の話の中の一節である。

祖父は、この一節が好きだったようで、私が今でも覚えている程聞かされた。その当時は、私は何の考えもなく、祖父がまたまたその話を始めると、「働かざる者食うべからず」と暗唱した。祖父は笑いながら、「しっかり覚えておけ」というのだった。

祖父はまた、私が学校から帰ると、決まって庭の掃除をさせては、「掃除をすれば、心が 清められる。進んで掃除をする人に、心の汚れた人はいない」といっていた。

 山から、箒柴(ほうきしば)という、枝の細かい、軟らかい柴を切って来て、藤蔓を二つに裂いた蔓紐で、三ヵ処くらいに硬く束(たば)ねて外帚(そとぼうき)を造り、庭を掃かせるのだった。

秋ともなれば、桜・柿・桐と屋敷内には植樹が多いので、落ち葉が重なり合って庭を埋める程のところもできた。そんな時は、掃(は)くだけでも子供には大変な労働であった。そのころ私の弟、薫(かおる)が、つぶらな瞳をして、可愛いい盛りだった。祖父も人一倍薫を可愛いがって、抱いたりして遊ぶ事が多くなった。私は祖父が次第に私から遠ざかるような、一抹のさみしさを心の隅(すみ)に感じるようになっていた。

霜が降って寒い朝だった。日曜日なので、私は起床が遅かった。祖父は、子供のうちから規律を守るように 仕付けなければ怠け癖がつく、と母にいっていたようだった。

祖父は弟の薫を連れて庭を散歩しながら、菊の花を愛(め)でたり、熟した柿をもいでは嬉々と騒いでいた。そして私には、よく仕事をいい付けた。そんな時、私の心の中には或る種の抵抗を感じて、不平をいうと、祖父は、決(き)まって薫はまだ小さい、マーコは兄ちゃんなのだというのだった。

庭の落ち葉の上には、白い粉を撒いたように霜が凍て付いていた。庭掃除は、私の役目のようになっていた。私は、手の先が悴(かじ)かむような朝の冷気を跳(は)ねのけて庭を掃いていた。何時か私の知らぬ間に、祖父もまた東の桜の根元から掃いていた。私は、こなしば柿のある座敷の角が一番汚れているので、そこから掃いていた。しばらくして、「マーコ」と呼ばれたので、祖父の元へ行くと、祖父は、落ち葉の下から銅貨を拾い上げて、「マーコ、嫌な仕事でも骨身惜しまず働いていると、こうして神様は宝を授けて下さるのだ」といって、拾い上げた大きな二銭銅貨を差し出して私にくれた。私は嬉しかった。そしていっそう精が出た。まじめにやっていれば、神様は落ち葉の下へ金を置いてくれるのかも知れないと、そのころの私は信じていた。掃除が終わると祖父は、西側の茶の盆栽のある石垣に腰をかけ、「マーコ莨(たばこ)入れを持って来い」といった。祖父が常に大切に使っている銀煙管(ぎんきせる)の入った莨入れを持って来ると、刻み煙草を詰めて、甘そうに吸いながら、聞かせるともなく、独り言のように語り始めた。その身の置き方や、身の仕草に、何如にも疲れたというような、かつて見たことがない姿の祖父を見て、私は、労わるように側に腰をかけた。

祖父は、瞼(まぶた)の上の頭(とう)の毛が白くなっていて、常に頑固な祖父が、その時ばかりは、なぜか弱弱しい老爺に見えた。

長兄の義英も、次兄の友一も、体が丈夫で、何をやっても暮らして行けそうだ。それに、兄達二人で、力を合わせて、家を守らねばならない。幸い家では、友一を分家させて、家庭を持たせるくらいのことは出来るだろう。マーコは、弟や妹達の面倒を見ながら、自分で行く道を開拓せねばならない。それには、先ずよい事と、悪い事の分かる人にならねばならない。そして、神様は目には見えないが、どこにいても神の目は光っている、社(やしろ)や、堂宮(どうみや)の前を通る時には必ずお辞儀(じぎ)をして通れ、そうすれば、御利益を望まなくとも、何かしらよい報いがある。自分でこれは悪い事だと思う事は絶対にしてはならないといって、話を区切って莨を吸った。その時私は、父や母の姿を思い出していた。

それは一年生の学年末近くの、学芸会の日に、父は来賓として、亨兄さんは青年会員として出席する為め、私たち兄弟と一緒に学校へ行く途中で村外れの地蔵様の前を通りかかると、父も亨兄さんも足をとめて、手を合わせていたこと。学芸会の終わり頃の挨拶で文太という、鼻の下に髭(ひげ)を生やした人が、挨拶、私たちがやったカチカチ山の劇の出来ばえを褒めて、今の劇のように悪い事をすれば、悪い事が返って来る、よい事をすれば必ずよい事で報いられると話された事。そしてまた、母と一緒に西方へ買い物に行ったときの行き帰りに、山の上の稲荷様まではかなりの距離はあっても、母は必ず手を合わせ、何やら口の中で、もぐもぐいっていた事など。私は、見たまま、感じたまま、こうした事を祖父に話した。

祖父は銀煙管の頭を磨きながら黙って聞いていたが、私が話し終わると、そうか、それでよい、それでよいと、何度も頷ずいて、嬉しそうにして家へ入った。その時ほど、祖父に暖かい親しみを覚えた事はなかった。それから幾日かして祖父は亡くなった。祖父が床に就いてから、「祖父は高助桑から落ちたのだ」と母から聞き、それが死因となったのだと私は思った。それから後、私は、熟(う)んだ桑子を捥いだり、高助桑を取る時は、必ず祖父の事が脳裏に浮かんで、気をつけて木に登るようになっていた。

私が四年生の、春も酣の頃だった。桑の葉は伸びて、殊に高助桑は、脂ぎった艶のある葉に朝日を受けて、瑪瑙(めのう)のように輝いていた。その年、家では、蚕を飼わず、桑の葉は叔母さん達や懇意の人達に分けていた、春蚕(はるさん)の最盛期だった。

ヨテ叔母の家

私は、街道の土手の、遅咲(おそざ)きのカタクリの花に見入っていた。杉菜になったつくしんぼの成草が、飼兎(かいうさぎ)の好む姿になっていた。堀の流れの淀み加減の水の上に、みずすましが一匹、流れに逆らって浮いていた。赤蛙が、いきなりとび込んだ。みずすましを取ろうとしたのだろうと思いながら、しばし見とれていると、竹で編んだ桑籠を背負って、ヨテ叔母さんが来た。「マーコ今日は頼みに来た」といった。叔母と連れ立って家へ入ると、母は流し場の窯処(かまど)の前で、大きな糅(かて)切り板の上で、大根の乾し葉を細かく刻んで、朝飯を炊く準備をしていた。

 この辺の農家では耕地が少なく、ことに米を作る水田は、谷あいなどの冷田が多く、山に遮られて日照時間が短く、絶対に必要な水は冷たく、収穫は反収四俵程度で、平野部の農家の人には想像もつかない状態である。そうした事から、米は殊更に大切にしている。秋の収穫時(しゅうかくどき)には、大根の葉や、芋の茎など、縄で編んで軒下に吊り下げ、乾燥したものを貯蔵して置き、仕事の暇な時に取り出して食糧の足しにする。こうして米を一日でも長く食い伸ばす事に心を砕いているのだった。大根の乾し葉は、細かく刻んで米と一緒に炊き込み、糅飯(かてめし)を食べる習慣になっていた。母は今その糅(かて)を切っているところだった。

 父は朝早く用足しといって出かけていた。学校は農繁期休校といって、農家の特権のような休みの中だった。

 そのころ家では父の弟で亨という人を、亨兄さんと呼んでいた。何時も職人と一緒に木羽を割っていた。義英兄さんは、学校から帰ると父達の仕事場へ出かけて、木羽を背負って来る事が多かった。友一兄さんは、風呂敷包みの学校道具を玄関の上(あが)り框(かまち)に放り投げるようにして、前の沢へボヤ釣りに行く事が多かったが、母の手助けも良くやっていた。私は山遊びが好きで、よく山百合や珍しい植物を取って来ては、座敷の外の角に坪谷(つぼだに)を作り移植した。一坪の植物園を作り、姫百合・桔梗・岩松と、変わった植物を移植して鑑賞する、こうした所を坪谷と呼んでいた。

ご飯を炊きながら、母と叔母とは何やら話し合ったりした。朝食を済ませると、私は叔母と共に、東の高助桑を取ると、一緒に叔母の家へ行った。叔母の家では、軍八(ぐんば)という中老の老爺が、幼な児を抱いて、莨を吹かしていた。老婆(ばあや)は、囲炉裏の南側の四畳程の土間で、石臼を引いていた。

その日から私は叔母の次男で熊重という子供のお守りをする事になった。

私の家では、みんな、それぞれに、自分で出来る範囲の事を、決められなくとも、分担したような形で仕事をしていた。去年までは兄がやっていた風呂の水汲みを、今年は私がやる。また、来年は弟薫ができれば、薫がやるというように、自然にその役割が決まって行く仕付けだった。そうした仕付けと、祖父の教えがあって、物心付く頃には、何かしなければならないのだと思う義務感のようなものが、心の中に知らず知らずの内に育(はぐく)まれて、私には、特に抵抗感もなく、むしろ叔母の亭主の謙重叔父や老爺(じいや)・老婆(ばあや)が、よく喋(しゃべ)ってくれ、しかも物もふんだんにあってか、あれも食え、これも食えと、いってくれる事が嬉しかった。熊重を負(お)ぶって、保(たもつ)を連れて、よくトンボ取りをした。老爺(じいや)の事を人々は、何故(なぜ)か浅老爺(あさじいや)と呼んでいた。

老婆は南側の四畳ばかりの、むしろ敷きの土間に三尺四方くらいの渋紙を敷いて、石臼を引いていた。唐黍の乾燥したものと、柿の皮の乾燥した物を一緒に石臼で引いて香煎(こうせん)をつくり、私が、熊重を負(お)ぶって外へ出る時、その香煎を茶袋に入れて持たせるのだった。そして熊重が泣いたら、香煎を口に含んで湿(しめ)してから食わせろ、といった。熊重もそれを知ってか、外へ出ると直ぐに、香煎を食わせろとせがむのだった。私は負ぶっていては食わせられないから、少し待てといって、学校の隣に建っている観音様へ行った。観音様の鎮座する、その建宮は、かなりの古代物(こだいもの)らしく、ところどころ回り縁の敷板が剥がれていたが、子供をおろして遊ばせるには、よい場所だった。熊重をおろして、香煎を口に含み湿してあたえようとすると、何ともいえない香ばしい香りと柿の皮の甘味(あまみ)が自分の喉の奥へ入ってしまうのだった。熊重は家にいるとやかましく騒がれるので仕事が出来ないと、私の学校帰りが待たれるようになった。そして私が帰ると、熊重は観音様へ行こうと、せがむようになった。

観音様へ行くには、健次という、村では名士の、少し見当眼(けんとうまなこ)の人が経営する製糸工場の前を必ず通った。その製糸工場で、糸取(いとと)りをしているオチヨという姉さんが、私の姿を見ると、「マーコ、今日も子守りか」と、いつも声をかけてくれるのだった。

熊重は皮膚が弱く時々体のあちこちに、粟粒ほどのおできのような斑点が出来た。近所の人達は、あの子は、皮癬掻(ひぜんか)きだといった。そうした子供だから、他の子供のように放たらかしにはできなかったのだ。熊重を負(お)ぶっていると、背中と腹の温(ぬく)もりで、熊重が、痒(かゆ)い痒いといって泣く。下ろして、痒いところを見てやると帯締めの辺りからボツボツが出来ていた。あまり痒いといって騒ぐので、掻き込んでやると、掻き崩して血が出てきて、ますます泣き込まれて困ったことがあった。それ以来は掻かずに軽くさすったり、軽くもんでやる事にした。夕暮れが近づくと、腹が空いたといって泣く。ふだん小食(こしょく)な熊重は、少し時が経つと物欲しい気分になって、腹が減ったといって泣くのだった。私は最初の中は随分と困らせられたが、次第にその様子が分かって来て、腹が減ったという時には、山の土手などに自生する、すかんぽやどうげというイタドリの軟らかい若芽を取って、自分も食べながら与えると、喜んで、もっともっととせがむのだった。秋になると、栗やアケビなど、子供の喜ぶ山の幸が豊富で、子守りにはよい季節であった。

熊重を負(お)ぶって、痒い痒いと泣かれるのは、とてもつらかった。しかし叔母の家にいると友達が大ぜい出来て、鎮守の森へ行って太鼓を叩いたり、武市君のところへ行って桃を捥いだり、楽しみは尽きなかったので、お守りでの苦労は、さほど感じなかった。

その頃部落では、ほとんどの農家が養蚕をしていた。大抵(たいてい)の家では春と秋との二回飼っていた。ヨテ叔母の家ではその他に晩秋蚕(ばんしゅうさん)といって三度飼っていたので、人一倍忙しかった。養蚕はほんとうに忙しい仕事で、一眠(いちみん)二眠(にみん)三眠四眠と、約六日目で一囲の眠りがあり、四眠で上蔟(じょうぞく)する。その間、桑を取って蚕に掛け与える。裏立てといって食べ残しや糞を取り除き清潔にし、空気の流れをよくしてやらねば病気にかかりやすく、待てしばしがない。中々、手間もかかり、心労の多い仕事である。しかし当地の農家では、他にこれといって収入を得るよい手段がないので、養蚕は金銭を得る唯一の収入源で、どんなに忙しくとも、みんな挙(こぞ)って養蚕をしていた。

 晩秋蚕も上蔟して、蚕室には火鉢に炭火を起こし繭の固くなるのを待つばかりであった。(中略)秋の穫入れも一段落して、叔母の手も楽になってから、私は、木綿絣の着物とモンペと新しい絣ずくめの衣裳を着せられて家へ帰された。謙重叔父が送って来て、母になにがしかのお金を出して、何度も礼をいっていたが、母はお金を受け取らず、桑の金だけはもらって置くといっていた。そして地酒を出して、私に新しい着物を着せて送って来たことの労を犒(ねぎら)っていた。

母の姿

私の家は祖先の誰かに医術を学んだ人がいて、生薬(しょうやく)を造って売り歩いたりして、人々から親しまれた時代もあったとの事だった。その生薬の一部の秘法は、祖父から母へと伝えられ、母は飯塚家の秘薬だといって村人達の求めに応じて造っていた。春先の柴切りが始まると、柴山で転んで腕をすりむいたといって、母の所へ治療に来る人が時たまあった。秋の馬肥ゆる季節になると、背中や頸の辺りにおできが出きた、お尻におできが吹き出して痛くて座れないなどといって来る人もあった。母はその度に先祖から伝えられた秘薬だといって、グリス油のような、女の髪につけるような練り油に、神薬という淡紅色の粉を練り混ぜて造った練膏薬を、楮で作った生紙に延べて貼ってやっていた。

人々は、中野で造る膏薬は良く効く、特に吸い出し力が強いので、化膿するようなおできにはもっともよく利くといって、中々信頼が高かった。

母はまた、人々に頼られると、どんなに忙しい時でも愚痴をいわずに、しかも頼む人に、済まないという気持ちを起こさせないように、笑顔さえ浮かべて薬を造っていた。私そうした母の姿を見詰めて、何ともいえない、偉大な尊さを感じていた。

大石田には、私の家と同じような、木羽割(こばわ)りを副業としている長太郎さん、虎之助さん、周造さんがいて、時々集まって、木羽の割賃や木羽の値段等の取り定めや、原木の購入値の調整会議をしていた。話し合いの終わりには必ず酒宴になり、たいへん騒いでいた。周造という人は家の祖父とは無二の親友で、祖父の在世中はよく行き来して、年越しの晩などは、お互いに紐の付いた懐財布を持ち寄り、今年は俺の方が働き高が多かった、などと、互いに一年の働き高を競い合っては、朗らかに酒を酌み交わしていた。しかし両老人とも、父達の集まりのような大酒はせず、適度の酒で、談笑が多かった。その周造さんも、祖父の死後、いく日もたたないうちに亡くなった 。

 父も亨兄さんも、祖父の弟子達と一緒に仕事していて、見様見真似で自然に覚えたようだった。祖父の亡き後は父が引き継いで、弟子達の面倒を見ていた。そのころ、駒木という奥山で木羽を割っていた。木羽とは屋根を葺く薄い板材料のことで、杉の大木を切り倒し皮を剥ぎ、玉切りといって八寸の長さに玉切ったものを大割、小割と柾目に割って行き、二ミリくらいの薄い板にする、これを八寸幅の束(まる)き箱(ばこ)という型枠で百枚重ねて小束きして一把とし、三把(さんば)束(たば)ねて大束(おおまる)きしたものを一本という。木羽は総べて一本の単位で取り引きされる。父は自分たちの製品にはヤマキ(打込者注、文章では家印)という印を押していたので、世間の人はヤマキ印の木羽と呼んでいた。

宮下部落の南外(みなみはず)れに赤谷川(打込者注、大谷川か)が流れていて、土橋が架かっている。この土橋は、柳津から宮下を経て奥只見方面へ延びる県道の重要な要(かな)め橋であるから、かなり頑強に造られている。丸太を敷き詰めその上に土漏れを防ぐ為の杉の皮を敷き、土砂を部厚く盛った土橋である。橋の麓に橋本屋という食料品から雑貨一式を取り扱っている店がある。店の主人は定次という人で、中老の頭がツンツルテンに禿げているので、人々は禿定と呼んでいた。算盤(そろばん)が達者で、話術がまた上手で、人を引き付ける魅力があった。算盤を弾(はじ)きながら、お客様の気を損ねぬように話している姿は、一種の魔力さえ感じるほどだった。中々商才に長けた人で、禿定の店といえば、近郷近在では知らぬ者がないほど、名の通った店だった。父はこの店と木羽を取り引きしていた。私の家で製産される木羽は、総べて禿定の店を通して、坂下(ばんげ)町、若松市へと売り捌かれていた。

 私の家の前から一反歩程の桐畑を置いて、二尺くらい低地の屋敷に音吉という中老の夫婦の住む家がある。中野ではこの家を下の家といっていた。その下の家の音吉さんは、私の家から橋本屋までの木羽運びを引き受けて、その運賃で生計を維持している人だった。

木羽運びの行き帰りには、家へ寄ってお茶を飲んでいた。私がいると 必ず「マーコ、マ ーコ」と声をかけてくれる人だった。

冬が来る

四年生の秋になった。一雨毎に寒さを増し、かさこそと散る木の葉の音にも秋の深さを 感じ、山の木立にも裸姿(はだかすがた)が目立って、伸びた木の芯辺(しんべ)が寒む寒むと天を突いていた。風が吹くと田舎の秋特有の嵐となって、地面に落ちた枯れ葉が渦を巻いて舞い上がる。裸木(はだかぎ)の肌を掠めて通る風の音が、ヒュウヒュウと心を刳(えぐ)って行く。そんな秋風が吹き過ぎた翌日だった。家のコナシバ柿の葉は落ちつくし、枝に残った柿が淡赤色に熟し、足長蜂や土蜂などが柿の蜜を求めて群がっていた。臭虫が日向(ひなた)を求めてはいだし、筵を敷いての秋蕎麦打ちや豆打ちなどの取り入れの邪魔になるころ、学校では期末中間テストの時期だった。月曜日には書き方のテストがあるという前日に、私はテストに使う用紙を持たなかった。家ではそのころ学校の事はほとんど長兄の義英兄さんが見ていたので、私は、清書の用紙を買うのに金を下さいといった。兄は、お金は大切なもの、只では貰えないのだといって、私を駒木の山へ木羽運びに連れて行った。道中、大石田を過ぎ、名寺坂を登ると、左手に鎮守の森があり、そこを過ぎると、名寺坂の裏へ北へ向かって下る。下(くだ)り切ったところから、山畑や田の庇尻(へしり)の作業山道(やまみち)にかかる。右側の山裾を開墾して大根を作ったらしいところには、育ち後れの取り残された大根が霜を冠って萎えていた。山路には落ち葉が埋(うず)もれて、踏みしだく音が、妙に哀愁を感じさせた。木羽割りの作業場へ着いた時は、既に陽は落ちて、辺りには暮色が迫っていた。亨兄さんと元吉叔父は帰り仕度をしていた。帰りには、製造した木羽を背負って帰る習慣になっていた。留重伯父と泰吾小父は、名入から来ていたので、名入までは通えないといって、山小屋に泊まって仕事をしていた。留重伯父は母の兄で、芋小屋から名入へ婿に来て、泰吾小父は母の又従姉弟(またいとこ)で、黒沢という所から婿に来た人だった。山の夕暮れは早い。日が沈むと辺りの暗がりは駆け足でやって来る。小父さん達は、秋の夕日は釣瓶落(つるべおと)しに暮れるといっていた。

 山に生えている松の木は、地質が悪く育ちが悪い方へ曲がって伸びる。そして曲がった内側の部分は木質が硬く、濃褐色に凍って、揮発性のやにのような油が凝集しているので、よく燃える。小父さん達は、そうした部分の松の木を細かく割って、ロウソク替りに灯(とも)して夜仕事をしていた。時には小説本なども読めるし、山の夜仕事は静かで、思いのほか捗(はかど)るといっていた。また或る時は、夜空があまりにも綺麗で、月が煌々と輝いているので、小屋の入口の扉替りの筵を捲くり上げ、月の光を小屋の中に射し込ませて仕事をしていると、外の木の切り株の上に野狐が座って、首を傾げて小父達の仕事のさまを見ていたこともあったと話していた。

亨兄さんと元吉叔父は兄と私を中にして歩いた。生木を割ったばかりの木羽は重かった。私はその時初めて、木羽を背負って遠い山路を歩いたのだった。家へ着くと兄は駄賃をくれた。一銭銅貨を五枚もらって私は嬉しかった。そのころは、道普請(みちぶしん)などの大人の日当が七十銭で、軽作業の人は六十銭も貰えない時世だったので、私の喜びは大きかった。疲れた体の事も忘れていた。

裏山の葉のない木立の中で、尾の長い山鳥が落ち葉をかき回して、冬籠りの餌を探し求める姿が、二羽三羽と数を増して来た。山烏のそうした姿は、冬近しを物語っているのだと聞いたことがあった。

夕食の時、父は「秋も極度に深まった。そろそろ雪の降る季節も近いから、山を下りることも考えなければ」といった。翌朝御坂山の頂上には、豆絞りの大きな風呂敷を冠せたように、斑らな初雪が降(お)りていた。家はにわかに、駒木の山の山終(やまじま)いにあわただしい動きになった 。私は昨日の木羽背負いの疲れで足が痛く疼(うず)いていたが、テストがあるので学校は休めなかった。学校からの帰り道は雨だった。急ぎ足で中野坂の登りに差しかかって、ふと振り返ると、音吉老が笠も冠らずに荷支受棒(かぜんぼう)を片手に、屈み加減の背を丸めて、馬転ばし辺を急ぎ足で来る姿が見えた。雨の日も風の日も、背を丸めて、荷支受棒を頼りに、黙々と働き続ける音吉老の姿が哀れにも見えた。

 家の木羽葺き小屋から橋本屋までの道筋は二通りあり、その一つは、名入の渡し舟で、只見川を越し、中川(打込者注、中川井か?)の田圃の畦道を通って行く道、もう一方は、前の沢に架かる丸木橋を渡り、鳴雷神という雷神を祀った小さな祠のある、高尾原の北外れに出る急坂道を登り、高尾原を横切って高清水へ下り、只見川に架かる吊橋を渡って行く道とがある。

 名入の渡し舟は、只見川の向こう岸から鋼製のワイヤーロープを張り、そのロープを手繰(たぐ)って越す、網越し(打込者注、綱越しか?)という渡し舟であった。船着場には、喜三郎という人が奥さんと二人で、舟賃を取っており、お客の無い時は、只見川の鮎や鱒などの川魚を漁して生活していた。律儀な人だった。この渡し舟は名入部落の共有物で、毎年春の部落の会合―字会(あざかい)という―の席で入札をして、競り落として勝った者が、その年一年間の権利を行使するという渡し舟である。

 音吉さんは、舟賃が勿体ないからといって、いつも高清水回りを選んでいた。木羽を三本背負って、疲れると荷支受棒を後ろへ回し荷を支えて肩を休めながらまた歩く。年老いた人には苛酷(かこく)とも思える木羽運びを黙々と続けていた。

二学期の期末テストが終わると、四年生に対する大井先生の教育方針が、厳しく変わって来た。来春から本校に通うことになるので、対象となる生徒に対して、居残りの勉強を強化された。分教場教育の質の程度を問われると、先生は心を遣っていることが読み取れた。同級生一同も、先生の意を感じ取り、先生に負けじと頑張った。

寒風が吹く度に、白い粉雪が渦を巻いて視界を遮る。そうした日が幾日か続いて、山里は野も山も白一色の銀世界と化して冬も酣(たけなわ)の感を思わせて来た。半月ほど前までは、四十雀(しじゅうから)や山鳩など、菜畑の種子の零(こぼ)れや、弾けた豆の零れや、塵芥(ごみ)の中の虫など探し求めていた鳥たちが、桐の若木を冬囲いした薦(こも)や茅(かや)に集まるようになった。冬になると、小烏たちも、生きる為には大変だろうと思われた。野鼠(のねずみ)が幹肌を保護した藁(わら)を噛(か)んだり、根元の軟らかい肌皮を齧るのもこのころだろう。形の大きな鳥は朴(ほう)の木のような、概して膚の軟らかい皮をコツコツと啄(ついば)んでいるのを見たことがあった。

音吉さんは雪が降っても相変わらず、木羽を背負って出て行く。北風が激しく吹雪(ふぶ)いて、寒焼山の山鳴りが不気味に聞こえていた。粉のような雪が雨戸に吹き付いて凍っていた。雨戸はさながら白い石綿の壁を連想させる。歳の瀬も押し詰まった夕方だった。「マーコ、マーコ」と二度程呼んだらしい。私は座敷で、弟薫と一緒に、歳神様を祭る歳徳大善神を書いていたので聞こえなかったが、囲炉裏で煮物をしていた母が、「マーコ、下の家で呼んでいると」というので、藁で編んだ踏俵を履いて、降りしきる雪を踏みしめながら、下の家へ行って見た。下の家では、妻のオトラ婆さんがらんぷに火を灯すところだった。音吉老は、作業仕度の山袴を脱いで着替えるところだった。入口を入った、トンボという土間で、「今日は酷(ひど)かったでしょう、何か用ですか」と、声をかけると、音吉老は何やら紙片を持って来て、「マーコこれを見てくれ、今日橋本屋から渡されたものだ」といって差し出した。辺りは闇(やみ)に閉(とざ)されているので、中へ入ってらんぷに翳(かざ)して見ると、それは橋本屋の、正月売り出しと、買物客に対するサービス籤引(くじび)きの案内状だった。私は読み書きの不自由な老夫婦に、出来る限り分かりやすく説明して帰った。

夕方の寒さはまた格別で、手がかじかんで、半ば感覚を失っていた。家では、囲炉裏を囲んで、亨兄さんを含めて兄弟五人が、膝を付き合わせ輪になって焚き火を見詰めていた。母は幼いチトセを負(お)ぶって、歳の瀬の料理作りをしていた。私は手が痺(しび)れるような痛さを感じて、兄達の間に割って入り、囲炉裏の焚き火に手をかざした。次兄が「煩(うるさ)いな」といって「マーコは下の親爺のいう事をよく聞いているが、いい加減にしろよ、何もよいことなどないんだから」と、半ば命令口調でいった。

 高尾原の北道路には、右側の杉林が道路より腰高の高台になっていて、荷物を背負って歩く人には、恰好の休み場所になっている。大石田から、高清水・宮下方面へ行く人は、必ずここを通り、必ずといっていいほど腰をかけて休む。荷を背負わない人でも仲間があれば腰を下ろして、煙草をのんだり、世間話をして休む場所だった。

夏の陽盛りが過ぎて仲秋のころになると、山の木々の生長が止まるので、そのころから杉林の雑木の刈り払いや、植林の手入れが始まる。そんな時の事だった。音吉老は相変わらず木羽を背負って、丁度その場所で休んでいた。友一兄さんが、宮下へ用事に行っての帰り道、休み場所まで来た時、音吉老は休みを終えて起きようとしたところで、何かに押さえられたように起き上がれずに、もじもじしていて、兄が通りかかったを幸いに、「友一、ちょっと後ろを見てくれ」と頼んだ。兄は振り返って一寸(ちょっと)立ち止まったが、直ぐ先を急ぐようにして立ち去った。音吉老は仕方なく荷をおろして見ると、刈り払った柴の切株に荷縄が引っ掛かっていたのだった、といつか音吉老が話したことがあった。こんなことがあってから、友一兄さんと音吉老との仲がよくなかったのだ。

家では賑やかな年越しの夜を迎えていた。ふと下の家の、老夫婦二人だけのヒッソリとした年取りの様などが心に画かれてきて、いつも木羽運びをしているせいか、屈み込んだ音吉老の姿など思いうかべ、可哀相な気持ちに私は満たされていた。母はいつも家の仕事をしてくれるからといって、煮物と熨斗紙(のしがみ)に包んだお金も届けたらしい。

お正月のころ

元日の朝は快晴だった。茅葺き屋根の軒先から寒氷(かなごおり)がぶら下がり、厳しい寒さを告げていた。朝起き雀といわれるほど、私と弟の薫は、朝が早かった。母は祖父(おじや)の仕付けが身に付いているといっていた。お正月三が日の朝は、一番早く起きた者が若水を汲む習慣になっていたので、私は若水を汲んだ。

 「何に汲む、宝汲む、黄金の柄杓で宝汲む」と、唱えながら汲むのである。これも祖父の教えであった。そして三が日宝の若水を汲むと、その労を犒(ねぎら)ってなにがしかのお金が貰えたのだった。私は若水を汲んで外に出た。外はかちかちに凍った雪の上に、粉のような雪が、うっすらと積もっていた。兄達と共に、入口の坂になっている所を段々の階段道にした。お正月の挨拶に来るお客様が滑って転ばぬようにと、亨兄さんが先立って作ったのだ。朝の餅の入った雑炊を食べて、長兄は、屋根先にぶら下がった寒氷(かなごおり)を払ったり雪始末をしていた。次兄は、せいろうの軒に吊した蜜蜂の箱の中に黒砂糖を入れて、蜂の冬越しの餌をやったり、箱を薦(こも)で包んで防寒の手当てをして、蜂を保護していた。私は、弟と共に、亨兄さんの指導を受けて、書初めの筆を持っていた。

 「元日や晴れて雀の物語り」と、何枚か書いて、神棚の下の梁に貼った。そのうちの一枚を持って、下の家に行った。挨拶をして中へ入った。中は筵敷きの今も茣蓙(ござ)敷きの座敷も綺麗に掃除されて、畳は無くとも、正月気分を出していた。神棚は煤(すす)けて黒く光っていた。オトラ婆さんから雑巾を借りて埃を拭き、書初めの一枚を貼った。老夫婦はひじょうに喜んでくれた。音吉老は、お年玉だといって紙に包んだものをくれた。オトラ婆さんが煩いほどに甘酒を奨めるので、囲炉裏の端に寄り、甘酒を飲んで見たが、音吉さんの飲むように造られた地酒で、私には飲めなかった。

音吉じいさん

音吉さんは、膝(ひざ)の上に肘突(ひじつき)をして腭(あご)を支えながら、しばらく考える素振りだったが、湯呑みの酒で口を潤(うるお)してから、「マーコ、俺の昔話しを聞いてくれるか」といって、おもむろに語り始めた。傍らでオトラ婆さんは煮しめのようなものを出して、接待してくれた。

囲炉裏の火は、トコトコと燃えてはいるが、火勢(ひぜい)は弱かった。年中木羽運びで、人並の薪切りをして冬に備える余裕が無いのだろう。オトラ婆さんが枯木を拾い集めて、どうにか間に合わせていたのだ。薪が悪いので炭火は余り出来ず、パチパチと跳ねて、白い灰がゆらゆらと飛んでいた。囲炉裏の縁は大分草臥(くたび)れて、燻(くす)ぶっていた。内側は焦げて、丸くなっていた。その囲炉裏縁(いろりぶち)に、酒の入った湯呑みを上手に置いて、無精に伸びて、半ば白さを増した顎鬚をなでながら、音吉老は語っていた。若い時は磐城(いわき)の山や北海道の夕張などで、石炭掘りで働いた。おもしろく遊んだことも、また人の出来ない高価な仕事もしたことがあり、かなりよい金も取れた。だが坑夫稼業は危険が付き纏(まと)い、つい取れるままに金は遣ってしまう。気が付いた時には、既に、初老の域を越していた。金も財も残せなかった、といって、湯呑みの酒を飲み干した。その素振りが、いかにも寂し気で、子供の私には、一種の教訓めいたものが感じられた。

オトラ婆さんは、労(いたわ)るような目差(まなざ)しで、顔を見詰めていた。そしてそこには、私の想像もつかない、財は成らなくとも幸せな老夫婦の、呼吸の合った姿を見たのだった。世間を渡り歩いた音吉老の話には、楽しかった時の話にも、苦しかった時の話にも、実感が籠っていておもしろく聞けた。

お正月

正月二日の日も、朝から空は晴れていた。昨夜少し降った雪は、わずかに足跡を隠すほどの雪だった。正月三が日くらいは、ゆっくり休む心算だ、という音吉老を誘って、私は、木羽を背負って橋本屋へ行く事にした。私はサービス籤を引いて見たかったのだ。もしかして籤に当たって、何かしら只でもらえるのではないかと。ひそかな欲望があったのだ。木羽小屋には、乾燥して軽くなったものが何本かあった。軽いものを選び出して、音吉さん二本、私は一本背負って出かけた。雪中の高尾原は全く歩く人がなく、野兎を求めて鉄砲を担(かつ)いだ狩人の歩いた、かんじきの跡があるだけで、通れない。私達は名入へ出て小山高清水と、大分大回りして歩いた。白い雪に晴天の陽光が眩(まば)ゆく反射して目がチカチカする雪道を、軽いといっても木羽を背負って歩くのは、ひじょうに骨が折れた。晴天で陽が照っているのに、綿屑のような雪が、邪魔にもならず舞って来る。橋本屋へ着いた時、店の柱時計は十二時半を差していた。店の主人が、初荷を運んでくれて有難うと、音吉さんと挨拶を交わしていた。音吉さんは、「マーコは小柄だが中々我慢強い子だ」と話していたが、私は籤を引きたい一心で行ったので、半ば後(うし)ろめたい気持ちだった。お上さんらしい小母さんが甘酒を馳走してくれた。私は、お腹が空いていたのでひじょうに美味しかった。音吉さんは甘酒の中へ清酒を混ぜて、うまそうに飲んでいた。私は、紙面と鉛筆を運賃だけの買物をして籤を引いた。景品は殆ど食品だった。音吉さんは、「俺あお金の方がいいよ」といって、運賃を受け取って、帰りの用意をしている。その時、ふと私は昨日紙に包んだ物を頂いた事を思い出した。胸のポケットに入れて忘れていたのだ。取り出して見るとお金が入っていた。私は思わず、「これだ」と声を出した。音吉さんを促(うなが)して、その金で買物をした。そして、「これは音吉さんの分だ」といって籤を引いた。樽詰めの醤油が当たった。音吉さんは大喜びして、醤油樽を背負って帰路についた。酒の勢いもあってか、戻り道の足は軽やかに早かった。私は息を弾ませながら、追い駆けるように小走りに歩いた。途中何度か足が外(そ)れて膝まで潜(もぐ)った。

 音吉さんの、無情ともいえる足捌きに辟易(へきえき)しながら家へ着いた時には疲れ果てて、朝の元気はなかった。夜になって音吉さんは、醤油二本持って、正月の挨拶に来た。籤で取ったものを分けて来たといっていた。

 父と亨兄さんは大石田へ年始廻りに出掛けて、まだ戻らなかったが、母は酒肴を出してもてなした。兄達も、音吉さんの世間話を聞きながら、飲むともなく、杯(さかずき)を差し合って、お酌をしながら相槌を打って、話し相手になっていた。音吉老はほんとうに快さそうに、酒も回ってか、目を細めて、相手をしている兄に、「友一 、友一」と何度も声をかけていた。次兄も、日頃の不協和が解消したように、音吉老の一句一句に耳を傾けていた。かつてこれほどまでに快さそうな音吉老の姿を見た事はなかった。母は台所の窓を明けて、雪越しに、「八千代、八千代」と、隣の八千代姉さんを呼んでいた。

八千代姉さんといえば、春の柴切りの時だった。私は、柴を切っても結束(けっそく)が出来ず、苦労したことがあった。束ね木が折れたり弾けたりして、どうしても束ねが出来なかった。少し離れた所で柴を切っていた八千代姉さんが来て、教えてくれた。親指大のサンダンメシという樺色の肌艶のよい柴を切って来て、枝の所を左足で押さえ、両手を上手に使って、捻って見せた。二度三度捻ると、その部分が藤蔓のように軟らかく自由になる。そうした仕草を、手をとって教えてくれた人である。隣のテル小母さんの長女で、赤味を帯びた、おかめのような顔立ちをしていたが、朗らかで悪気の無い、隣家の中では一番気の良い人だった。母はその八千代姉さんに、正月の馳走をしたいと呼んだのだった。しばらくして、テル小母さんが来た。年始手拭を出して、母と挨拶を交わしていた。そして八千代は風邪で寝込んでいるからといっていた。

母は下の家のオトラさんをも呼んで来た。亨兄さんも帰って来て、茶の間に馳走のお膳が並び、家ではにわかに賑やかな夜となった。母は芋小屋という所から嫁いで来て、隣のテル 小母さんは桑の原から嫁いで来て、又オトラさんは成沢という所から来ている人で、共に同じような境遇を持つ者同士とでもいうのか、集まると、何かしら知らぬところで気が通じ合うのだろう、さかんに談笑して、唄い始めた。テル小母さんは、話題も豊富で、唄も上手だった。私は母と一緒に桑摘みなどした時、よくサノサ節やオバコ節など、味のある声で唄う母の唄を聞いていて、母は唄が好きで、しかも上手だ、と思っていたので、母に引けめは感じなかった。音吉さんも、酒が手伝ってか、聞いたこともない唄で咽喉を鳴らしていた。

ひとしきり賑やかに騒いで、母はみんなに、お雑煮餅を馳走した。音吉さんはほんとうに 酔(よい)が回ったように顔を綻(ほころ)ばして、これほど楽しい正月は生まれて初めてだといって、オトラさんを杖に帰って行った。

若正月が過ぎて、十五日の餅(打込者注、望か?)の正月が来ると、各家庭では、団子串の行事が習慣になっている。その年の豊作を祈念しての行事である。山から癸(みず)の木を切って来て、枝先の柔らかい部分を折り取って、蕎麦団子(そばだんご)や米の団子、餅を搗いて薄く延ばし、二寸くらいの短冊の切り、捻ったものを稲穂(いなほ)になぞらえて癸の木の枝に差し、座敷・茶の間・居間・台所と、家の中を、見事な満咲風景で祝って楽しむ。人々は隣に負けじと、より大きいもの、より枝振りのよいものと、競争意識をあらわに癸の木を切って来る。折り取った捨て枝で子供たちは、鍵引っ張りなどの勝負を競って遊ぶ。正月の年始回りや、種々な行事と地酒の飲み合いで、和やかでも一面煩雑な若正月より餅(打込者注、望か?)の正月になると、まだ正月気分は抜け切らず、大人たちの混雑から解放されたように、若者達の間では、百人一首の歌留多会などがさかんに行われる。また、雪の堂を作り、その上で、「イヤホー、イヤホー」と大声で鳥追いもする。雀などの害鳥が、夏の作物を荒らさぬようにとの願いをこめた鳥追いである。

 風穴(かざあな)という雪の洞窟(どうくつ)のような雪小屋を作り、近所の子供等が集まり、小屋の中で家事遊びする。餅を焼いたり、餡こ団子など作り、大人たちを呼び馳走する。この風穴の家事遊びは、ここで食事をすると、その年は疫病にかからないという言い伝えがあり、いずれの人も好んで呼ばれて来る。呼ばれて来る大人は、何がしかのお金を包んで来るので、子供らは一心になって馳走したものだった。その他にも餅(打込者注、望か?)正月の古くからの行事で、忘れられない事がある。団子串の団子を茹(ゆ)でた、半ば白く濁って、糊のようになった茹汁を、注(つ)ぎ口の付いた銅製の燗鍋に入れて持ち、縄紐を長めにし腰に付け、縄紐の一方の端に横槌の柄を結び、燗鍋の茹汁を撒きながら雪の中を横槌を摺引(すりび)きながら家の回りを歩く。「横槌様のお通りだ、モグラモチ出んなよ、長虫は来るな」と唱えながら歩く。梅の木の側を通る時は、梅の木に茹汁をかけ、「梅よ今年も一ぱい生れよ、生らぬと切るぞ」といって、腰に付けた鉈で切り付ける真似をして通る。餅(打込者注、望か?)正月のころは寒さも厳しい為に、さらさらした雪がかなりの量で積もっているので樏(かんじき)を履いて屋敷内を回り歩くのはたいへんな仕事だった。私も三年生ころから、実際に横槌を摺り引いて歩いた事があった。しかし横槌が雪の中に埋(うず)まって摺り引く事が出来ず、背負って歩いていると、兄が大笑いした事があった。

 こうして横槌を摺り引く事によって、モグラ、ネズミが出ない、茹汁を撒く事によって蛇や害虫が寄らないという、一味違った呪(まじな)いのような仕来たりである。

春が来る

餅の正月(打込者注、望か?)が過ぎると月日の流れが早く感じる山里だった。降る雪も、粉のような、さらさらした雪から牡丹雪に変わって、夢のようにお彼岸が近づくのだ。お彼岸が近づくと、日向(ひなた)の雪の上には雪虫がうごめいて、中野坂の杉の枝が伸び、葉に積もった雪が緩んで落ちる。たまたま下を通る人に、突然の落雪が衿元から背中まで溶け込んで流れ込む。こうした笑えぬ笑話も起こる。学校の勉強もそのころからはげしさを増して来たのだった。先生の気迫に押されて、みんなも懸命に努力したのだった。そのころの学課は、国語は読方(よみかた)、数学は算術、書道は書方(かきかた)、音楽は唱歌といった。私は唱歌が一番苦手な課目だった。

学期末唱歌のテストは、先生がオルガンを弾き、それに合わせて、ドレミファソラシド、と独唱する採点方法だった。私は、音に合わせようとすると、どうしても声が出にくく、だみ声になってしまうのだった。それでも、どうにか歌い終わる事が出来たが、心の中は、最低だなあと、恥ずかしい思いだった。私の他に、唱歌の苦手な留五郎君がいて、留五郎君は、「ドレ、ドレ」で先へ進まなかった。私の心は、救われたような気持ちと同時に、友人に対する同情の気持ちとが、入り乱れていた。

学年末テストも終わり、卒業式の前日、先生は四年生全員を職員室へ集め、一人一人に、悪いところやよいところを克明に説明して、五年生になってからの取り組み方など注意された。私の唱歌は丙だった。しかし私は悪い課目よりも良い課目が多かったので嬉しかった。

お彼岸が過ぎると、山里の生活は、にわかに活気に満ちた、しかもあわただしい毎日が始まった。

山里の人達はほとんど旧暦を用いていた。お彼岸ともなれば、陽脚(ひあし)が延びて、肌に触れる風もなんとなくやわらいだ温もりを感じる。これまでに降った雪は、次第に締まって硬さを増し、後から降る雪は夜が多く、夜は寒(かん)が強いので、さらさらした軽い雪で、しかも量は多くない。そうした硬い雪の上に軽い雪がさらりと積もるので、兎や狐など山の生き物は駆けやすくなる。またこのころになると、冬の眠りから覚(さ)めた生物が餌を求めて頻繁に駆け巡(めぐ)る。桐の若木など齧(かじ)られて被害を受けるのもこのころからである。

兎は一度通った道をまた通る習性があるので兎道ともいう。狩りの好きな者は、そうした習性を利用して、兎道にツボをかけて兎を捕る。細い針金で、兎の首が自由に入るくらいの輪を造り、兎道に吊り下げて置く。罠のようなツボである。兎はそのツボに首を突っ込んで締められる。もがけばもがくほどに、首を締められるのだ。私の友人からも、ツボで兎を捕ったという事を何度か聞いた。しかし私は、ツボ針金で首を締めるというような、残忍な、気味の悪いツボかけなどはやれなかった。

勝負沢の入口に、家の梨の木畑があって、東南側はおよそ三メートルくらいの低地になっていて、梨の木畑の土手になっている。この土手は陽当たりがよく、よそに先駆けて、春の雑草が芽を吹く所だった。お彼岸ともなれば、土手の上の方は雪がずれて、雪の空洞が出来た所から、黄緑の草の芽が、微かに覗かれる。兎などは、こうした所をいち早く見付けて寄って来るので、梨の木とその横にある高助桑の木との間が兎道になっていた。

私は、五年生の新学期が始まるまでの束の間の休日を、雪の上を滑って遊べる橇(そり)を造ろうと、桜の木を求めて、勝負沢の山へ出かけた。晴れた日の朝だった。昨夜少しばかり降った雪が、古くなって黒ずんだ硬雪の上を、見事な白さで覆(おお)っていた。梨の木畑の所を通ると、高助桑の根元で、白い物がうごめいていた。十間ほども距離はあったが、野兎だと分かった。兎は後ろ足と尻尾のところにツボがかかって、抜け出そうともがいていたのだ。もがけばもがくほど針金の輪がせばまるので、兎は目玉を大きく見開いて、血走っていた。私は、気味は悪いし、どうしてやろうかと戸惑(とまど)って、しばらく立ちつくしていた。その時、隣のテル小母さんが、急ぎ足で来た。テル小母さんは、「昨夕(ゆうべ)俺(おれ)がツボをかけた、誰か歩いた跡があるので、もしや取られはしないかと思って急いで来た、マーコだったのか、兎はかかったか」といい、手には二尺ほどの棒切れを持っていた。私は無言で、なすべき事を知らなかった。

テル小母さんは兎を見付けて、「かかった、かかった」といいながら傍へ行き、持った棒で、いきなり殴(なぐ)った。そして、これでもかこれでもかと、めったうちした。私はその打ちのめす姿を目(ま)のあたりに見て、狂暴な恐ろしい戦慄を感じて、桜の木探しをやめて家へ帰った。その晩、テル小母さんから、「マーコ、肉料理ができたから来いよ」と呼ばれたが、私は行く気になれなかった。そこで兄達に頼んだ。次兄が喜んで、肉料理など、めったに食えないから、といって呼ばれて行った。

彼岸月の月末ごろから、山里は概して好天気が続く。たまたま降る雪も湿めり気が多く溶けやすい。日中の陽射しで溶けた雪水が下積みの雪にしみて、夜の寒気で凍る。翌朝は硬雪となって、雪の上を渡り歩いてもぬからない。そうした状態の硬雪が昼頃まで続く。人々はその硬雪を利用して、苗代田や秋蒔き野菜畑など、早く雪を消したいところに黒土撒きをする。土手など雪の薄くなったところを掘り起こし黒土を取り出し、橇で運び撒く。黒土は太陽の光熱を吸収するので雪が早く消える。人々はこうしていろいろな工夫をこらして仕事をする。黒土撒きが終わると、山に積んで置いた薪(まき)運びが始まる。薪運びも橇で運ぶ。背負って運ぶ量の五、六倍の量が一度に運べるので、橇は農家の大切な農具である。だから人々はこぞって、質の良い、おのれとか桜などの強靱(きょうじん)で滑(すべ)りのよい橇を求める。薪運びが終わると、新たに来年に備えての薪切りが始まる。こうして年送りに燃料の確保をする。飯を炊く、煮物をする、風呂を沸かす、冬は矩撻(こたつ)の火まで、総べて薪を使うので、山里の人逹は、貧乏は薪から始まるとまでいう。薪を確保する作業は、山里の大事な仕事である。南向きの山は陽当たりがよく雪の消えも早い。雑木の息吹きも早く、他山の木にさきがけて、木質が柔らか味を帯びて来る。早々と万作の黄色い花が咲いてくる。鉈(なた)の切れが自然よくなる。こうした自然の理法を身につけて人々は、われ勝ちに陽当たりのよい場所を選んで山へ入る。

山で柴切りが始まると、それまで雪で閉ざされて、家の中で草鞋(わらじ)作りや蓑作りなど、藁仕事で押さえつけられていたエネルギーが、甦えったように発散されて、あちらこちらで唄声が聞かれる。山里の人達にはこの時期が、晴れ晴れとして心の和む一番の時期かも知れない。

学校の始業式にはまだ数日の休みが残っている晴れた日の朝だった。父が、兄達と私に鉈を一丁ずつ渡してくれた。柴切りに行って来いということだった。兄達は早々と出かけた。私が一緒について行こうとすると、足手纏(あしでまと)いになるからといって逃げるように出かけたのだった。私は新しい鉈の切れ味を試しに入口の寒椿(かんつばき)の枝を切って見た。あまり切れ味はよくなかったので、街道の堀の流れで鉈を研いでいると、村の若い小母さん達から、「マーコ、柴切りに行くなら一緒に行こう」と、声をかけられた。私は後からついて勝負沢の山へ行った。寒焼山へと続く東南向きの山だった。ところどころに雪が残っていて、雪で押し潰された柴木が、日射しで雪が緩むと、勢いよく跳ね起きる。すると残りの雪は、ザザッと音を立てて、雪の塊りが、砕けながら谷へこけ落ちる。こうした光景は、雪国の春の柴山ならではの景観である。

昼近く、心地よい、麗らかな陽射しを浴びて汗をかいていた。柴切る手を休めて汗を拭いていると、唄声が微風に乗って聞こえて来る。のどかなさわやかな唄声だ。

わたしゃ若いころ、二十四五のころ、山の草木も、なびかせた

一緒に誘ってくれた小母さん達の、掛け合いで唄っている唄声である。

来春橇で運びやすい場所へ柴を集積して柴切り作業は終わる。柴切りが終わるころにな ると、田畑の雪も消え、いよいよ野も山も山里の本当の春になる。車峠の、コブシの白い花が、美事に咲き競い、万作の黄色い花が、わが世の春とばかりに、花筵を敷いたように山を覆い、早咲きの山桜も、伴(とも)を誘うが如く、鮮やかな淡紅色の花を目立たせてくる。畑にも、野ビル・蕗のトウ・タンボボ・カタクリと競い合って、春を楽しんでいるような風景になる。このころになると、私はカタクリの球根を取って焼いて食べ、母はカタクリ粉を作り保存し、急場に備えるのだった。母がカタクリ粉を作る姿を見ると、私は、いつも思い出すことがある。

それは、ある年の瀬も押し迫って、寒い吹雪の日だった。学校帰りの途中から、背筋が妙にざわざわと悪寒(おかん)がする。家へ帰るとはげしく頭痛がして、寝込んでしまった。母は大椀という、栃の木を手掘りで刳(えぐ)り取って作った底深い黒塗りの椀に、保存のカタクリ粉を熱湯で掻き混ぜ、ねっとりとした飲物を作り、富山の置き薬と一緒に飲ませてくれた。小一時間も寝ていると、全身から汗が出て来た。母は汗を拭き取り、看病してくれた。翌朝すっきりした気持ちで学校へ行けた。私は、あの時の、白く水色で透き通るようなカタクリの飲み物を忘れる事は出来ない。

山の木の芽が伸びてくると、楤(たら)の萌え芽や、あけびの若蔓(わかつる)、五加(うこぎ)の若芽など、みなおかずの材料になる。新鮮で口触(くちさわ)りがよく美味しいのである。ワラビやゼンマイなどの収入を当て込める山菜採りも、この頃から盛んになる。村人達は、木の芽や、草の伸び具合で、春の深さ、時の流れの度合いを知り、苗代に籾種子蒔き、茄子や胡瓜の種子を蒔く。

五年生の新学期

街道沿いの堀の土手の、つくしんぼや蕗のとうなど、春の珍味が食膳を賑わす頃、五年生の新学期が始まった。大石田の同級生は、一人の欠員もなく、本校へ通い始めた。

本校へ通う道順には、村道を通るのと、車峠を越して行く道とがある。村道を通れば、大石田の村外れに鎮座する地蔵様の前を通り、皀莢坂(さいかちざか)を下り、前の沢、千本林、白岩と、景色の良い場所を通って行く。途中の千本林とは、村の資産家の杉の大林があるところからその名がついたようで、また、白岩は、山を掘り割って作られた道路で、掘り割った岩山が石灰岩のように白いので付けられた場所である。この白岩には、清水の湧出する場所があり、土耀日の学校帰りには、ここで弁当を食べながら、思い思いの将来の事や、抱負を語り合うことが多かった。また、この白岩は景観が勝れて、上方の岩から、年を経た松の古木の枝が、道行く人の頭上まで差しかかり、いっそう、風情を添えていた。ここから南を眺めると、只見川を挟んで、向かい部落の川井、大登と宮下の一部が望める。この村道を通ると二十四丁の道程(みちのり)があるので、夏日には一般に敬遠され勝ちである。車峠の道は、柴切りや資産家の造林を主とした山路でも、冬は雪が深く通れないが、雪が消えると、峠越しだけと距離が短いので人々は好んで通る。荷を背負って、峠越えをする人も夏日には多い。物言わぬ木の茂みが照りつける日光を遮り、日陰が優しく迎えてくれるので、登り坂道の辛さを忘れてみんな通る。峠の下りは西方に面して、下り切った所に西方部落の田面が開けている。ここが西方部落の穀倉地帯である。峠の麓近くに堤という貯水池を築造して、耕地の用水に使っているところがある。私達は、夏日の学校帰りには、この堤で水泳ぎをして楽しむのだった。

四月の半ば過ぎても、通学路の杉林が延々と続く日陰には、曇りガラスのように凍った雪が残り、山側の雪は早く消えて薄くなり、雪の路面が傾斜になり歩きにくい。雪どけの水は地面を流れるので、地面と雪の路面との間がうつろになり、不用意に歩くと踏み抜いて、靴もモンペの裾もグッショリと濡れる。誰しもが経験する、春の雪路の災難である。

本校での私達五年生は四十五名だった。分教場時代は十名で、一年生から四年生まで全員合わせても四十名足らずだったので、流石に心の持ちようが変わってきていた。分教場時代、私は、さして勉強はしなかった。四年生の期末になって、先生が気合いを入れてから初めて勉強らしい勉強をした。本校へ通い始めてから、中々理屈達者や、強者(つわもの)が多くいるような気がして、うかうか出来ないと思うようになった。しばらく通学すると、誰いうとなく、大石田から通う生徒の事を、梟村(ふくろむら)の誰々(だれだれ)といい始めている事に気付いた。大石田は、行きどまりの部落で、その先はなく、袋に入ったようなものなので、袋と梟をもじって梟村という事が分かった。

大石田と高清水から通っている生徒は、足腰は強かった。共に二十四丁の道程を往復しているので、自然に足腰が鍛えられていたのだ。雨天の体操の時間には、室内運動場で、よく相撲の勝ち抜き戦をやった。担任の江川先生は柔道二段の先生で、相撲が大好きだった。大石田から通う生徒は、小兵でも、必ず三人くらいは勝ち抜くので先生にもよく親しまれた。こんな事から、いつか知らずに、梟村という渾名(あだな)も消えて行った。江川先生は坂下町(ばんげまち)から赴任して来られた人で、田舎の風景がまたお気に入りで、折りにふれ、校外教育といって山遊びをした。校舎の東北に位置して岩倉山が聳え、頂上の三十畳敷きほどの平地には鬼子母神を祀る小宮が建立(こんりゅう)されていた。子育ての神とて近隣の母子の信仰が厚く、縁日ともなれば、上り下りの老若男女の別なく参詣人の列で賑わっていた。頂上の宮の辺りには小店も出るという、繁盛振りだった。校舎の西は百メートルほどの小高い丘が唐破風造りの宮を擁し、五穀豊穣を祈願する、稲荷大明神が祀られている。神社の境内の稲穂をくわえた石造の狛狐は有名である。校舎の南面を流れる只見川は、川床の石まで浮き立たせて見える、清らかな川で、鮎も住む、山里でもまれに見る山河の佳郷である。こうしたよい環境に心を添えて、校歌を作ったのは江川先生である。

紅顔秀麗の若人が 右手(めて)に文化の灯を掲げ 闇は消えよと呼ばはりつ

とは、その校歌の一部であるが、当時私たち山の学校の生徒には、胸のときめきを感じさせる作詞の出来栄えに、先生の人柄が偲ばれて、おおいなる信頼を寄せていたのであった。私は、学期の進むにしたがって、勉強せねばならぬと考える心が強くなっていった。しかし家では兄弟が多く、いつも家の中は賑やかで、勉強する機会がなかった。そこで思い付いたのが、二階に自分の勉強室を造る事だった。家の二階は、東側と西側が東屋造りになっていて、障子が開け閉めできるように設計されているので、明り取りには支障はなかったが、囲炉裏で薪を燃すので、二階は隅から隅まで、黒一色の煤だらけで、しかも養蚕の道具や、不必要になった雑物などの物置き倉庫になっていた。東側には登り梯子が取り付けてあるので、物の出し入れに、随時誰かが登り降りし、東側は駄目だった。そこで、少し回り道になるが西側に造る事にした。

家で見つけた古文書(こもんじょ)

煤を払い、二坪ほどの屋根裏を片付けていると、古びた手本のようなものが出て来た。破れて、表紙が剥がれて、しかも煤けて、正確な本とは見えなかったが、思いもよらぬ達筆の字くばりが読めた。

学問するの心得は、心を正し身を清め、

忠と孝とを弁(わきま)へて、御国の為を思ふ可し

と書かれていた。また、もう一つあって、それは青い表紙であったような感じの本で、生紙を袋綴りにしたようたものに、

おしなべて、刺し毒虫は酸性ぞ 中和する為、アンモニアよし、

と、歌本のようなものだった。その夜、私は、それ等の書物を父に示して、何の本かと尋ねた。父はその書物を手にして、暫く感慨深げに見ていたが、青(あお)がかった本を示し、「これは、医者であった祖先が持って歩いた医術の本だ」といった。もう一方の本は、父が寺子屋で学んだ教科書で、明治時代に父たちが、お寺の一室で学んだ、その時の模様などを話してくれた。

祖父がまだ生存中の事だった。私たち兄弟を集めて、いろいろな話を聞かせてくれた事があった。その時の話の中で、家を建て庭を造った話があり、「東に桜、西に梅」という言葉 が、何時までも心に残っていた。その東の八重桜が、遅咲きながら満開になっていた或る日、傍わらの柳沢の柿の木も新芽が伸びて、二、三枚葉を付けていた。その柿の枝に体の大きい、むく鳥が二羽止まっていた。私はそのむく鳥の動作を見ていた。むく鳥は時々飛び立っては、八重桜の花を啄ばんでいる。花の芯を食べているのだった。桜の木の上では、春つばめが三羽、空中で宙返りしたり急降下したり仲良く戯れていた。

毎年、春になると、家の燕も来て、玄関の梁上に巣を造り雛を育てていた。雛が成鳥して飛び立つと、親子して、しばらくの間、柿や桐の木の問をくぐり抜けながら遊んでいるのだった。毎年そうした事をくり返していた家の燕が今年は来なかった。どうしたのかと気にな っていた。

長兄の死

チラリチラリと、春特有の、名残惜しそうな花雪も飛んで来なくなって、駒木の山の木羽割りがまた始まった。長兄の義英兄さんは学校を卒業して、職人や亨兄さんたちと一緒に木羽割りを始めたが、百姓仕事が、母の手だけでは出来ないので、農作業をすることが多くなり、その合間に、音吉さんと共に、木羽背負いするようになった。体格が良く、音吉さんに 負けじと、三本の木羽を背負って、日に三回も歩く事があった。駒木の山も、もう少しで終わると、亨兄さんが言っていた 。

麗らかな春の風が、いつしか暑さを運んで来て、草木の茂みが、人々の緩やかな気持ちを忙しい、慌ただしさへと駆り立てて、本格的な農作業と蚕飼いの季節となり、桑の入った竹籠を背負って駆けて行く村人の姿も見られるようになったころ、長兄は、足が痛いといい出した。

宮下の細堀医者は、関節リュウマチといって貼付(てんぷ)薬をくれた。しかし兄の足痛は、悪く進むばかりだった。父も母も心を砕いて、神頼みも始まった。柳津の虚空蔵様へ病気平癒の祈願もした。父は青木医師を呼んで、診(み)てもらった。青木医師は西方の人で、柳津にも診療所を持ち、西方と柳津を乗馬を利用して行き来していた。

青木医師が再度来て、額に皺を寄せ、顔を顰めていた。その時から、家の中はにわかに慌ただしい動きに変わった。障子の破れを貼り替え、茶の間の病室には七輪に炭火を起こし、金盥(かなだらい)に湯を沸かし、室内に湯気を立て込め、湯で絞ったタオルを胸に当て、温湿布をする。叔母さん達や親類の人達が、入れ替わり立ち替わり見舞いに来た。足の痛みの為に肺炎を併発したのだった。私も心配で、長兄の枕元で、ずっと様子を覗いていた、すると長兄は、枕元の障子を指差し、「子供が大ぜい、そこに来ている」と目を閉じたまま言った。が子供など誰もいなかった。母は、熱に浮かされているのだといっていた。

そうした日が幾日かして、長兄は亡くなった。その枕元で、母は、「木羽背負いが悪かった、木羽背負いが悪かった」と、何度も何度も涙を浮かべて呟いていた。私はその痛ましい母の姿を見て、耐えられない思いだった。長兄の死後問もなく、駒木の山は、割り尽くして終った。

父は次の仕事場を、分教場の裏山で、こだこという所へ移した。そのころから、元吉叔父

は、自宅から近いということもあってか、父の計らいでか、山で玉切ったぼたを自宅に運び、

自立して木羽を割るようになった。

亨兄さんも、長兄の死後は、もっばら農作業に専念するようになった。父は弾(はず)みをなくしてか、仕事を休んで、用足しといって出歩く事が多くなった。

私は長兄の死に際して呟いていた母の姿が脳裏に焼き付いて、いよいよ木羽背負いの辛さが思いやられるようになり、何とかならないものかと考えていた。

春も終わりに近い、或る放課後の事だった。稲荷の山の杉森の天辺で、烏がはげしく鳴いていた。私は、烏の鳴き声にも、幾つか種類があって、平和の鳴き声、変事の鳴き声、不吉の鳴き声とがあると聞いた事があった。

それは私が二年生になったばかりの春の事で、何時ものようにその春も村には神楽が来て、村では一、二といわれる大きな平助という人の家で夜席があった時のことだった。村中の人々が、夜神楽を見ようと詰めかけた。私も、兄達と共に出掛けた。庭も道路も人で埋まっていた。私が道路の石垣に腰掛けていると、イソ叔母さんの姑、ツルヨ婆さんが私を見付けて、「俺(おら)えのフジエも居るから中へ入ろ」といって、私は連れられて入った。家の中は満員だったが、ツルヨ婆さんは、俺えのマーコだからと、家の者に話し、割り込ませてくれた。大分時間が経ち、神楽芝居では一番出し物の烏刺が始まって、「コノコノコノヨイコノナ、このオ烏を差したなら、何の罰が当たりませよ」とおもしろおかしく、神楽人は芸をつくしていた。が私は、うとうとして、夢の中で聞いているような気持ちだった。ツルヨ婆さんが、「マーコ、眠くなったら帰ろ、毎年見ているから俺も帰る」といって立った。

叔母の家でねかされた翌朝、神楽の太鼓の音で起こされた。叔母の家の流し場は、裏側の流れをそのままに引き込んであり、薄暗い流し場で顔を洗っていると、叔母さんが、「昨日 は神楽だから、小豆飯を炊いたが、残り飯だが食べるか」と聞いて来た。私は小豆が入って、赤く色付いた飯が好きだったので、「大好き食べるよ」といった。叔母さんは、大きな鉄鍋の炊き立ての飯の上に小豆飯を載せて、温めてくれた。

朝飯になるまで少し時間があった。ツルヨ婆さんが、「同じ年だから二人とも、どのくらい育ったか背比べして見るか」といって、フジエと私を茶の間の柱を背に立たせ、竹製の鯨尺という物差しで計った。そして「マーコは一寸低い」といった。私は、なんだか引け目を感じるような、一瞬不快感を覚えたが、実際にフジエは大きかったので、仕方がなかった。ツルヨ婆さんは、大柄の体に、深く刻まれた皺額(しわひたい)にはいつも微笑の失せない、爽やかな面影の人だった。人の面倒見のよい性格で私は好きだった。

神楽が出て行くというので外へ出た。太鼓の音で浮かれ出したか、明けの烏が、あたごの山でカアカア鳴いていた。烏の鳴き声についての話を聞いたのはその時だった。「神楽が来 て、村の悪魔払いをしたから、烏でさえも、今年は安全だと、いっている鳴き声だ」とツルヨ婆さんはいっていたっけ。

そうした過ぎし日の事が私の脳裏をかすめて、思うとも無く、稲荷の森で鳴く烏の声を聞いていた。そしてただぼんやりと、校庭の片隅にたたずんでいた。長兄の死後、私は、何か物忘れしたような、杖を失ったような気持ちだった。知らぬ間に、先生が、そばに立っていた。先生に促されて稲荷の森へ行った。狛狐のかたわらの石畳に腰かけて、先生が話して下さった。昔の偉かった人の話、或る坊さんの話、生ある者は必ず滅する、形有る者は必ず毀れるとか、いろんな話をされて慰め、元気を付けて下さった。そして、人間は悲しみにとらわれるよりも、むしろ、その悲しみを乗り越えて、発展的な明日を見いだす事が、より大切な事だと、諭された。

私は、兄の死の元になったと思われる木羽背負いの事や、母の姿、そしてこれからも続けなければならないだろう木羽運びの事に、何かよい手段(てだて)はないだろうかと、先生に縋(すが)るような気持ちで尋ねた。先生は、大石田の道路は坂道で、出来るかどうかは分からないが、今、里平では、リヤカーが流行して、労力を省く農具として使われているといわれた。私は、そのリヤカーを見た事がなかった。先生に頼んで、土躍日の先生が帰る時一緒に行って見せて頂く事にした。

坂下(ばんげ)の町は、さすがに開けた町だった。商店の繁盛振りも、目を見張るばかりだった。町外れの、田圃が一望に見渡せる所に、一軒の鄙(ひな)びた農具店があって、リヤカーを三台置いてあった。一台は中古だと店の番頭らしい人がいった。私には、どれを見ても塗りたての新しい物に見えたので、聞いて見た。店の人は、中古といっても、車のタイヤかベアリングに損傷がなければ、ペンキさえ塗り替えれば新品と同様だが、中古を黙(だま)って新品として売る訳にはいかないといっていた。番頭と思った人が主人だった。中古のもので二十円だといった。先生はその時、僕の月給は二十円しないんだといった。

江川先生は、坂下町から西方まで通勤出来ないので、ふだんは学校の宿直室に泊まって いて、土曜日の午後家へ帰っていた。私はその機会を利用させて頂いたのだった。

先生が勧める町見物を、そこそこに切り上げ、懐中電灯を買って帰った。柳津からほとんど夜道になった。初めての電灯の光が珍しく、足取りは軽かった。日進月歩と、何かの本で読んだ事があったが、正に日々進歩している世の中を見たような気持ちで、心は浮き立っていた。提灯で歩いている姿と、電灯の姿と思い比べたり、次から次へと発展する幻しのようなものが頭の中を駆け巡っている中(うち)に家へ着いた。

ホトトギスの話

夏の日の暑さに輪をかけて、ミンミン蝉が鳴きしきっていたのに、何時しか夕方にはカナカナ蝉のひぐらしが鳴くようになって、何となく涼を呼ぶ。蝉の鳴く声にも、時の流れを知らされる。うつり変わりのはげしい時世でも、村人たちは相変わらず、仕来たりの秋蕎麦蒔きの準備を始めている。彼方此方(あちこち)で、蕎麦焼畑焼(そばかのや)きの白煙が立ち昇り始めた。夜には、窓越しにコオロギやスイッチョンの虫の啼き声が、秋だ秋だと告げていた。そうした頃の夕暮れ近くだった。時を間違えたのか、ホトトギスがけたたましく体にひびく鳴き声を残して雲の中に消えて行った。そのホトトギスの事で思い出していた。

それは去年の皐月(さつき)も半ばのころだった。植え残しの滝の和合の田植えに、母が私達兄弟を連れて行った時の事である。滝の和合の田は、傾(なだ)れた谷の、幅三十間、上下へ五十間くらいの中に、六十枚ともいわれる段差の豆田が、入り乱れて作られた、ほとんどがへどろの、何時も水の乾かない田で、所々に底無しの田もあり、丸太などを十文字に入れて、丸太の上に乗って作業をする田もあった。底から湧き上がる水の上に泥を浮かせたようなものだった。面積が小さく、一枚の田に二人が入れば、鍬も振れないものだった。しかしこうした田圃でも、泥の質がよいのか、肥料はあまり必要とせず、土手の刈草やカツツキといって谷の下の方から刈って来た草で、結構実入りのよい稲が穫れた。家では、一年に使う餅米は、ほとんどここで穫れた餅米で間に合うほどだった。田の水の中に蛭(ひる)がおよいでいるのを見て、私は気味悪くて田の中に入れなかった。兄達は、田植えが出来ないなら田の数(かず)を数えて見ろといった。私は数えた。大きな土手を行ったり来たり、登ったり下りたり、ある時は田を跳ね越した。目移りして同じ田を二度も三度も数えて、まったく正確な数えが出来なかった。兄達は六十枚とも六十四枚ともいっていた。目を逸(そ)らすと、南の山裾に田植苺(たうえいちご)が、赤く熟して生っていた。黍粒(きびつぶ)が丸く寄り添って出来たような、はちきれそうな赤い実が、胃を刺激して、私は唾を飲み込んだ。捥いだ苺の実を山蕗(やまぶき)の葉に包み、弁当籠に入れて置き、私は尚も田を数えていると、笑い声が聞こえた。振り返って見ると、母も兄達も弁当を広げて、苺を食べながら笑ったのだ。田植えは終わったのだ。

陽は西に傾いて、谷は半ば陰っていた。昼の弁当を食っていると、雨を呼びそうな雲が垂れ下がって来て、キョンキョンカケタカ、キョンキョンカケタカと、急(せ)き立てるようなホトトギスが鳴いて過ぎ去った。掻き立てるようなホトトギスに、母の昔話が始まった。昔、山家暮らしの兄弟がいて、兄が病気に罹かり、弟は早く兄の病気が治るようにと、毎日山へ出かけ、栄養になる山の芋を掘って来て兄に食べさせていた。兄は日増しによくなり、体に力が付くと、邪心が起こり、床に就いている俺にこれ程美味しい物を食わせているからには、弟はもっと甘い物を食っているのだろうと疑いを深め、或る時弟を殺して、腹を割いて見た。しかし弟の腹の中には、兄が食べていた芋と同じ芋でも、蔓首のところばかりであった。兄は驚いた。気も狂わんばかりに嘆き、自分の邪心を悔い、烏になった。それがホトトギスで、懺悔鳥ともいう。キョンキョンカケタカ、キョンキョンカケクカと、寸時も休まず、八千八声、血を吐く思いで啼きとおし、切(せつ)ない懺悔鳥だから、陽の当たるところを恐れ、何時も雲が垂れこめ、さびし気な夕闇時にばかり啼くのだ、お前達も、人を疑ってはいけないよと諭されたのだった。

二百二十日の大荒れ

田舎特有の焼き付けるような夏の陽盛りも、何時の間にか過ぎ去って、二百十日も事なく済んだかと、ホッと一息、安堵したばかりのころだった。校庭の隅の欅がはげしく秋風にゆさぶられていた。学校帰りの石坂道へ差しかかると、道側の杉林の天辺で、けたたましく烏が鳴いた。二羽、三羽と崖のところまで来るとここにも、鳴雷神様の森の上でも騒いでいる。私は、不気味さを感じて足早に家へ帰った。母達は雨戸を閉めたり物千し竿など片付けていた。家では、いつも雨戸を外し障子だけで、その障子も開けひらいて過ごす毎日だったが、その日は、何か異様(いよう)な物を感じているように思えた。

母は、烏の鳴き声が普通じゃない、昔からここらでは二百十日より二百二十日が荒れる から、要心するようにと伝えられている。その通りにこの辺では荒れる事が多いんだ、もう二百十日も過ぎたから要心しなければ、といった。私も話を聞きながら手伝っていると、山の陰から薄墨色の雲がもくもくと湧き立ち、またたく間に夕空を覆い幾重にも重なり合って西へ流れて行く。後から後から、次々と、薄墨色から黒に変わって湧き上がる。暮れるにはまだ早いと思われる時刻に、嫌な暗さが垂れこめて、大粒の雨が落ちて来た。風も吹いて来た。更に、黒雲を裂いて、雷光が赤く尾を引いた。雷鳴も聞こえて来た。すると、たちまち叩き付けるような雨が、風を誘って狂ったように吹き付けて来た。みんな家へ入って、何が起こるか、不安な気持ちで、外の気配に耳を立てていた。早々と夕食を済ませ、神に縋るような気持ちだった。雷鳴は山の崩壊するような音にも聞こえ、雨戸を打つ雨の音、木の枝を暴れさせている風の音、夜が深まるに随ってはげしさを増し、百の猛獣が吠え狂っている のにも似て聞こえる。私は恐怖に心が縮んでいた。夜明けが待ち遠しく、布団の中で体を丸め硬くなっていた。

夜が明けた時、昨夜の大荒れは嘘のように治まり、小降りの雨が風に弄ばれていた。家の桐畑の、しかも四尺以上にも育った桐が、前の畑も東の畑も、見るも無残に吹き倒されていた。根が持ち上がり、地底の赤茶けた砂地が口を開けていた。何本かの吹き倒れ桐が道路を遮り、通行の邪魔にもなっていた。前の沢の橋も流された。田の冠水が甚だしく稲は全減だ、と次々と被害の情報が伝えられて来る。高台の田圃で冠水を免(まぬ)がれた所は、強い風雨に叩き付けられどろまみれとなって、見込みはないとの話も聞いた。

白岩の清水の湧き出るところの山崩れで通行不能となった。談合沢、君ケ山、馬転ばしと、至る所の沢が氾濫して集まった前の沢は、殊の外被害が大きく、米の収穫は皆無に近い農家が何軒も出たと聞かされた。

その大暴風雨の時から学校は一時休校となった。村人足が、方々で狩り出されて、荒らされた所の復元に当てられた。そうした事から、必然的に農作業の後れが目立って来て、人々の心のいら立ちが各所に表われて来た。実りの時機に入っての稲作被害は、人々の心に大きな影を落とし、予想だにしなかった米の減収の穴を、何を以て補うかを、真剣に考えていた。しかし山村なるが故に、よい手段もないまま、言動だけが荒(すさ)んで行くように感じられるのだった。

こんな折りも折り、物の値が上がって来た。日を追う毎に鰻登りに吊り上がって来たのだった。木羽の原木の値も跳ね上がった。木羽割りを主業として居た人は致命的な痛手を受けた。父は木羽割りをすればするほど赤字になるとぼやいていた。そして用足しといっては出歩く事が、より一層多くなった。

吉之助という、そのころ世間の人が談判吉といっていた人が、度々父と一緒に歩いている姿を見るようになったのもその頃だった。名入の只兄(ただあに)とか、逸九(いつく)さんとか、西方の辰之助さんとか、当時の談判士として名の知れた人々が、父を尋ねる頻度が多くなったのもその頃からであった。

猛烈(もうれつ)な大荒れが過ぎ去ると、嘘のような秋晴れの澄み切った、抜けるような青空が訪れた。家の庭は落ち葉が重なり合って掃除に一苦労だった。山は紅葉して、美事な秋景色の装いに変わって来て、晴れた日の入日時の山河はまた格別な美しさが見られた。

赤々と夕映えの御坂山が、農家の被害など知らぬ気に、壮観なまでの姿で佇立していた。人人は、間もなく冬を迎えようとして、心ばかりがいらだっていた。

県の役所では、こうした農民の惨状に、救済策を打ち出して来た。道路の復旧工事や倒壊家屋の修復普請等に対する救済資金を出す事になった。

村人達は、作物の減収を、金銭で、その穴を埋めようとして、われもわれもと土木工事の救済資金に群がった。

この暴風雨の為に、私が大切に培かって来た坪谷も、みじめな姿になっていた。それにも増して痛ましかったのは、継ぎ木をして育てた桃の木が折られたことだった。私の家には桃の木が無かったので、桃の季節になると、隣のオミエさんやトシ子等、同じ歳ごろの者たちが、これ見よがしに桃を齧っているのが憎らしかった。だから、常に桃の木が欲しいと思っていた。私が、ヨテ叔母さんの所へお守りに行っていた時の事である。武市君に誘われて、遊びに行った。武市君の父は、馬車追いで、何かと珍しい物を求める人だった。武市君が、それを見せようと誘ったのだった。村外れの武市君の家へ行って見ると、祖父の和三次という老人が、溜池(ためいけ)のほとりで、桃の木やマルメロの手入れをしていた。私は珍しい物を見るよりも、桃の木が欲しかったので、和三次爺さんに、桃の木が欲しいといった。爺さんは、来春芽が出たら継ぎ木をしてやるから、今の中に台木を植えて置けといって、台になる木を掘り起こして持たせてくれた。私は嬉しかった。直ぐ持ち帰り、セイロウの南側、畑の下土手に三本植えた。

春になって、新芽が出たので、爺さんの所へ知らせに行くと、爺さんは、こころよく頷いて、今日は曇っているから継ぎ木にはよい、といって、牡丹桃と西瓜桃という、齧ると中の肉が赤い桃の枝穂を切って、油紙や小刀など、道具を持って、わざわざ中野まで来て、三本の継ぎ木をしてくれた。その桃の木が、三本ともよく根つき、二尺余に伸びていたのだ。それが、無残な姿に、二本折られていたのだ。一本だけは、幸いにも助かっていて、せめてもの慰めとなった。

台風の爪跡の整理も、ひとしきり片付いて、しかも土木工事等での収入が人々の懐を潤し、久方振りに人々の顔にも笑顔が戻ってきた。それと共に、毎年この時期になると部落では、肥え太った牛を出して、痩せた若牛を入れる、牛交換売買の馬喰の話が盛んになる。彼方(あなた)でも此方(こなた)でも、馬喰の金が入ったと、噂が噂を呼んで、貧しいながらも活気に満ちた村の姿が見られるようになった。人々の心も、いくばくかのゆとりを取り戻してか、晴れやかな話題も聞かれるようになっていた。しかしまた、悲観的に先行きの事を考えてか、一部の人の間には、南米移民等の話も出て来た。私は、そうした話を聞いて子供心にも、貧富の明暗が分かりかけていた。しかし、何時(いつ)か祖父から聞いた「稼ぐに追い付く貧乏なし」という事と、「働いても、働いても、貧しい人の居る」事の矛盾を理解出来なかった。私の目には、良く働く人ほど、移民の話が多かったように見えた。

叔母さんのこと

それから数日過ぎた、或る日曜日の早朝だった。イソ叔母さんが来て、起こされた。

その日叔母さんの家では、みんなして、樫尾山へ、秋蕎麦蒔きに行く、朝早く行くので、昼食の用意が出来ないから、後から届けてくれるようにとのことだった。

樫尾山は、日当たりのよい南向きの、なだらかな原で、砂質系(さしつけい)の真土(まつち)で、作物には極めてよい土地だと聞いていた。

その日家では、亨兄さんを先頭に兄達は、朝食前の仕事に、街道の木の下畑に蕎麦蒔きをしていた。朝食のお膳についた時、母が、今朝、イソ叔母が来て、マーコを貸してくれといって来たから、大石田の弁当運びをして来いといった。亨兄さんが、マーコは、まだ鍬使いは無理だから、それがよいといった。私は叔母の家へ行った。

ツルヨ婆さんが、飯を詰めた飯櫃(めっぱ)の弁当と、蕎麦粉を練って平たく伸ばし、中小豆餡粉(あずきあんこ)を入れてゴム毬くらいの大きさのやきもちを作っていた。そして、手拭を二つ折りにして縫った袋に入れ、これは十時の小昼(こびる)だと言いながら縄籠に入れて用意した。その時ツルヨ婆さんは、秋蕎麦は三十日蕎麦といって、今から蒔いても霜降りのころまでには収穫出来る、作物では一番手が掛からない。不作の年は秋蕎麦が一番だ。今日は、フジエも少しは役に立つから連れて行った。マーコは樫尾山知っているから頼んだのだといった。

私は思い出していた。それは春の田植えの時だった。その時も、叔母の家では樫尾の田は田耕拵(たこしら)えをしながらその日の中に植えるといって朝早く出掛けたので、ツルヨ婆さんと一緒に弁当を届けた事があった。その時はちょうどお昼時間のころだったので、私達が着くと同時に食事になった。イソ叔母さんが、飯櫃(めっぱ)の蓋に飯を移し、私にも食べろと差し出した。真昼の陽が照り付けて暑かった。田圃の土手下に清水が流れていて、その冷たい山清水をかけて、胡瓜の味噌清けお莱で食べた。その時の美味しかった事が忘れられない思い出となっていた。

弁当籠を背負って、代市を連れて行った。道中、堰の流れの草陰にヤーマが止まっていて、代市が欲しがるのでとらえようとしたが逃げられた。どうしても捕(と)ってくれと、代市にせがまれて、困った事もあった。

山へ着いた時、叔母さんたちは草の生えている畑を、キャカ、キャカと耕(うな)っては、草の根や土の塊りを鍬の横腹で打ち叩きながら、またキャカキャカと耕っていた。

そのくらいの仕事なら私にも出来ると思って見ていると、叔母さんが、マーコ耕って見るかといって鍬を貸してくれた。そして叔母さんは、辺りの草刈りを始めた。

私は、自分でも出来ると思ったその気持ちにそむきたくなかったので、鍬を握って耕(うな)い始めたが、鍬が重く、耕った跡の草の根や土の塊りを打ちほぐす事の難(むずか)しさをしみじみと思い知らされた。背中には汗がにじんでいた。しばらくしてお昼になった。

山里の秋の日は、食い立ちといって、お昼を食べ終わると、物を噛みながら仕事を始めるほど日が短く忙しいのであったが、叔母は、仕事が思いの外、捗ったから、少し、食休みをしようといって、叺(かます)を敷いた。叔父さんはその上に腰を下ろし莨を吸っていた。代市が、何処で捕(つか)まえたか、赤蛭を一匹持って来て、股(もも)を取ってくれといっていた。叔父さんは、赤蛙の股を取りながら、「マーコも、よく蛙の股を食べたのだ」といった。叔母が、その言葉の端を引き継いで、語り始めた。

私の生まれた当時は、母のお乳は、友一兄に占有され、腹一ぱい乳は飲めなかった。友一兄さんが右の乳房を吸い、私が左を吸おうとすると、右の手で左の乳房を押さえ、いじめられて満足に飲めなかった。叔母がたまたま中野へ来て、そうした有様を見て、可哀相に思い、自分の乳を飲ませてくれたとの事だった。そんな事が二度三度と重なって、叔母が中野へ来ると声で聞き分けて、乳をせがむようになったとの事だった。三歳四歳になると、兄逹と違って癇の虫が強く、引き付けるように泣いた。そして、時々その強い癇の虫が起きて困った母はその度毎に、癇の薬といって、赤蛙の股肉を焼いて食べさせたとの事だった。叔母の語ったのはこうした話だった。私は、自分の生い立ちのそうした細かい部分の話を聞かされて 、何だか面映ゆい気持ちと、いとおしい気持ちとが、複雑に絡み合って、胸を締め付けられていた。

夕方、家へ帰って、母にツルヨ婆さんの三十日蕎麦の話をしたら、祖父も三十日蕎麦は何をおいても作れと、いっていたものだ、イソ叔母には私の赤ん坊の時よく世話になったのだといった。霖雨が続き、街道の土手の霜枯(しもが)れの雑草が、いたいたしげな姿になっていた。私は、しばし感傷的な気持ちに誘われて、よく観察すると、根元から新しい芽が、霜枯れの撚れた葉を掻き分けて伸びようとしている。恐らく冬の雪の下でもその生命を維持して、雪どけと共に伸びて、人々に春を告げてくれることだろうと想像して、ここに、何ともいえない雑草の生命の強さを見た。そして私もこの雑草のような強さで生きなければと、「苦境に立った時にこそ、その人の真髄が分かる」といった、在りし日の祖父の言葉を思い浮かべながら、感懐に耽っていた。

コトコトコトコトという音でわれに返った。目の前の桐が落ち葉して、二間ほど上部の、枯れ枝が折れたところに、ケラという木つつきが、ボコボコボコと幹を突ついていたのだ。ケラ鳥が突つくのは、穴を開けて、中に入っている心食い虫を食べるのだと、聞いた事がある。それは、私が一年生になった秋の遠足の時だった。学校の毎年の行事で、一、二年生は一緒に宮下遠足で、兄と私と隣のオミエさんとは一緒だった。帰路の途中から兄は友達と回り道をしたので、私は、オミエさんと共に足を引きずりながら中野坂を登った。街道のT字路まで来ると、家が見えて来た。心が弾んで、急ごうと思った時、いきなりオミエさんが泣き出した。私は、家が見えたので戯(そば)えて泣くと思った。しかし違っていた。足が痛くて歩けないというのだった。もう家はそこだからといっても、屈み込んで歩こうとしない。仕方無く靴を脱がせて見ると、足の小指の頭が、皮がすりむけて、血が滲んでいた。新しい、履きつけない硬いズックの靴が悪かったのだ。私は脱いだ靴を持って、裸足(はだし)で歩かせた。隣の別れ口まで来た時、隣の三次郎爺さんが、桐の根元で穴を塞いでいた。

この爺さんは、足の指が、小指が薬指に、薬指が中指へと重なっているので、人々は、勃起(ぼっこ)爺(じい)さんと呼んでいた。「何しているの」と私は聞いて見た。爺さんは、「心食い虫が、この穴から入っているから、炭を詰め込むのだ。炭を詰めると、虫は呼吸が出来なく死ぬのだ」といった。そして、「マーコのところのあの桐も、虫が入っているから枯れるかも知れない」といって、指差した木が、ケラ鳥が突ついていた桐の木だった。

それから幾日かして、私は、勃起爺さんのいった事を思い出し、ケラ鳥の突ついた桐の根元を見た。根元は、苔が一ぱい生えていた。苔を剥がして虫の穴を探した。木鋸屑(おがくず)にのりをまぶしたような虫の糞(ふん)が盛り上がっていた。糞を取り除くと、穴があった。しかも親指が入るほどの穴だった。私も、隣の爺さんのしたように榾火(ほだび)の炭を詰め込んだ。その後、ケラ鳥は突つかなかった。

台風の被害を、会津の山間部はほとんどひとしく受けたのだった。それ故に、復旧作業に対する救済金の多寡によって、彼方(あちら)の賃金は高い、此方(こちら)の賃金は安いと、仕事を指揮する親方への非難の声も聞かれた。そして自然にお金の多く取れるところへと、人足が片寄った。また懐具合のよくなった人は、自分の田畑が大事だと、自己の生活範囲を重視する人が多くなって、道路等の復旧は遅々として進まなかった。そんな時だった。江川先生は、児童の通学路確保という趣旨で、役場へ申請して、五、六年生全員で、道路復旧作業の一日労働を実施した。山崩れで通行不能の白岩の場所だった。子供といっても、山村の五年生六年生ともなると 、かなりの体力も備えて来ているので、大ぜいの勢いと先生の好指導とが相俟って、早々と山崩れ場所は片付いた。道は元以上の幅広の道路となった。作業後先生は、講堂に全員を集め、お話をされた。その時の江川先生の、労働の尊さという講話は、特に胸に刻まれた。本校に図書室が出来たのは、その労働から得た貴重な賜である。

秋の嵐が肌を刺すような冷たさを覚える、晩秋のころだった。山も畑も、木々の葉は容赦なく散らされて、柿の木に、赤い熟柿(じゅくし)が二個、三個とくっつき合って目立って、捥ぐ手を待っていた。烏が熟柿を突っついていた。柿畑の僅かに空いたところに蒔いた黍の零れを、雀が拾っていた。一霜降りる毎に秋は深まり、柿は捥ぎたい、遅蒔きの蕎麦も刈りたい、稲棚(さで)から稲の取り込みもしたい、屋根を葺く茅も刈りたいと、まるで猫の手も借りたいという声が聞かれ、学校から帰ると、子供といえども遊ぶ事の許されないころだった。私の家でも学校の休日を利用して、茅刈りをする計画を立てていた。その前日の土曜日の夜だった。家の猫が顔洗いをしていた。そのころ家には、顔の真ん中だけが白いブチ猫がいて、家の者はみんなブーブーと呼んでいた。私が学校から帰って来ると入口まで出迎えて、ニャア、ニャアと足にすり寄り、尾を振りながら絡まり、何とも可愛かった。そのブーは、夜になると必ず囲炉裏縁に上がり、お座りをして、片手を舐めては顔をこする。これを猫の顔洗いといい、明日天気が悪い事を意味するといわれていた。しかしまた猫が耳を越して大きく顔洗いすると、明日の天気は良いともいわれていた。母がよく、ブー耳越せといっていた事があった。

明日は茅刈りをするので、人も頼んであると、母と父と話していた。その時だった。囲炉裏縁の上でブーが顔洗いを始めた。母も兄も私も一緒になって、「ブー耳越せ、ブー耳越せ」と、ブーに頼んだ。するとブーは頷くように大きく耳を越した。二度、三度と耳を越して顔を洗った。みんな喜んだ。

市の原の茅刈り

女心と秋の空とか、年老いた人達がよくいっていたように、変わりやすい秋の日だったが、翌日は晴れだった。

私の部落では、ゆいといって、手間を貸し借りする習慣があった。茅刈りに手伝って貰う事を、ゆいを借りるという。また後日先方へ手伝って、ゆいを返すという。こうした事で、なるべく金のかからない縁故同士(えんこどうし)や仲間同士の仕来たりで、働き手の少ない者同士が、作業を円滑に進めて行く唯一の手段であった。こうした、ゆいという手間の貸し借りが、ゆいの仲間同士の、親密感や緊密度を増して、似た者同士のブロックが出来る。これは、見る目によっては頼もしいが、時には忌わしい事も起こる。殊に選挙のような時には、村を二分する、或いは三分割するほどの弊害もあった。

茅刈りの場所は、市野ヶ原であった。部落を通り越し、村外れの名寺坂を登り、鎮守の森を左に見て、坂を西北へ下ると、木羽背負いに通った時と同じ山路を、初尾沢の入口で分かれ、ここから、林の中や柴山を登るほんとうの上り山路になる。昔、金を掘ったという金山の、ずりを捨てて、禿山になった所を横切って、胸突き八丁と昔の人が言った胸が地につく程の急勾配の坂道を登ると市野ヶ原である。実に一里余の坂道を登って行く市野ヶ原は、高山丘陵の高原とでもいうのか、南に御坂山、西に黒男山、奥名入と、北東に日向山(ひむきやま)など、何れも部落の居平(いだいら)から見る時は、偉大な高峰に見えた山が、ここ市野ヶ原からは、山の峰が僅かな高さになって見える。

市野ヶ原は広く、凡そ二十町歩もあろうかと思われた。茫洋とした芒が原で、この芒が生長して茅となり、屋根を葺く材料となっている。雪解けの春先には、この広大な原はワラビ の産地となる。毎年毎年生えては枯れる茅や萩などの腐って出来る良質の腐食土が、ワラビなどの栄養を支え、小指大の名物ワラビとなって生える。

この市野ヶ原の、ワラビやゼンマイなどが出回ると、坂下(ばんげ)町、若松方面の里平では田仕事が始まる。これらの山菜料理が珍重され、仲買人が来て買いしめる。村の山好きで、山菜取りの上手な人達には、またとない収入を得る場所である。春先は何れの人も、冬を越して金欠になっているので、ゼンマイ、ワラビで得る収入が、大きな力となって、人々の懐を潤しているのだと叔母さんが話していた。

茅の葉は霜にあって褐色に、す枯れていた。茅のあちらこちらに点々と落ち葉した萩が、柴木のようになって、茅刈りの邪魔になっていた。秋風が立つ頃来て見ると、その萩の花が、青一色の芒の原に紫の風情を添えて実に美事だと、十七吉小父が、莨を飲みながら話していたっけ。私は、茅刈りについて来て初めて市野ヶ原を知り、その広大な芒が原と、様々な話から、部落にとっては宝の原だと思った。

昼の休みに、兄が川の方へ行ってみようと誘ったので、私は高原の川など、どんな川かと、好奇心をそそられて、ついて行った。芒の原を突っ切り、一段下がった二の平の葛(くず)の葉が芒に絡まって歩きにくい場所を西へ西へとしばらく行くと、三間幅くらいの、水深の浅い川に出た。逆瀬川といって、奥名入(うないり)との境をなしている。岩魚も住むと兄がいっていた。この川は、日向山の奥から転び石沢を流れ、途中黒男山の奥から流れて来る白布沢の流れと合流して、御坂山の裏裾をかすめて早戸部落に、滝のように、白煙となって落水し、只見川へ注ぐのである。しばしの間、兄は岩魚を取ろうとして苦心していたが、大分日が西に傾いて来たので、私は帰ろうといった。その時だった。奥名入の大木の陰で、人影が動いた。

熊・狐・猯(まみ)の話

茅刈り場へ戻って見ると、十七吉小父さんの世話役で茅ボッチの建て方など、既に六ボッチも出来ていた。丸くなるよう百束くらいずつ立て掛け、藤蔓で締め付けて束(ま)るき、上の穂の部分を折り曲げ硬く結び、雨や雪解け水が中へ入らぬようにして冬を越させ、来春になって、茅がす枯れて軽くなった時機を見て運ぶのである。夕食の時、茅刈りも無事に終わった祝いといって、甘酒が出た。大人達は地酒を飲んで、世間話に花が咲いていた。私は甘酒が好きで何杯か飲んだ。その時の甘酒は黍甘酒で口の中に粕が残った。食事が済んでお 茶になった時、私は、奥名入(うないり)で人影を見た話をした。叔母さん達が、栃拾いの人達だろうというと、十七吉小父さんがすかさず話を取って栃についての講釈を始めた。只で拾って来て米の代用になる事、只で拾ったものだから痛ましい気持ちが薄く豊富に食べられる事など、私がまじめな顔で聞いているので得意になって喋っていた。

次に熊の出る話になって、奥山へ物取りに行く時には、空缶を腰に下げて歩き、熊の気配を感じたら空缶を叩け、熊は、金属音が嫌いで近寄らないと言った。私は、去年家で作った、はなれ林の秋蕎麦(あきそば)が、荒焼畑(あらかの)といって、初めて山を開墾した焼畑を荒焼畑と言うその荒焼畑の秋蕎麦が見事に実っていた、その中程の一番良いところが三尺くらいの幅でおよそ五間ほども倒されていた話をすると、十七吉小父は、それは猯(まみ)の仕業だと言って、猯(まみ)、貉(むじな)の講釈が始まった。貉は穴熊ともいい、蕎麦畑のようなところを転がって自分の体毛の中に実を付け穴窖(あなぐら)に行き、振り落として冬期間の食糧にするのだといった。貉を捕るには、貉燻(いぶ)しといって、穴の前で焚火をして煙を穴の中へ煽(あお)ぎ込むとたまらず穴の外へとび出す、とび出したところを捕(つか)まえるのだともいった。十七吉小父は物知りで、ボチャリ、ボチャリと口泡を吹きながら、狐の話になった。石坂狐は人を化(ばか)すとも言った。その時私は石坂狐と言う事で思い出していた。それは去年の暮れの二十九日の夜だった。父はいつも年末の二十八日には、歳夜の準備、お正月の準備を済ますようにしていた。その年は色々出来事があって懐具合が悪かったのか、歳夜のお魚買いが二十九日の午後になった。

私の家では、年に一度の歳夜の晩だけは、丸引の大きな鮭を背越に切って、焼くと両方に踏ん張った赤味の魚に、混ぜ物の無い、水分を含んで銀色に光る米の飯で祝うことが習わしだった。私たち子供は、それがいちばん嬉しい食事だった。その魚を買いに、降りしきる雪の中を父は出て行った。夕方から雪は益々はげしく降って、時計が七時を打っても父は帰らなかった。母は私を連れて提灯を持って迎えに行った。石坂まで行った時、白塗(しろまみ)れの父が菰包みの魚を背負ってやって来た。母が迎えに来たといった。父は徳夫さんの店で馳走になっておくれたといったが、母が魚を持とうと菰に手を掛けると、父は突然豹変したように、「魚を欲しがるのは狐だな、親子狐か、魚を欲しがっても渡すものか」と駆けるように家の方へ帰った。家に着いてみんな揃っているので安心してか、「矢張り狐ではなかったか、済まない、済まない」と詫びた事があった。そんな事を思い出しながら十七吉小父の話を聞いていた。話は途切れる事もなく進み、寺の話になった。そのお寺の話は、自分の代には具合がよいからと言ってむやみに務めを良くし、院号など貰わぬ事だ。もしも子孫に不都合があった場合の事など考えて、ほどほどに尽くすべきだともいった。そして、持った振りするな、知った振りするなと、若者に諭すように言って、話を栃の話に戻した。

奥名入(うないり)の栃の木は、糅切板を造るには木質が軟らかく、庖丁の刃を痛めず、木が太いので一枚板が出来てもっともよいと言った。そのころ十七吉小父は、奥名入の官木を払い下げてもらい、炭焼きや栃板取りをしていたので、宣伝もあったように私は思った。奥名入は、栃拾いや茸取り、山葡萄(やまぶどう)も取れる。官有地といえども耕地が少なく、食糧の自給自足には事欠く部落にとっては、またとない宝庫である。特に栃の実は栃餅となり、米の代用となるので、村人たちはこぞって栃拾いに精出すとのことだった。

家でも栃の皮剥きをした事がある。寒い冬の夜だった。栃の皮剥き棒といって、子供の腕ほどの一尺長さの木を、一本は両面平たく、一本は片面平たく削った二本の棒を、頭の部分を紐で結び、両面削った方を下にして、囲炉裏縁を台にして一方を膝で押え、間に栃の実を挟み、梃子式(てこしき)に上の棒をゴシゴシと捏(こ)ねるようにして、左手で栃の実を回しながら捏ねる動作を繰り返している中に皮が剥けるのだった。思えば栃の皮剥きもたいへんな仕事だった。梅の実大の栃の実を、鉄の五升鍋一ぱい剥くのに、夜中の十二時頃までかかった。兄も私も、栃剥きの晩ともなれば、必ず手伝わされた。囲炉裏の鉤(かぎ)の鼻に、栃の実の入った大鍋をかけて、トロトロと火を燃しながら、熱からず、温(ぬ)るからずの湯加減を保ちながら、ふやけたところをむくのだった。

囲炉裏の焚き火の暖を頼りに仕事をしていると、背中からシンシンと寒さが、胸まで通って来る。綿入れの半天を引っ掛けて、鼻水を啜りながら夜仕事(よなべ)をした。そんな晩に限って、サラサラと障子にさわる雪の音が、心に沁みるのだった。

むいた栃の実は、灰汁(はいじる)で灰出(あくだ)しすると渋味が抜ける。それを軟らかく煮て、餅米でよく搗いた餅の中へ入れて、練り込みながら搗くと、桃黄色の、ふくよかな栃餅ができる。口触りが滑らかで、風味の変わった中々の好物だった。二升の餅米があれば、優に三倍の六升餅ほどの量が出来るので、痛(いた)ましいという感じが薄く、母はどなたにでもお茶受けに出して接待して、喜ばれていた。

東の梨の古木

山里の晩秋の道は、霜が降り木の葉が落ち、また霜が降り落ち葉が散って重なり合うので、重なった落ち葉の間の霜がひねもす消えやらず、そんな落ち葉道を歩くと、弾(はず)みよく滑べる。田舎の道路は坂道で落ち葉道で、年老いた人達には、時には魔の道路ともなる。

ここ大石田には、昔から蜀黍(もろこし)は作れないという言い伝えがあった。昔、当地を支配していた殿様が、滑って転んで、蜀黍の刈り株で目を突き差したとか。そうした事から蜀黍の作付けを禁じたという伝説が残っていた。多分、秋の落ち葉道を歩いて転んだのだろうと、私は思った。そうした暮秋に学校から帰る道々、昔の伝説やその姿など思いえがきながら家へ着くと、明日(あした)あたりは、霙にでもなるかなあ、と母が独り言をいいながら縁側で、油菜の種子を捩(もじ)っていた。

玄関を入ろうとすると、父が、一人の職人風の人とともに、勝負沢の方から来た。母にたずねると、櫛識人のようだといった。その晩から、櫛職人は家の食客となった。越後から職を探してここまで来たとの事だった。櫛を作るには梨の木が一番よいので、梨の木を求めて歩いたといっていた。

私の家では、勝負沢の入口の畑に百年以上も経たと思われる、五尺以上も回る梨の古木があって、毎年二寸玉くらいの梨の実が大量になって、秋口になると、私の家の者はいうに及ばず、隣りの者も下の家の者も、梨を拾って食べる楽しみの木だった。

春酣ともなれば、その梨の花に蜜蜂が群がる。兄はその蜜蜂を、セイロウの軒下に木箱を吊り下げて飼っていた。梨の花が終わると箱の中の蜂の巣を取り出し蜜を絞っていた。その絞った蜜を一升瓶に入れて貯蔵して置き、夏の暑気当たりや、風邪で体の弱った時など、薬になるといって舐めさせたり、自分もよく舐めていた。部落の人の中にも蜜を買いに来る者がたまにあった。

その梨の木からは、蝉や大鍬形などの野虫の好む樹液が出るのか、よく蝉が鳴いていたし、角を生やした鍬形虫が群をなして登っていた。中野の子供たちの蝉取り、鍬形取りのよき 場所でもあった。私も山からもちの木の皮を剥いで来て、槌でつぶし、とりもちを造り、棒の先に塗ったくって蝉取りをした。蝉は勘がするどく、捕まってはたいへんとばかり、いち早く飛び立つ。蝉は飛び立つ時には、必ずシュッと小便をするので、何回か引っかけられた事があった。

そうした楽しみの多い梨の木を、父は職人が困っているからといって切った。そして入口の右手に木屋を建て、櫛削りの仕事場を造った、職人は、玉切った梨の木を運び、櫛造りを始めた。

女の人の髪を梳く櫛造りもたいへんな仕事らしく見えた。職人は眉毛の濃い、冴えない顔色をして、半ば屈みかけた腰を時々たたきながら、水鼻をグスリグスリとすすりながら、仕事をしていた。

春になって身回しがよくなり、山々の残雪もまだらになり、柴切りの季節になってから、櫛職人は、冬の間、櫛型に削った品物を売りに行って来るといって、父から何がしかの小遣を借りて、いずこともなく出て行った。

父は、やや久しく櫛職人の帰りを待っていたが、皐月(さつき)ツツジが咲いても職人は帰って来なかった。家の二階には、金にもならない櫛型に削った梨の木っ羽が一ぱい散乱していた。

父は杉の原木を買って木羽製造をしているので、組み合って割れにくい丸太や、五寸くらいの細い丸太の残材が、家の回りにゴロゴロと転がっていた。

車峠の山に朝もやが立ち籠めていた。私は、理科の実験をする為に、車峠の道端にある黄肌(きわだ)の皮取りに行った。皮をはいでいると、声をかけられた。「マーコじゃないか」「そうです」と返事をすると、お前の家へ行くのだといって、黄肌の皮を取ってくれた。大きな鋸を背負って、手の指が少し悪いようだったその人は、明(あきら)という木挽き職人だった。一緒に家へ帰ると、父は西側の木羽置き小屋を片付けて、木挽台を造っていた。村の又一という人も来て、二人の木挽き職人が残材を板に挽いて整理する日が幾日か続いた。頭の所々火傷(やけど)の跡のようにはげた勘四郎という大工さんも来て、古びた家の南側と西側に庇を出し、回り縁を造り、入口の庇を取り毀し、白壁造りの乗込み玄関になった。

父はこうして人の世話するのが好きで、その為に損をするような、痛手も随分受けたら しい。しかしまた、近代的な玄関が出来たり、古びた家が明るい住宅になったのも確かだった。

世話好きの父は、明(あきら)木挽の娘のオツヨさんを又一木挽の嫁さんにと口利きして、それまでは、小屋のような住宅だった又一さん親子の家を、建て替えてやったり、損得を抜きにして、世話して、喜んでいるのだった。

村のお寺

その年もまたいつか知れず、街道の堀に冠さっていた雪がなくなった。流れの土手には、春の匂いを呼んで、つくしんぼや蕗のとうが伸びて、早朝から甲高く鳴く雀の声に、長かった冬の眠りから呼び起こされた村人達の間では、またぞろ田畑の黒土撒きが始まった。私も六年生になって、それまでの自分の過ごしてきた姿を顧みる事が出来るまでになっていた。

そして、自分は何を成すべきかと、未来のことなどそぞろに考えるようになった。

今年一年で小学校は卒業するのだという認識が、同窓生みんなの心の中に、重くのしかかっていた。卒業と同時に大工の弟子に行くという友や、町へ出て時計店の番頭見習いをするという級友や、家の都合で百姓の手伝いをする、相続人だからという者など、それぞれに、自分の道を考えている様(さま)が、頼もしげに見えた。私は、自分だけが取り残された焦燥感のようなものを覚えたが、私は高等科進学を決めていたので、焦せるな、焦せるなと、自分で自分を押えていた。そして何時しか、大人びた同級生よりも、一級下の正平君、芳雄君等、新しい友との交友が繁くなった。正平君は一級下でも理屈が強く、時々白岩の石に数字を書いて、議論をする事があった。正平君は学校の成績もよく、みんなからも出来る、出来るといわれていた。芳雄君も学業はよかった。その芳雄君は村の住持寺の子で、私の家の法要やお日待の行事には、親の坊さんと共に来て、お経を唱えていた。そうした事から、私とは、いつとはなしに言葉を交わすことが多かったので、他の同窓の友とは一味違った、或る種の親密さを感じていた。

親の坊さんもまた、父とは昵懇の仲で、他所(よそ)へ出掛けての帰り道には立ち寄って、世間話など語り合い、時には酒も嗜む事もあった。父もまた寺に対する喜捨の心が強く、何かと坊さんの頼みを聞いているようだった。

いつの日だったか、お盆近くの事だった。お坊さんが来て、 灼(あらたか)な神のお像が納めてあるといって、聖天様(しょうてんさま)という檜の壺を下された。灼な神だから、蓋を開けないようにといっていた。父はその聖天様を、座敷の床の間に経机を据えて、その上に安置し、脇には大きな花瓶に松を活け、朝夕手を合わせていた。

親の坊さんは体のガッシリした、目の上に大きな黒子(ほくろ)のある、柔和な顔立ちの中には、どことなく威厳の漂う人だった。

大石田部落では、お盆が来ると、念仏の籠った、カカジョという経木をお墓に供えて供養する習慣があって、村の人達は経木を買いにお寺へ行く。家では、必ず私が行く事になって いた。そうした事から、お寺の小母さんとも親しく話す事が多かった。春の日が漸く野山を乾燥させて、青草が心をかり立てるころだった。私がお寺へ遊びに行った時だった。額(ひたい)の大きい、頬骨の発達した、寺の小母さんは、菓子など出してくれて、芳雄君と一緒に食べた事があった。その時親の坊さんが、子供等が遊びに来る事は仏様は喜んでいる、お寺はけっして恐いところではない、むしろ地蔵様などは子供に顔をなでられると非常に喜ぶ、試しに地蔵様の顔をなでて、じっとその顔を見詰めて見なさいと、いわれた。それから幾日か経てまたお寺へ遊びに行った時だった。芳雄君が、裏の方へ行って見ようと誘うのでついて行った。そこは産土様(うぶすなさま)だった。六尺四方の小さな祠に、端正な優姿(やさすがた)の像が鎮座されていた。

入口には金属製の鰐口が吊され、鰐口を鳴らす中腹(なかばら)の太く膨(ふく)らめに綯(な)った麻縄が吊り下げてあった。腕白の一面もあった芳雄君が、その麻縄にぶら下がり、ぶらんこのように勢いよく走った。二度目に走った時、麻縄を吊ってある折釘が抜けて、芳雄君は拝殿の前の石段に仰向けに叩きつけられた。突然の出来事に、私はしばし呆然と立ちつくした。ややあって芳雄君は、頭をさすっていたが、何程かたつと、痛そうに起き上がった。私は、ほっとしながらも気になった。芳雄君と別れて家へ帰る途中、村外れの地蔵様に手を合わせ、芳雄君が何事もないようにと念じた。ふとその時、親坊さんがいった言葉を思い出し、参道の石段を登り、地蔵様の顔をそっと撫でて見た。赤い頭巾を冠った石の地蔵様の顔が、なんともいえない笑みを浮かべて生きているような錯覚を覚えると同時に地蔵様のその微笑が、私を讃(たた)えているようにも思えた。

そうした事を知ってか知らずか、その頃から芳雄君は、私の事を地蔵様のようだと時たまいうようになった。私は別段気にもせず何時でも話し相手になっていた。芳雄君もまた私のいう事に共鳴してくれた。

十三子参り

爽やかな春風が、麦畑に波を打たせていた。日曜日の朝だった。セイロウの前の梅の木に、季節外れとも思えるウグイスが、ホーホケキョと鳴いていた。梅の実は、豆粒大に育っていた。麦も穂孕(ほばら)みが始まって、冬越しの莱畑には、茎立ちの鮮やかな黄色の花が二つ三つ、目醒めの悪い脳に剌激を与えてくれた。堀の流れで顔を洗い家へ入ると、母が、「マーコ今日は十三子参りに行って来よう」といった。そして、新調した久留米絣の着物と、胸紐の付いた羽織を着せてくれた。私は嬉しかった。

母は、今日の為に、夜仕事をして縫っていたのだった。それまでは、兄たちのお下がりを繕(つくろ)っては着せられていたので、私の喜びは殊のほか大きかった。さらに、柳津詣での出来る事も、大きな喜びの一つだった。

父は同業者との集会を、家を会場に当ててする事が多かった。会議が終わる頃には、必ず酒の宴会となった。その度毎に、宴席の小間使いに私が駆り出された。兄達は大人びて、仕事が出来た。弟や妹はまだ子供じみていたので、私が一番適役だったのだろう。村まで買物に行ったり、時には名入や西方までも行って来る事があった。そんな時には、いくらかの小遣ももらいたいので、私はいやがらず小間使いをした。

酒宴になると、職業柄で必ず誰かが屋根の話をした。そうしたうちに、私は自然に屋根のことについて、流れ破風とか唐破風とかを知りたいと思う一種の興味を持つようになっていた。柳津詣でを機会に、それらを具(つぶさ)に観察して見たいという欲望も湧いていた。

当地方の人達は、子供が十三歳になると、十三子参りといって、柳津の虚空蔵様へ詣で、厄除けをする習わしになっていた。柳津の虚空蔵様は、日本三虚空蔵の一つだといって、その名は高く、会津地方や東北地方では隈なく知れ渡っていた。

本堂拝殿、庫裡、宝物殿、修養道場等その規模の大きい事、建物の唐様伽藍造(からようがらんづく)りが立派なので、御利益(ごりやく)も大きいだろうと思わせる雰囲気が、柳津へ柳津へと人々をかり立てていた。

母は握り飯に紫蘇の葉を巻いて弁当を造り、義英の納め物もして来るといいながら、亡き 兄の髪の毛を紙に包んで懐にした。歩きながら母は「今度はマーコにも新しい着物を着せら れてよかった、今までは、古いのばかりで済まないと思っていた」と、独り言を言うかのように、私に聞かせていた。私は心の中で母の愛を感じ取っていた。

中空では、一羽の鳶(とんび)が二羽の烏にいじめられていた。柏木峠を越すと、麻生(あそう)部落の外れから只見川の流れに沿った、広々とした田園風景が目にとび込んで来た。どことなく、ゆったりした姿に、私は、自分の里や大石田の山あいの百姓では味わえない、ゆとりのようなものを感じて、百姓とは、耕地があってこその百姓ではないかと、考えた。延々と続く田面を眺めながら、およそ二時間近く歩くと、私の心から、何かしら窮屈さが抜けていた。いつしか只見川に架かる吊橋の上に立っていた。橋を渡ると柳津町である。その町並が橋の上から見渡せる。橋の中ほどで歩を止め、対岸にそそり立つ岩壁の上を見ると、目的の虚空蔵菩薩を祀る広大な寺院の鬼瓦が、金色の菊の紋や、流星の流れた像(かたち)にも似た破風の流れを、一際引き立てていた。心が妙に踊っていた。母も同じ思いなのか、足早に町へ入った。

店が並び、衣料品店には、呉服絹織物などから、洋服、洋品と、見た事もない華麗な物が陳列され、果物店、菓子店と、想像も出来なかった有様が目の前に開け、山中の村と、町と の文化の違いが思い知らされた感じだった。中町外(なかまちはず)れに、宿屋が道を挟んで、ガラス戸を開けて客を待っていた。ここから参道の石段を登る。三十段も登ったかと思った中ほどの、二十畳敷きもあろうかという休憩所を兼ねた踊り場には、冠木門を兼ねた仁王様が、参道の両脇に、脚を八の字に踏みしめて、丈余の巨体で悪を暴き懲らしめるといわんばかりの眼光で、参詣人を睥睨していた。その仁王様の巨体には、参詣人が、自分の願いを込めて書いた紙切れが、噛んで吹き付けられて、ところ嫌わず貼り付けられていた。私は、紙切れを吹き付けられる度に、その人の願いを聞いてやらねばならぬ仁王様もたいへんだろうと思った。本堂で、母は小さい坐像を持ち上げてお参りしていた。オビンズル様といって、願い事を聞いてくださる時は、軽く持ち上がるとの伝説のある坐像である。母は軽く持ち上がったと、喜んで、「マーコ、今年は丈夫で送れるよ」といった。その母の顔が、私には、いつになくはればれとした顔に見えた。

岸壁上にせり出して造られた、舞台のような展望台で、弁当を開けようとした時だった。職人風の人が、お寺特有のマーク入りの菊の紋入り半天を着て、母に話しかけて来た。母は、この子の十三子参りに来たと、私を指していった。世間話をしているうちに、その人は、徳五郎という木羽職人で、虚空蔵様を祀る円蔵寺のおかかえ職人だとわかった。そして今は、公園の奥に建つ、修行僧の道場の屋根修理をしていて、ヤマキ(打込者注、原文は家印)印の木羽を使っているとの事だった。その職人は、私を見て、息子さんかと聞いた。母は頷いていた。私は、父達が酒宴の時話していた破風の事に就いて、尋ねて見た。徳五郎さんは、屋根の型を指して、これが唐破風、これが蜾蠃(すがる)破風 、これが流れ破風と、こころよく教えてくれた。

徳五郎さんは、ここは参拝人が多いから、公園に腰掛けもあるし、食事はあちらがよいといって、自分から先に立って案内してくれた。そして自分もサイダーを買って来て私達に勧めながら、長椅子に腰掛けて、話はつきなかった。母が紫蘇巻きの握り飯を差し出すと、徳五郎さんは、紫蘇の匂いがよいといいながらうまそうに食べていた。

食事の後、奥の院へ行く。母は亡き兄の髪の毛を納めて、お経やいろいろな勤めの行をした。終わった時、奥の院の柱時計は二時を差していた。母は、これで供養は終わったが、もう一軒、ワカ様のところへ寄って、義英の霊の声を聞いて帰ろうといい、足早に歩き始めた。

奥の院から、裏道のような崩れかけた石段を踏みしめ、茗荷(みょうが)畑の辺尻(へしり)を通って、一軒のうらぶれた家へ入った。母は、亡くなった人達の霊を呼んで占う、ワカの家だといった。やがて、目の不自由そうな老婆が出て来て、四畳半の占い室に通された。

ここには霊を祀る祭壇があり、祭壇の前に経机があり、香の壺と、鉄色の湯呑みと、水差

し、キビッチョが並んで載っていた。母は、義英と書いた名前の紙を渡すと、老婆は祭壇に供えて、お経を唱え始めた。母は、キビッチョで、湯呑みに水を注いだ。そうした仕草を三度くり返すと、老婆は喋り始めた。そして母もまた聞いたり喋ったりしていたが、いつか涙を浮かべていた。私はなんの事かさっぱり分からなかったが、母が涙を流して喋っていたので、さぞかし亡き兄の霊と話が出来たのだろうと思って、母の慈愛の深さを、しみじみと感じていた。

占いの家を出て、帰路の吊橋の上に立った時、夕日が向かいの山頂へ僅かに迫っていた。母は、これから急いでも途中から夜道になる、といって、あわただしい足さばきに変わって いた。吊橋を渡り切ったところに宿屋を兼ねた一軒の商店があり、その店の前で、一台の馬車が道路の真ん中で荷積みをして居て通れなかった。仕方なく荷積みの終わるのを待って見ていると、馬丁さんが声を掛けて来た。

「中野の母さんじゃないか」母が、「ああ西方の嘉十さんか」と返事をしていた。顔見知 りというより、木羽を通じて交際している人だった。話が弾んで、これから子供の足で帰るのはたいへんだから、馬車に乗れといった。幸い積荷は少なかったので、母とともに乗せてもらった。馬車にゆられながら、父や母は、人に好かれるような行為をしていたのだと思われて、私は父母の有難さを心の中に感じていた。そして色々な夢を追っているうちに、西方へ着いた。流石に馬車は早かった。提灯に頼るほどでもなかったので、嘉十さんが勧めてくれる提灯を辞退して帰った。

亨兄さん・父の姿

梅雨上がりの夕暮れ近く、学校からの帰り道、車峠の朴の木の枝で、テレスケホーホン  ホーホンと梟(ふくろう)が鳴いていた。明日は天気になると知らせているのだと、思った。「朝鳩蓑(あさはとみの)着ろ、夕梟(ゆうふくろ)物干せ」という諺があると部落の年老いた人達がいっていた事を何時の間にか私も信じるようになっていた。またその通り、朝鳩がデテポッポと鳴くと、必ず時雨(しぐ)れて、夕梟が鳴くと、翌日は晴れた。年寄り達は永い年月の問に、自然の法則を知り、その経験から、鳥の鳴き声によって天災地変や晴雨の予測をする。私にはこうした智恵知識が何にも増して確かさがあると信じられた。

峠道を下(くだ)り切ると、亨兄さんが、崖の上の、蕗の葉丈が勢いよく茂っている桐畑を耕していた。掘り起こした蕗の根を、鍬の横腹で叩きながら、鉢巻をした額の手拭いが、汗を滲じませていた。

私は、学校道具を入れた肩掛け鞄を高助桑の枝に引っ掛けて、掘り起こされた蕗を、バサバサと土を振り落としながら、桐の根元へ運んで手伝った。その傍ら、学校でよく理解の出来なかった問題を聞いた。亨兄さんはしばし鍬の手を休めて、分かりやすく教えてくれた。こうして私はいつしか学校帰りには必ずといっていいほど、亨兄さんの仕事先へ行っては、手伝いながら、学問の教えを乞う事が、日課のようになっていた。亨兄さんもまた、話し相手に、私の学校帰りを待っていた。

春の蚕の飼育が上蔟して、繭の売買が始まって、久米次という人が家へ来るようになった。養蚕上がりには、必ず満足な硬さに 巣の張れなかった軟らかい屑繭が出る。仲よく二匹の蚕が入って造る玉繭も出る。母は、そうした屑物を集めて真綿を作っていた。久米次さんはその真綿や屑繭などを安値で買っては、新潟県の五泉の絹物を扱うところへ持って行き、差額を儲けて、小遣い働きをしていた。やわらか味のある顔をして、いかにも楽しそうに笑う人で、全く嫌味の感じられないその人は、父と一緒に、茶の間で酒を飲んで、二人とも快活に、楽天的なまでの談笑をしていた事があった。そのころから、亨兄さんの日常の動作が少 し 変わって来た。農作業の暇を作っては、土木工事などの金取(かねと)り仕事をするようになった。

「朝霧野山を籠めて、日輪仄かに浮かぶ」と、教科書の詩集で読んだ事があったが 、山里の仲春には、よくある現象である。

その日も朝霧が立ち籠めて、車峠の山頂から朝日がほのかな光を投げていた。その下で亨兄さんが、村道の土砂崩れを片付けていた。朝食前の仕事で、人知れず、何がしかの人足料を稼いでいるのだった。県道筋に出ると、馬車の車輪で掘れて窪みが出来ている。そんなと ころを、唐鍬で盛り上がったところを削り、窪みを埋めて、修復している姿を、時々見かける事があった。

その年もまた、づうごがはい出して、唐黍の葉裏や桑の葉裏で成虫に脱皮する季節だった。父は、井出という占師(うらないし)を請じ入れていた。亡くなった兄の霊を占いで安らげる事や、方角の良し悪しを観て、悪しきを良きに導く占いをするという事だった。茶の間の文机の上で、梵字(ぼんじ)のような字を書いた短冊を白紙で包み、金や銀の色紙を細く切り、帯〆をした札を造り、柱や梁に貼っていた。父はその札に手を合わせ、頭(こうべ)を垂れて、拝んでいた。私には、父もまた兄の死が、心にこたえているのだと思われた。いつも酒を飲む事の多い父で、磊落で、寂しい姿など見せたことのない、何気ない素振りの父が、人気(ひとけ)のない茶の間で、札に手を合わせている姿を垣間見て、その背(うし)ろ姿に親の情愛の深さと、何とも言えない尊さを感じていた。

いつしか屋敷の角のコナシバ柿が色づいて、渋が抜けて甘くなっていた。私たち兄弟は、代わる代わる木に登って捥いで食べていた。知らぬ間に秋は深まっていたのだ。

部落では、秋祭りの触れが回って、村休みとなった日だった。亨兄さんが、今日は村中休みだから、柳津へ行って来るといって出掛けた。母は相変わらずの紫蘇巻を持たせていた。その夜、お土産だといって硯箱を頂いた。私は嬉しく小おどりして喜んだ。私は、木製の硯を使っていたので、墨をする真ん中が窪んで、学校の書き方の時間になると、いつも気が引けていたのだ。いつか父に、硯が窪んで格好悪いといった時、父は、先祖の残した硯だから不平をいっては罰が当たると、にべもなくつきはなされた事があった。

その年の秋空はあまりすぐれず、気温の低下と作物の生長の悪さが、顕著に現われ始めていた。不作という、忌わしい言葉も随所に聞かれ、人々は冷害の対策に心を砕いていた。農作業は、専ら女子供の手に委ねられ、男達は、奥名入の炭焼きの段取りに精出す者が多くなった。ソボソボと降る霖雨が続いて、もう落ちる雨滴もなくなったかのように、久し振りに澄みきった秋空には、またしても天竺トンボが舞い始めた土躍日の夕方だった。「明日は日躍だ、塔寺へお参りに行かないか。マーコの生まれは子年だから、守り本尊は塔寺の千手観音だ」と亨兄さんに誘われた。母が何か意味あり気に、二人の方がよいだろうから行って来いといった。初めて行く塔寺詣でに、私はわくわくする胸を押さえて寝た。翌朝目覚めが早かった。薄明りの外で、東の車峠の山頂は、うっすらと黄色く、夜明けの空を覗かせていた。頸を巡らすと、明けの明星が一つ、玄関の棟木の上でまたたいていた。堀の流れで顔を洗おうとすると、足音におびえてか、流れの中へ飛び込んだ赤蛙が、両足を踏ん張って、スイーと澄んだ水の中を潜(くぐ)って行った。その時私は、イソ叔母さんに聞かされた、幼い時、むずがって、癇虫の薬といって食べさせられた赤蛙の股肉の事を思い出して、今の蛙に、なぜか一入(ひとしお)の情が湧いていた。

母は相変わらずの握り飯の紫蘇巻弁当を作っていた。

柳津までの道中、亨兄さんが塔寺の話をしてくれた。昔一人の雲水坊が、修行の旅の巡行で塔寺へ差し掛かった時、部落の疲弊している有様にいたく心を痛め、その窮状を救わんと して、部落の中ほどにある一本の柳の根元に仮住居を造り、千日の祈願をした。その念力が通じてか、満願の日、無想の眠りから覚めて見ると、不思議とその木は、枝が手となり、観音像に変わっていたという。そして誰いうとなく、立木の千手観音と呼ぶようになって、部落には人の行き来が繁くなり、村も栄えたという話だった。願いはかならず叶えると言われる、灼(あらた)かな観音様だと亨兄さんは付け加えた。

母が拵えてくれた炒り米を納め、霊鈴を鳴らして、よく観察すると、体のいたる所から手が出て、しかも、慈悲の象徴が坐像のすみずみに潜んでいるような荘厳さに打たれた。亨兄さんは御神籤を引いた。境内の枝垂(しだ)れ柳の下で弁当を食べながら御神籤を読んでいた亨兄さんが、「マーコ大吉だよ、これで俺も心を決めたぞ」といった。

その頃、亨兄さんは、久米次さんから勧められていた婿の話で、大分悩んでいたのだった。虚空蔵様や観音様にお参りして、悩みや、心の決め方を 、御神籤に託していたようだった。

栗鹿毛の馬

六年生の三学期の期末テストの時期だった、いつもの年よりは雪の降る日が少なく、秋の悪天候続きとは対照的に晴天の続く冬だった。しかし、降り出すと、意外な大量の湿り気のドカ雪が降るので、小屋がつぶれたなどと思わぬ被害のある冬だった。

冬期にしては珍しく、日射しの強い日が二、三日続いた午後の放課後だった。先生が、父からの伝言だといって、紙片を渡された。学校帰りに、名入の次道老のところへ回って来いという旨の便りだった。私は、名入の同級生とも心やすく付き合っていたので、名入へ回る事を苦には思わなかった。荘一君や只一君と一緒に歩いた。次道老の家は、荘一君の隣家だった。

道路から四尺ほど石垣を積み回した高台の、見るからに金持ちの屋敷らしく感じられた。南向きで、入口の玄関は庇造りでもガラス戸が眩ゆく、磨き抜かれていた。案内を乞うて中へ入ると、右手の厩に、栗鹿毛の馬が、大きな目玉をして、私を見詰め、鼻をフクフク膨らませていた。綺麗な身形(みなり)をした婆さんが私を炉端へ招き入れた。顎の角ばった次道老が、学校帰りに回ってくれたのか、年は幾つかと声をかけて来た。十三歳で荘一君と同級ですと答えると、次道老は、「入口の玄関の屋根が壊れた。先達ての大雪の時、屋根に凍り付いた雪をスコップで突ついて穴を開けてしまったのだ」といって屋根修理の依頼をするのだった。家へ帰って早速そのことを父に話した。父は頷いて、明日行って来よう、といった。

電気工夫の人情

学校の期末テストが終わると、またたく間に卒業式が終わってしまった。私は高等科へ進学する事に心を決めていた。しかし家では、かなり経済的に追いつめられている事を身に感じていたので、二の足を踏むような気持ちだった。 三度の食事の内、必ず一食は代用食だった。主に夕食で、南瓜(かぼちゃ)や、赤小豆(あずき)、芋などの混(ご)った煮の中へ、蕎麦団子を入れた食事が多くなった。

区費や各種納税の滞(とどこ)おりで、役場の収入役が回って来て、言訳をしている母の姿があった。又月一回、集金に回って来る電気料取立ての、高橋という人の荒い言葉を聞く事もあった。特に電気料集金の高橋さんが、黒い角帽を冠って街道へ入って来ると、高橋が来たと、子供心に一抹の恐怖めいた気持ちが心をよぎるのだった。部落の中で、電気差し止めの札を貼られたという声も聞かれた。頬骨の辺りから、目だけは避けて額まで、火傷の跡がある、薄笑いを浮かべている特徴のある高橋さんの顔が、印象深く残っている。

それは、秋の初めの頃だった。山里の人家は下屋、庇の屋根はほとんど木羽葺きか、杉皮葺きだったので、秋雨の季節になると、かならず、雨漏(あまも)りで修繕の仕事があった。名入の留重伯父は、自分の家では木羽を製造しなかったので、修繕仕事を請負えば、必ず私の家から材料を持って行った。私はその事を利用して、木羽や杉皮を届ける役目を買って出て、高等科の学資を蓄えていた。

雨混りの霙(みぞれ)が降って、いよいよ今年も冬かと気の滅入るような月末だった。黒いマントという袖のない外套を引っかけて、例の高橋さんが集金に来た。父は外出でいなかった。母は、豆など出して、これで何とかならないかと、嘆願していた。その姿があまりにも哀れに思えて、私はいくらもない蓄えを出して、高橋さんに渡した。高橋さんは私の顔をじっと見ていたが、渡されたお金を数えて、これは二月分あるといって、半分返した。咄嗟に私の頭に、勉強室に電気が欲しい事が閃いた。そして高橋さんに話して見た。高橋さんは、こころよく承知して、二階に昇って場所を点検していた。数日後、高橋さんが来て、長い電線を引きずらして勉強室に電気がついた。見かけより人情のある人で、恐(こわ)い人と思っていた自分がはずかしかった。マントの雪を振り払って炉端に寄った高橋さんに、母はお茶をすすめていた。

コブシの木

春夏秋冬の、年に依ってその差は多少あるが、雪を忘れる年はなく、私の十四歳の年もまた、硬雪の季節が来た。車峠の斜面には、白雪の間を縫って、コブシの花芽が、北を差して、春近しの気配をただよわせていた。コブシの花芽は北を差すと、古い本で読んだ事があった。いつの日だったか、弟の薫を連れて硬雪を渡り、ホヤという、冬でも枯れず、緑葉が栗の木の枝肢などに茂っている植物を求めて、山深く入って、帰り道に迷った事があった。その時、古い本の教えに随って、コブシが指している反対の、南に向かって歩いて帰れた事があった。古い本に偽りはないと信じて、その頃から、私は古い本を読む事が好きになった。

次道老

晴れやかな朝の太陽が、凍てついた白雪に眩ゆく反射して、さながらダイヤを撤き散らしたように、キラキラときらめいていた。

夜の寒気が強かった翌朝には、よく見られる光景である。眩ゆい輝きの銀世界に心を奪われていると、父の声がした。私を呼んでいるのだ。学校の事かと思い、父のもとへ行くと、父は一通の手紙を出して、これを持って名入へ行って来いといった。私はその手紙を持って出かけた。道々六年間一緒に学んだ同窓の友の事を考えながら、それぞれ自分の道を求めて、部落から出る者、女性は進学せずほとんど家庭で農業に従事すると聞いた事など、山里の若者の姿を思い巡らしながら歩いた。いつか次道老の家の前に立っていた。この前に来た時とは違ってクニという老婆は紺の半天を着て、入口の凍り付いた雪を、箆(へら)でキャカキャカ突ついていた。私の姿を見ると、「マーコ、待っていた、さあ入れ」と、先に立って導いた。玄関内の土間に入ると、例の栗鹿毛馬が、鼻をブルブルッと鳴らして、厩のません棒を越して頸(くび)を長く伸ばして来た。私が少し近寄ると、長い顔を上下して、懐かしそうにすり付けて来た。馬の挨拶かと思い、可愛かった。クニ婆さんに手紙を渡そうとすると、まあまあお上がりといって、炉端へ招かれた。芳江という小母さんが煮物をしていた。側(そば)で娘の芳子が、所在なげに腰に絡まっていた。横座という、その家の主人が座る席には、次道老が几張面に正座して、手紙を受け取って読んでいたが、話し始めた。先達て、屋根修理に来た時、マーコを気に入ったから貸してくれと父に頼んでおいたのだといった。手紙では、子供の考えもある事だから、高等科を卒業した後には、と書いてある。マーコさえよければ、家から学校は出して上げてもよい、というのだった。私は返事のしように困っていると、留重伯父が来た。芳江小母さんが、伯父を交じえて話をしたいと呼んで来たのだった。次道老の話は、要するに手不足だから小間使いや農作業の手助けをしてもらいたいという事だった。金貸しもして居て自分は老体だから、その方面の小間使いもと考えているのだった。芳江小母さんの婿で、留三という小父さんは馬車追いで仕事をしているが、遊びが多く、次道老の信頼は薄いように感じられた。色々話し合って、クニ婆さんが、たとえ三日が一日でもよいから来てくれというので、私はクニ婆さんの期待に添うよう考えてみると約束して、堀内家を辞した。それから幾日かたって、二階で本を読んでいると、名入の次道老が亡くなったと知らされた。私はその次道老の死を悼むように窓を開けて空を眺めた。花弁(はなびら)のような雪が、チロリチロリと舞っていた。その合間から、老翁の顔が、そして、あのクニ婆さんの縋るような目差しが、浮かんでは消え、脳裏に去来した。

田舎の仕来たり

高等科通学も二ヵ月を経過して、学習の落ち着きも出て、山里にも春らしく、茎立ちの鮮やかな花、タンポポ、カタクリの花と、美を競い始めて、農家は田植月となっていた。農繁期ともなれば、高等科も手助けの一助を担う事になっていて、恒例の農繁期休校が告げられた。

そのころの山村では、高等科の生徒ともなれば、一人前に近く世間の人は見ていて、精一ぱい働かねば、あの子は怠け者と指差され、白眼視されるので、誰しもが溌溂とした働き振りを見てもらい、誉められる事に生きがいを感じる時世だった。そしてまた、農繁期休校の間に余暇を作っては、バラス運びや道普請などで学費稼ぎをする事が、当然の責務のように習慣づけられていた。無論農作業は精一ぱい手伝いながらの事で、高等科の生徒にとっては苛酷なまでの仕来たりだったが、仲間から落伍者となる事が怖く、みんな頑張っていたのだ。その仕来たりに頑張り切れず、退学して部落から出て行く者もたまにはいた。

県道に敷く砂利は、只見川の岸辺の砂浜で、金網篩(かなあみふるい)で箭い分け、石油箱で背負い揚げるのだった。人々はこの事をバラス背負(しょい)といっていた。力があれば誰にでも出来る簡単な仕事で、休校中の学生がよくやる賃取り仕事だった。しかし石油箱一ぱいの砂利の重量は凡そ十二貫匁はあるので、体力のない者には出来ない仕事でもあった。

私も一度やった事があった。村のトモエ小母さんに誘われて、金欲しさのあまり行ったのだった。それは、小山部落の与吉という人が、道普請を請け負って、県道に砂利を敷く仕事だった。小山の川原からバラスを背負い揚げる仕事で、一箱六銭の賃仕事だった。私は初めての仕事で随分骨が折れた。歯を食いしばって三回背負い揚げたが、人並に箱一ぱいバラスを入れる事は出来なかった。バラスを敷きながら監督している与吉さんが、量が少ないと文句をいっていた。昼近くなると背中がピリピリ痛むので、与吉さんに、止(や)めて帰ると いった。与吉さんは、俺は午後用事があるから、マーコお前、ならし方をしながら、背負い揚げる者の数を取って見てくれないかと頼んで来た。私は背中が痛く中途半端で帰る事に言い知れない惨めさを感じていた時だけに、願ってもない言葉に喜び、即座に応じた。午後のバラスならしも骨の折れる仕事だった。背負揚げて来るバラスを道の中心に卸させ、数取りの札を渡し、バラスをジョリンで道一ぱいにならす仕事だった。夕方、その日の作業が終わると、札を回収して、一人一人の箱数を作業帳に記入して、その日は終わった。明日も行こうかと誘うトモエ小母さんに、私は背中が痛いからと断わった。夜、母は、皮のすりむけた背中に油薬を塗ってくれた。兄が、お前はがんたれだから人の真似はするなと諭してくれた。その時から私は、力仕事では人並に伍す事は出来ないと思うようになり、次道老の言葉を真剣に考えるようになっていた。

私が初めて、名入の堀内家に父の便りを持って尋ねた時の事である。次道老が座敷で書類整理をしていて、私も手伝わされた事があった。貸金の利子計算の時だった。次道老は、人間は学問も大事だが、頭の働きのない者には、学問は無用の長物になる。また、頭を働かせずに筋肉を労しても、みのりは少ない。金を他人に貸して利息を得る事は、金があるから出来るというものばかりではない。金があっても出来ない者は出来ないのだ。即ち頭の働きで、他人に、あの人はよい人だと感謝されながら、自分は労せずに金を得る事が大切な要点だと話された事があった。

そうした次道老の言葉を思い出しながら、私は何時しか掘内家に引かれる気持ちになっていた。それと同時に、農繁期休みの間に、学費くらいは稼ぎたいとも考えて、間(ま)がよければ百姓手伝いで労賃稼ぎなど出来ないものかと、内心(ないしん)一縷の望みももっていて、次道老の亡くなったおくやみに行く事を考えた。父に話をすると、父は意外にも喜んでくれた。

堀内次道老は、旧会津藩の経理の末席で働いていたという人で、部落では人望も厚く、人に頼まれると小金も融通して、中々頭の切れる人だと、何時か留重伯父が話した事があった。

翌日私は、父の用意してくれた、そのころでは貴重ともいえる菓子折を持って、塀内家を訪れた。老翁を失った家の中は、気のせいか、うつろな空間が感じられ、クニ婆さんの寂しさの隠し切れない表情とは対照的な、留三さんの、さりげなく浮いた言動が印象的だった。留三さんが横座に座って、以前に見た塀内家とは趣が異なり、私が期待していたものが、裏切られたような感じを受けた。仏前に香を手向けて、いろいろ話していると、私が感じたものとはまた裏腹(うらはら)に、クニ婆さん始め、留三さん、芳江小母さん、また小さい芳子までが、懐かしむように迎えてくれた。そして、話の弾みで、私はその日から田植えの終わるまで、手伝う事になった。

堀内家にはそのころ、政さんという雇い人がいて、農作業をしていた。この人は、決まった職もなく、行く先々で百姓手伝いなどして賃金をもらって歩く、宿無し浮草のような存在の人だという事だった。

堀内家での私の第一日が始まった。朝起きると、馬に飼料を与える。昼食前にまた馬の飼

料、夕食前に飼料と、一日目は留三さんが仕事の段取りを教えてくれた。私は、初めて、一日中責任ある仕事をするのだと、自覚が心の中に湧いて来て、張り切って精一ぱい働いた。

堀内家は以前から人任せの作業が多く、作業上の厳しさは何一つなかった。が、仕事を求めて順序よく運ぶ事を、自分で考えてやらねばならなかった。私が仕事をするようになって から、留三さんは時々作業を見に来るだけで、農作業には手を出さなかった。芳江小母さんも時たま自製のパンなど持って来て、労を犒うくらいで、鍬を持とうとしなかった。政さんと二人だけの作業が多く、政さんは賃取り仕事という概念で働くので、自発的な作業はなく、ただ言われた事をまじめにするだけの人だったので、自然私が指図して使う立場になっていた。

四日目の朝だった。留重伯父さんが手伝いに見えた。マーコが厄介になっていると聞いたから手伝いに来たといっていた。伯父のところでは、田植えは済んだといっていた。伯父が、ニ日間手伝って、田植えは終わった。

私は、無我夢中で働いたのだが、様々な作業のあり方や人情の機微に触れたり、人それぞれの行き方なども見て、初めて経験した社会勉強の収穫が大きかったように思われた。

休校もあますところ一日となって、私は暇乞いした。留三さんはまた来てくれといって、無造作に三円のお金をくれた。思わぬ大金のように思えて私が躊躇していると、芳江小母 さんが、「マーコは良くやってくれた。政さんより家では遥かによかったのだから取って置きなさい」といった。私は嬉しかった。

外へ出るとクニ婆さんが待っていて、内緒だといって一円くれた。その時の嬉しかった 事が、私には終生忘れることの出来ない人生の一齣となって残った。

只見川の川沿いに位置する名入部落は、他に先駆けて雪は早く消え、草木の伸びも早い。道傍の皐月つつじが咲いていた。僅か数日の農作業手伝いで、私はよき経験と、思わぬ大金を手にして心は浮き立った。皐月つつじまでが愛(め)でているように、ことさらに美しく心に映っていた。家へ帰ってからの父や母の喜びようもまた格別だった。頂いた金を父に見せると、横から母が、初めての働きを祖父(おじや)さんに報告してからといって、母の手縫いの、宝のようにしている紫の財布に入れて、仏壇に供えた。

分教場では恒例の遠足の朝だった。弟妹達が早朝から浮き浮きと騒いでいた。私が鞄を抱えて出て来ると、マコ兄ちゃん有難うと口々にいった。母が側から、マーコが稼いだ金で買ったのだと、着た事もない白い折り衿のシャツと白い靴を履いて喜んでいる姿を指していった。私も嬉しかった。自分の働きが、これほどまでに喜ばれたのかと思うと、何時か祖父(おじや)がいった、兄ちゃんらしくという言葉が、金言のように甦ってきた。

弟の巣立ち

栗の一番花が咲いて、山肌もすっかり乾燥し、山里にも春闌けた青葉を裂いて、カケス鳥がゲイツ、ゲイツと鳴いていた。亨兄さんは婿に行って、学校帰りの楽しみがなくなった私は、まっすぐ家へ帰ると、父は、弟の薫を傍に客と相対し、茶の間で酒を飲んでいた。その客は、剃り立ての角張った顎が、いかにも精悍な感じがして、瞼の垂れ下がりが際立つ顔の 人だった。越後の加茂町で書店を経営していて、弟薫を店員に欲しいといい、店を手伝ってもらいながら学校へも通わせるといっていた。弟はまだ見た事もないものの、書店という事で興味をそそられ、山村にいるよりも、何か明るい道があるように、心に希望を持ったようだった。

翌朝、弟は、その坪谷徳平という人と共に出て行った。

初出の社会

高等科二学年の課程も、またたく間に過ぎ去って、私も一人前の若者として社会に出る事になった。卒業式の翌日だった。兄がセイロウの裏から、雪を掘り割って取り出した桶木を、名入の桶屋へ運ぶのだといって、私と二人で背負って届けた。兄は桶木の代金を催促したが、桶屋さんは、代金は、大石田の吉之助さんに払ってあると言っていた。夕方、兄は私を連れて吉之助さんの家へ代金もらいに行ったが、吉之助さんは、父との話し合いがあるからといって、金を寄こさなかった。兄はその事を父に話したが、父は代金はもらえる話だったが、酒飲みの上での話だったしと、はっきりしなかった。兄はその後、大石田の談判吉の吉之助は相手に出来ない人だと、事毎に嫌っていた。

私は高等科通学の間、将来のことでずいぶん考えていた。相続人以外は、部落内では生活出来る余地がない事、手に職を仕込んでも、生存競争の烈しい狭い田舎では、円満な家庭を 作り、どれほどの社会に貢献出来る暮らしができるだろうかと、考えれば考えるほど、雪深い山里の環境の悪さに突き当たるのだった。結局私は、警察官として、世の公僕となる事が、心に添う職業のように思えて、いつか心に決めていた。幸い、兄は頑健で、田畑を始め一切を、一手に引き受けて働いていた。村の消防団(書込者注、消防組か)の一員としてまた青年会の会員として、立派な社会人として成長していた。だから、私は自分の求める道に、何のこだわりもなく進める と、心を新たに、受験費用だけは自分の手で稼ぐべく励み始めた日の午後だった。昔、武士を捨てた先祖が鎧兜を埋めた目印に植えたという杉古木の脇に、墓印がないからといって、留重伯父が墓標がわりに欅を植えた。私も手伝っていると、留三さんが来た。堀割というところから栗丸太を運ぶため馬車を引いて来たが、マーコに頼みがあって寄ったといっていた。留三さんと三人で家へ入ると、父も木羽割りの手を止めて、お茶になった。留三さんは、馬車追いが専業で、百姓が出来ないから、マーコを貸して欲しいとの事だった。いろいろ話していると、父には、どことなく断わり切れない、弱味のようなものがあるのを私は感じ、私もまた、断わる理由はなかった。むしろ、過ぎし日のお世話になった時の事など考えると、情にほだされるような感じもして、父の為にもしばらくの間、手伝いをする事が私に課せられた責務のようにも思われて、堀内家へ行く事にした。話が決まると、父達は酒宴になった。はからずも居合わせたという事で、留重伯父は、立会人の恰好になって、のめない酒を、盃の縁(ふち)ばかり舐(な)めて相手になっていた。母は身欠きにしんを焼いたりして、肴を作っていたが、心なしか、私を見る目が佗びしそうに見えた。傍で兄が、家の事は俺がいるから大丈夫だ人様に笑われぬように確かりやってみろと元気付けてくれた。

堀内家は、相変わらず人手に頼る農業をしていた。政さんはいなかったが、今日はお房、明日は定子と、日々雇人が変わって、実の入った百姓ではなかった。

堀内家で働き始めてから三ヵ月になろうとした皐月長雨の中、田は二番ごの草取りの時期だった。長雨が、奥只見の山々の雪を解かしてか、只見の川は増水して、流木が水面を覆って流れて来た。名入部落の人々は、この時とばかりに流木拾いをした。長柄の鉤竿で引き 寄せ、拾い集めて薪にする。この流木取りが、他の部落の柴切りに相当する仕事だった。時には、太い杉丸太なども拾って、思わぬ収入になる事もあった。流木が流れて来始めると、老いも若きも、さながら戦場を思わす川原と化すのだった。

堀内家の生活は、銀飯(ぎんめし)といって、米だけの飯で、私の家のように、糅(かて)飯や粟飯などの混ぜご飯は食べず、資産家のよく言う、上流社会層の生活を思わせた。また留三さんが、馬車追いで、常時賃稼ぎをしているので、金銭の不自由も見られなかった。秋祭りが近づくころになって、政さんが、ひょっこり尋ねて来た。農作物はみのりを待つばかりだったが、土手のよせ刈りや、秋蒔き作物など、農家の仕事は限りなくあるので、雇う事になった。私は、以前にも一緒に作業をした仲で、政さんの落ち着きのない人柄は知っていた。政さんは、どこへ行っても、世間はそう甘くはない、処々方々(しょしょほうぼう)歩いて見ても、苦労するばかりで、ここの家が一番働き易く住みよい家だといっていた。そのころ私は、堀内家にも馴れて、外の仕事に限らず、家の中の事まで私の手にゆだねられるようになっていた。

そうした事から、百姓の作業段取りや、よき作物をつくる科学的な考えを練るようになっていた。従来通りの方法では、体を酷使して酬いが少ないので改革せねばと考えるようになっていた。肥を運ぶ、下肥をほどこす、取り入れの作物を運ぶ、総てが、背中を使って背負うのが百姓だった。私はこうした事から改める事を考えていた。

秋祭りが来て此処彼処(ここかしこ)に地酒の宴が開かれて、堀内家でも例に漏れず、手伝いに来てくれた人達を呼んで犒(ねぎら)いの馳走をしていた。留三さんは、初めて私に鳥打帽を買ってくれた。私はそれまで、世間の若者が烏打帽を被って歩く姿を見ると、生意気臭く感じ、気に添わなく思っていた。しかし実際に自分も被って見ると、悪い感じはしなかった。自分はあまり潔癖過ぎるのかと思う事もあった。大人たちから、マーコもよい若い者になったと、鳥打帽を被った姿をほめられて、面映ゆい気持ちだった。

打ち込んだ仕事

道路下に堀内家の桑畑があって、田面とは平地続きになっていた。私はこの畑に作業小屋を建て、小屋と田圃との間に車の通れる道を作る事を考え、祭り休みに計画の設計図を書いた。留三さんに話すと、留三さんは、百姓の事は一切任せるといって、小型のリヤカーを一台買ってくれた。

田圃の土手は、昔ながらの大きな土手で、少し手を加えると、悠々とした道路が出来て、大二郎大工によって小屋も出来た。私は、自分の未来の事など忘れて、仕事に打ち込んでいた。いつしか畑の小蕪が赤い根菜を覗かせて、秋の取り入れが始まっていた。リヤカー使用によって、背中を使わずに、稲の取りこみも苦もなく出来た。政さんも、これなら仕事飽きせずに出来ると喜んでいた。隣に接した田主の三次さんが、家の稲も運んでくれと依頼して来た。三次さんは堀内家の隣家の主人で、留三さんと同じく馬車追いで、百姓は女手だけでやっていた。私と同級だった荘一君は、高等科卒業後、都会へ出て、会社務めだといっていた。

リヤカーを使っての作業は、考えていたよりもたやすく仕事が捗り、頼まれる度に快く引き受けるので、何時も暇がなかったが、小屋の中で作業が出来るので人々の羨望の的だった。

秋晴れの雲一つない空に飛び交う烏の群が楽しそうに見えた。何か心が引かれる思いで私は家へ帰って見た。家では泰吾小父、元吉叔父、謙重叔父も来ていて、後れ馳せの祭りの雰囲気を感じさせた。母が友一の二十歳のお祝いを春の徴兵検査で出来なかったから、泰吾小父の勧めもあって、祝ってやる事にしたといっていた。兄は第一乙種合格で、現役は免れたといっていた。酒宴の半(なか)ばで、泰吾小父が、不景気で暮らしがたいへんな時だ、こんな時こそ先祖供養の杉でも切って、為にしてはどうかと、話を持ち掛けていた。父は、供養の木は切れないといっていたが、泰吾小父の話で、随分金になるとさかんに煽られて、切ることになった。しかし父は、自分では切れないからといって、泰吾小父に任せて切る事になった。その杉の古木は、優に百年は経たかと思われる六尺以上も回る、セイロウの北側の杉の古木を除けば、近在ではまれに見る大木だった。

その年もまた冬が来て、雪中の仕事は、藁細工の草履作り、草蛙作りなどが主な仕事だった。小屋の中で、政さん相手に仕事をしていると、部落の人が藁を抱いて一人寄り二人寄りして、冬も半ばになると、小屋の中は大勢で賑わい、波浮の港などの流行歌の唄声が、小屋を満たすようになった。その頃から留三さんは、今日は用事があって馬を追って行けないから、マーコ代わりに行って来てくれと、時々いうようになった。馬橇に杉丸太を積んで、三次さん達と一緒に野沢駅へ行き、駅へ丸太を卸し、帰りは、馬車追いの留まり場へ行くと、醤油樽や、正月用品などの各商店からの依頼品が集積されているので、それ等の品を仲間で分け合って積んで帰るのだった。栗鹿毛の馬は、私が毎日飼料(かいば)を与えていたので 、よく私の手綱裁きをおとなしく聞いてくれた。

突然家から、薫が死んだと知らされた。年の瀬も間近になってからの事で、たいへんな騒ぎになっていた。亨兄さんも駆け付けて、久し振りに会った私に、体だけは大切にするようにと何度もくり返した言葉が私の脳裏に、石のように重く残った。

私が馬橇を追って出るようになってから、留三さんと芳江小母さんの間に、何となく隙間風(すきまかぜ)が感じられるようになった。政さんは、来春また来るといって、出て行った。堀内家の生活も一年が経過して、四月の陽春の候を迎えた。泰吾小父さんは、私の家の先祖供養の古木を切って、枝もない幹のよい部分は舟材として売り、残部を木羽に割ったとの話を聞いたが、舟材としての長材を野沢駅まで運ぶ運送賃に掛かり、失敗したとの事だった。木羽でも失敗したと一緒に弟子のようにして仕事をしていた弟の次雄君が喋っていた。そんな話を聞いてから間もなく、次雄君は、名入部落では資産家の、為佐という人の家へ百姓奉公に行った。泰吾小父は、生活の破綻が部落に在住を許さず、樺太の製紙会社へ出稼ぎに行った。

次雄君は、同じ百姓奉公と、似たような私に共感を持ってか、随時遊びに来るようになった。そのたびに、私は明日への夢を追って、話し合った。また私も為佐さんの家をたずねた。為佐さんは体の小柄の人で、頭が禿げて、陽気な性格で、いつも微笑の絶えない人だった。小柄の割には良く働く人で、こまねずみのように、仕事から離れる事のない人だと、人々の話題になる人だった。働く者に貧乏なしとかいって、昔ながらの硬骨の人だった。

風坂の山桜が一ひら二ひら咲き始めた夕方だった。坂下の田圃の土手に腰掛けて、為佐さんと次雄君が汗を拭いていた。私は諏訪の上の仕事帰りだった。為佐さんの随分疲れたような姿に声を掛けると、マーコ今夜お茶のみに来いと呼んでくれた。その夜お茶のみに行くと、為佐さんは、俺は働くだけでやって来たが、もう歳だ、疲れるようになった、お前は小屋を建てた利益はあるかと聞いて来た。私は、小屋があって為になる事、リヤカー道の利益の事など話した。それから数日して、為佐さんの小屋建てが始まった。そしてそれが弾みとなって、物持ち人達の小屋建てが流行した。更に車の通れる道路を持ち、耕地整理の話題も出て来た。父の屋根葺きを絡めて、私は小屋建ての相談も受けた。

強烈な、叩き付けるような春の雨の雨足に、農作業を休み、私が、好きな高山樗牛の本を読んでいると、クニ婆さんが生紙(きがみ)の束を持って来て、お爺さんが貸した貸金証書だから、調べてくれといった。その十余通の証文を見ると、何れも日歩三銭となっていた中に、無利子の証書が一通あった。達筆に書き流した字が際立っていて、末筆に丑松と印されていた。父のものだと直ぐ分かった。私は、他のものとは違う無利子の理由を聞いた。クニ婆さんは、その証書を探していたのだ。無利子というのはと、おもむろに話し出した。それは、学校卒業してから私を手伝いさせるという条件だから利子が付かないので、もうその証書は終わったからお前に上げるといって渡された。私は父が、いつぞや留三さんに断わり切れなかった訳が分かった。そして雨の中を家へ帰って証書を父に渡した。その時の父の喜ぶ姿は、いつもの喜びとは違い、言いようのない安堵の喜びとでもいうのか、その姿が、何時までも目の奥に焼きついている。

久し振りだからといって、母と兄は、餅を搗いてくれた。母たちの心づくしがうれしく、久方振りの粟餅が何よりも心に沁みてうまかった。

兄は私の手の平を見て、親指のあか切れに膏薬をはってくれた。「奉公は辛いか」と聞いて来た。私は、さして辛いとは感じていなかったが、ただ、雪中の馬橇を追っての野沢歩きは体にこたえたというと、兄は、留三さんは、お前に馬を追わせ自分は好きな者のところで遊んでいるとの噂があるといった。その時父が、友一滅多な事はいうものじゃないとたしなめた。

春の雨は晴れるのも早く、夕方近くには陽が照って、御坂山の空が赤く燃えていた。その空を眺めて私は堀内家へ急いだ。道中、高山樗牛の生々存続の勢力と、宇宙発展の元気なる 一節を、噛みしめるように繰り返しながら堀内家へ着いた。芳江小母さんが、家はどうだったかと、さも私が家へ行って、悪い話でもしたのではないかと、さぐるようないい方をして来た。かたわらからクニ婆さんが、マーコは家族と一緒だもの何も悪い事など、話すはずがないよと、取りなしていた。私は兄がいうように、留三さんが、好きな人のキツノという小母さんのところで遊んでいる事はうすうす感じていたので、芳江小母さんは、その事を心配したのだと思った。

露が晴れず、夜のとばりが明け切れぬ暗がりの朝だった。仕事の都合があり、馬にやる朝草刈りを早めに済ます考えで外に出た。突然小屋の軒下で、黒い物がうごめいていた。辺りは暗く、部落はまだ静まり切っていた。

堀内家で働くようになってから、私は部落の青年会に入会して、部落の若者として、部落の発展や自己研修に、部落の人達と歩調を共にしていた。

青年会の集会には、決まってお寺の一室を使用していた。先輩には、庄一さん、佐内さんなど、強者(つわもの)がいて、時々肝試しをした。部落の村外れから凡そ三百問程も奥まった、鎮守の森の鬱蒼たる茂みの中に諏訪神社が建っていて、夜の闇の中を一人一人その神社へ行き、目印の札を取って来る事が、肝試しの一つだった。また、墓地を一周する肝試しもやった。そうした精神鍛錬をしていたので、突然に動いた軒下の黒影にも驚かなかった。近寄って見ると、政さんだった。その政さんは、昨夜終わりの汽車で野沢へ着き、四里の夜道を歩いて名入部落へ入った時は明け方の三時だったので、軒下で夜明けを待っていたといっていた。

兄の出稼ぎ

政さんが来て仕事が捗った。しかし一方で留三さんは、ものにつかれたように遊びが烈しくたり、家を留守にする事が多くなった。芳江小母さんが、狂乱したように追いかける事が見られるようになって、それまでは気がねをしていた人たちも、平然と話題にするようになった。ちょうどそのころ私の家でも、兄が出稼ぎに出るといい、父も母も出せないといい、少しざわついていた。樺太の泰吾小父から、金が取れるから出て来いと、兄の許へ誘いの便りがあったとの事で、兄も、年中間に合わぬ生活を繰り返しているよりも、一働きして来たいとの事だった。

山里の八月、お盆が過ぎると、夏の真盛りの熱暑の大気が移動して入れ替わるかのように、肌にふれる空気が涼味をおびてくる。そして百姓は、実りの秋を待つばかりの、しばしの間(あいだ)の暇な時になる。兄はその時機を待っていたかのように、母の目から隠れるように出て行ったと、私のところへも噂がもたらされた。私は、兄がいうように、年柄年中間に合わない生活をして、あくせく働いている村人たちの姿を思い浮かべながら、一働きして見たいという兄の気持ちが、痛いほど心に響いた。

兄が徴兵検査の結果、現役をまぬかれたといった時、現役に行く者の身になって、何かしなければ申し訳がないと、話した事を私は思い返していた。

堀内家の屋敷の甘柿が淡(あわ)く色づいて、道行く人が、物欲しげに眺めて通る中秋の夜だった。名月や、と歌った人の心境を思いながら、柿の間を縫ってもれる月の光を浴びてたたずんでいると、留重伯父が来た。母からの言伝(ことづ)てを持って来たといった。

内へ入り、クニ婆さんに、中野の兄が出て行ったので、マーコを家へ返してもらたいと暇

願いした。クニ婆さんは、留三が今の状態では、若い者の教育にもよくないので、返す時機を待っていたような喋りかたで、長い間お骨折りをかけたのに、何もしてやれずすまないと、伯父に頭を下げていた。

留三さんは、好きなところに入りびたって留守だった。芳江小母さんが、申し訳なさそうに、よくやってくれたのに、ほんとうにすまないと、涙を浮かべていた。

翌朝私は、暇乞(いとまご)いして出ようとすると、芳子が、行っちゃ駄目だと、腰に絡まって来た。学校があるので、途中まで送るからといって連れて出た。寺下のキツノという人の家の前で別れ、私は案内を乞うと、キツノ小母さんが内へ招いて、お茶を汲んだ。囲炉裏端で留三さんが、私の暇乞いを早くも察してか、相変わらず無造作な仕草で、金を紙に包んで、差し出した。長い間ご苦労かけてすまなかったと、いかにも身を恥じるような情景に見えたが、居直ったように淡々と喋る言葉の中に、ふてぶてとした野心がのぞかれた。キツノ小母さんが茶を注ぎながら、マーコにはすまないが、好きな同士でどうにもならないのだ、悪く思わぬよう頼むといって、キツノ小母さんもまたお金をくれた。渋茶をすすりながら、二人してサイパン島へ行って、店を開く準備をしているところだ、成功して帰って来る心算だから、その時はまた会う事が出来るともいっていた。秋晴れでも蒸すような外気で、外へ出る時、軒下には小さな蚊の群がくさりのようにつらなってとんでいた。秋の空は崩れやすいから天気が変わるかも知れないと思いながら、名入部落を後にした。山の中腹を削り取って開いた大石田道路を、大人の社会の不可解さを思いながら歩いた。石坂辺りの栗の木はピンポン玉くらいの、針ばかりのいがを付けていた。堀内家で働いた一年五ヵ月をかえりみながら、足どりが軽いような重いような、自分でも分からない、ともすると沈み行くような気持ちを抱いて歩いた。中野の崖の上に立った時、ふと我に返った。南向きの御坂山が、綽々(しゃくしゃく)たる雄姿に十一時の陽(ひ)を浴びて、瑪瑙をちりばめたように輝いて、私の心を引き立ててくれた。街道に入って来ると、流れの土手には花の終わったカタクリが、三角の種子袋を三つ寄せ合い、丸くなった実をのせていた。それは来春の花の繁栄を物語るように見え、実入りを告げた樺色茎が、あちこちに立っていた。

第二篇  青年期

一年半ぶりのわが家

一年半ぶりに生家にもどった私に、父母は長い間の労をたたえた。夕餉の膳には、滅多に食べた事もない数の子などを添えて、叔父さん、叔母さん達も呼ばれて来て、犒ってくれた。しかし私は、兄もいない、弟薫(かおる)もいない物足りなさが、心の奥にひそんでいて、叔父さん達の盛んにほめてくれる言葉も心にひびかなかった。それよりも、数の子をしゃぶりながら、何の屈託もなく私の顔を見ている妹カツミや弟八郎の姿を見て、祖父(おじや)がいっていた、兄ちゃんらしくという言葉ばかりを、鉛のように重く心に感じていた。

堀内家での朝の草刈りが身に付いていて、翌朝、朝の目覚めが早かった。母だけが薄暗い流し場で、コトコトと何か刻みものをしているようだった。糅(かて)切りでもしているのだろうと思いながら外へ出た。外はほんのりと、東の車峠の上から明けようとしていた。家では厩(うまや)はあっても馬も牛も飼っていないので、朝の草刈りはしなかった。所在なげに、セイロウの方へ行って見た。兄が丹精こめて飼っていた蜜蜂は、菰(こも)巻きにした箱だけが軒下にぶら下がっていて、蜂はいなかった。やはり、飼い主のいないところには、蜂でさえも居つかないのかと私は思った。足を巡らして、勝負沢へ行って見た。どれもこれも懐かしく感じられたが、梨の木畑だけが、梨拾いの出来る季節なのに梨の木はなく、殺風景なあさつき畑になっていた。勝負沢に、ただ一枚ある田の辺りに、蒲(がま)の穂だけが伸びて、私を慰めてくれた。何気なく、右手の藪を見た。そこには、まだ口の開かないあけびが、三箇一房になってつり下がっていた。そうした山の生気が、感傷的だった私の心を引き起こしていた。山の上から朝日が軟らかい光を送って来たので、家へ戻った。家ではお膳が並べられ、朝食の準備が出来て、弟たちは下の方へ座り、上座の、いつも兄が座っていた場所を空けていた。漆塗りの角膳は、使い古しになって、ほとんどはげていても、父の味、母の味が沁みこんでいるようで久し振りに懐かしく心の安らぎを覚えた。弟達は早々と飯をかっこみ、そそくさと学校へ行った。

母が、マーコは甘酒が好きだったからと、注ぎ口の付いた銅薬缶で沸かしてくれた。発酵し過ぎて、酸味とアルコール味のまじった甘酒だったが、母の私を思う心情がありがたく感じられた。

食事をしながら父は、兄が家を出ている現在では、私にしばしの間、家を見てもらいたいといった。母もまた、友一が成功して帰る事を信じて、待つより致し方ないといい、せめて二、三年の間、家の手助けをしてくれとのぞむのだった。私は既に、家へ入った時の感じから、自分の希望よりも父母の心の痛手や、弟達の事を思う気持ちが強く、二十五歳ごろまで辛抱する気持ちになっていた。そして二十五過ぎてからでも、自分の道は開いて見せると心に誓っていた。

朝の食事がまだ終わらぬところへ、叔母達が来た。私がどういう行き方をするか心配で、ヨテと二人して、語り合って来たとイソ叔母がいっていた。

私は、みんな家の事を心配してくれるのかと思うと、心の底からこみあげるものを覚えた。お茶をのみながらひとしきり談笑が続いて、父はこれからの段取りもあるからと出かけた。私は祖父の墓参りをするから、叔母さん達も行かないかと声をかけた。みんな喜んで、団子を作って墓参りに行った。

家の墓地は歩いて七分くらいのところで、かなり広い範囲にわたり墓標が朽ち果てて、墓らしい形が分からなくなっていた。ただの原野を思わせる所も出来ていた。何百年かの長い年月にこうした姿になったと思われる、その原野となったところに、祖父の時代に、そのまま放置する事は勿体ないといって、杉を植林したという。その十三本の杉の木が、細く太く、殊更に目につく道脇の一本だけが四尺以上にも育っていた。墓所には朴の葉や杉の枯れ葉が、ところ嫌わず落ちていた。昼近く叔母さん達は帰った。私は座敷続きの四畳半を自分の室と定め、井出という占い師が占い札を書いた時の、黒ずんだ机を持ちこんで、これからの生活設計を考えた。そして年間を通じて、どのくらい金が必要か、どのくらい働かねばならないかと真剣に考えた。

電気料、村民税、寺の維持費の事まで細かく書きしるした。傍で母も、お盆、暮、正月と、最小限度の費用を口添えして手伝ってくれた。

計画書が出来て驚いた事は、現在の家族七人での年間の生活費が、三百十円も必要である事だった。その当時は道路工事など、土方の日当が七十銭で、軽作業者の賃金は五十銭が世間の相場だった。幸いというべきか、家の田圃の収穫が、半年分の食糧は賄なえる事だった。家の田は、借金のかたに資産家に渡し、小作料を払っての小作農地であった。そうした事から、六ヵ月の維持量しか無かったのだ。いろいろ考えると、冬の雪中といえども遊び暮らす事は許されないように思われた。夕方父が戻って、木は買えなかったと、撓(たわ)むように横座に座った。私は、留三さんやキツノ小母さんから頂いて来た五円の金を父に渡した。

翌朝、秋晴れの、朝から抜けるような晴天が、私を外へ誘い出していた。両手を高く上げて大きく背伸びした。ブーが玄関の敷居の上に座って、私の仕草を見ていた。しばらく会わなかったブーも、おとなになったのか足に絡まって来ない。座った背を丸めて、ニャーともいわず目を細めてただ見ていた。

下の家の音吉老も変わっていた。父の木羽割りも少なくなり、運べる木羽が無かった事も事実だが、体が大分弱っていた。挨拶しても、コンコンと咳払いして、一緒に木羽を背負って橋本屋へ行った時のような姿ではなかった。村の同級生の喜市君は山都(やまと)の時計店へ、万之助君は大工の弟子に、唯夫君、文助君は都会へ出て消息不明で、留五郎君は南洋へと、それぞれ自分ののぞむ道に邁進していると聞いた。女性の同級生だけが残っていた。恐らく嫁の呼び声がかかるまで、黙々と農作業を手伝っている事だろう。何年待つかも分からない運の来るのを、じっと待ち続ける女性よりも、期待をかけられる私は幸せ者だと、自分に言い聞かせ、ここが自分の力を試す、よい機会ではないかと思った。

そのころの父は、直市さんや広次さん達と、毎日談判ずくめで飲んでいたようだった。木羽割る木は、ほとんど直市さんの木を買っていたようだった。持栗坂にまだ割り残しの丸太があるといっていた。

私は差し当たり、木羽割りと屋根葺きで金を取る仕事を身につける事が先決だと思った。そして割り残しがあると父がいう持栗坂へ行って見た。持栗へ行くには村中を下の外れから上の外れまで通るので、私は人目を避けるように、田の畔道を通って堰回りで行った。持栗坂を登り切って少し下ると、林の中に簡単な仮小屋が建っていて、そこで割っていたのだ。

大割りした小割木が積まれていて、二尺ほどの丸太も二本ころがっていた。私は木羽割りをした事がないので、割れるか割れないかも分からない。よそで仕事することが憚かられたので、小割木を藤蔓で固く束ねて家へ背負って来た。そして小屋の中へ割り台をしつらえて、父の鉈で割って見たが、削(そ)げてしまって中々割れなかった。夕方父は、私の割り鉈を買って来た。私が、小屋の中に割り台をしつらえて小割木を積んで割っている段取りを見て、なるほど、これはよい考えだ、これなら弁当の心配もないといった。それまで父は、木を求めると、その場へ仮小屋を建て、そこで仕事をして、出来た製品を背負って帰る事を繰り返して いた。その為に、村中(むらなか)を通る時、仲間に出逢う事が多く、仕事場まで行かずに飲んだりして、遊び半分の仕事が多かったといっていた。

次の日から、山で大割りした小割木を運んで、家の小屋で割るようになった。

コナシバ柿が、その秋も色づいて甘くなっていた。昼食後の休憩に、私は木に登って柿をもいでいると、喜三(きぞう)爺さんが来た。父とは飲み仲間の広二さんの親父さんで、小金を貸して、利息で小遣い稼ぎをしている人である。年のせいか、ヨボヨボしているように見えたが、利発そうな顔立ちで、どことなく犯し難い一面をのぞかせていた。父はこの喜三爺さんから小金を借りていると言っていたから、多分金の催促だろうと思った。

持栗坂の山は、大割りをして積んで置く事になったので、私はその日の仕事量を早朝に運んでいた。人目に触れる事をきらって、村中を暗がりのうちに通るようにして、早朝の小割木運びを繰り返していた。ある朝の事だった。小割木を背負っての帰り道、流石に村も明けて朝草刈りの人が鎌を片手に出て行く姿が見られた。丁度喜三爺さんの家のところを通りかかると声をかけられた。爺さんだった。溜池の土手に荷をおろし、立ち寄って見ると、爺さんは庇の屋根が損じたから葺き替えて、金の方もきまりを付けるように、父さんに言ってくれというのだった。その日、父と共に木羽を二本ずつ背負って行って葺き替えた。

寝床の中で屋根葺きの稽古

私は屋根葺きは初めてだったが、やり方を覚えると簡単に葺ける事が分かった。昼頃に葺き終わって、お茶にお餅など馳走になった。小金を貸すくらいの家は、どこやらに違うと、餅を食べながら感じていた。帰りの溜池には鯉が二、三尾泳いでいた。家へ帰って父は、木羽割りも屋根葺きも理屈が分かればあとは馴れる事だけだと言った。そう言えば、亡き祖父も、物の上手は馴れが一番だといった事があった。

その夜、私は釘を持って床に就いた。そして布団の中で、屋根葺きの釘打ちの練習をした。釘を咥(くわ)えて、口の中で釘頭を外に向けて早く出す事を一心に練習した。一本を出して右手で布団をトントントンと叩く、次にトントンと二度叩く、次には、トンと一度叩く間に次の釘が出せるようにと夢中になっていた。柱時計が三時を打った時、トンと叩くと次が出るようになっていた。布団の中の練習がこたえてか翌朝の目醒めが悪かった。瞼が重く布団から抜け出す事が億劫(おっくう)だった。床の中でモジモジしていると、囲炉裏端の方から話し声が聞こえた。朝寝坊して格好が悪いので、座敷の雨戸を明けて外へ出た。堀の流れで顔を洗った。空は晴れて、桜の小枝で小鳥が、ピューピューと囀っていた。客は元吉叔父だった。宮下の山一屋の屋根葺きに、昨日の帰り足に父が頼んで来たのだった。母もまじえて二本ずつの木羽を背負って山一屋へ着いた。まだ新しい大きな家に増築した庇が待っていた。母は木羽をおろしてすぐ帰った。三人で葺き始めて、私は、昨日喜三爺さんの屋根葺きでは、もたもたして、父の三分の一も葺けなかったのに、数段手の動き、木羽捌き、殊に釘打ちの良くなっている事に、自分でも驚いていた。叔父がどこで修業したのかと聞いて来た。私は床の中と言って大笑いした。西の空にはまだかなりの距離を残して日は照っていた。仕事が終わって、予定よりも早く終わったと父は言っていた。角張った顔の、いかにも商オの有りそうな店の主人が、茶菓子を持って来て、下で聞いていると槌音の調子がよく聞こえた。段々若い者の時世になるようだといっていた。屋根葺き二度目の私には、ずいぶんとほめられているようで、こそばゆい気持ちだった。

私が家で働くようになってから、母が、食事にも気を使っている事が分かって来た。糅飯(かてめし)や混ぜたご飯もあまり炊かなくなった。弟達は喜んでいたが、米櫃は底をついて来て、母のやりくりの苦労が私の身にも感じられた。時たま黍団子(きびだんご)が食べたい、黍団子は粘りがあって歯の抜けるような感触が好きだと言うと、母は笑顔を作って、ほんとうに団子はよく食べたっけ、今夜は団子にするかと、心に安らぎを感じるような姿だった。

持栗坂の木も終わりに近づいていた。父が木羽を四本背負って行き、橋本屋から金を貰い、

ヤマモ(書込者注、原文は家印)の店から米を買って来いと私に言いつけた。早生の栗が拾える土曜日だった。私は四本の木羽は背負えないので、学校帰りの弟八郎に一本背負わせて行った。店へ着いた時、夕暮れ近くの客が混んでいた。禿定といわれる店の主人に木羽の金の事を話すと、主人は、父さんには随分前貸しがたまっているから、四本だけの木羽では、金はやれないと断られた。いたし方なく空の米袋を入れた縄籠を背負って帰った。日は暮れて高尾原へ出た時は、足で探って歩くほど暗かった。私は米の買えないときの母の苦労を考え、何か代用出来るものをと考えていた。高尾原には家の畑があり、唐黍を蒔いてある事を思い出し、畑を見た。暗がりでも唐黍が、ほどよく実っている姿に見えた。弟と共に縄籠に一ぱい取って帰った。はからずもその晩は唐黍夕飯で一夜を過ごす事になった。

その夜から私は、父の交際のあちこちについて叔父さん達にも、それとなく父の足跡を聞いて見た。喜三郎さんの屋根葺き、山一屋の屋根葺きも、金にはならなかった。叔父さん達はみんな前借りしているから、後働きになるのだと言っていた。私はいろいろな出来事が続いて、父もたいへんだったのだろうと思いながらも、情けない気持ちのやり場がなかった。

私はこうした状態から早く抜け出さなければならないと始終考えていた。

初めての仕事

大分秋が深まって穫り入れの季節にはまだ早かったが、早生栗拾いや、茸取りの人たちがボツボツ山めぐりを始めて、山の話題がここかしこに聞かれるころだった。名入のミユキ伯母さんが、山歩きで足を挫いて、伯父と共に早戸温泉へ湯治に行ったと聞いた。私は残材を整理して金にしようと思い、ボタ運びをして大体纏まりがついたので、後は父に任せて伯母の見舞いに行った。一緒に湯につかっていると、混浴の湯船の中は老若男女が入り混じって、みんな自分の怪我や病の事など忘れたように笑いさざめいていた。そんなところへ、滝原から来たという若者が、オートバイで怪我をしたといって、脛のかすり傷をあらわに入って来た。留重伯父は顔見知りのように話しかけていた。伯父と滝原の人は屋根の事を話しているようだった。しばらくして伯父は、私をその人に紹介したので三人の話になった。

その人は板橋守という人で、十年前に新築した家の屋根が雨漏りするので、西方の喜久馬という木羽屋に葺き替えを見積もらせると二百円かかると言ったが、十年も経たない屋根に二百円は法外に高過ぎるという話だった。

私はそのころ、木羽屋として必要な、立木の石数の計算や、屋根の坪数の計算など建築の本に依って勉強していた。そして当時職人仲間では請負いの対象となる屋根の坪数を建坪の倍と計算していたが、それは実際の坪数とは違うという事も分かっていた。職人の話と実際とはどのように違うものか、具(つぶさ)に調べる事にこころがけていたので、おぼろげながらも職人はどこかで儲けようとしていることが分かって来ていた。守さんが家の屋根を見てくれないかと言われたので、伯父と共に見に行った。守さんの家は大きかった。年老いた婆さんと、お嫁さんと三人暮らしで、家の権力は婆さんがかなりもっているように感じられた。

屋根の話になると、喜久馬さんの二百円という先入観が邪魔になり、高い高いというだけだった。屋根は葺きたしお金は惜しいという、物持ち人のひとしく抱くつましい気持ちが表われていた。私はその時、ある事に思いついていた。それは高い木を買って割った木羽は高くつく事と、払う身になって考えると、一銭でも安い方が良い事と、さらに、仕事をする事によって生活が成り立つ識人の事を。そして咄嗟に、杉の木をお持ちなら安く出来る、喜久馬さんのいう半分でも出来ると言葉が口をついて出た。伯父は、あまりにも出し抜けの私の言葉に不安気な狼狽の体(てい)だったが、婆さんは半分という言葉に乗ってか、杉の木はあるが、木があればどのくらいで出来るのか、今の金で百円は大金だからといった。くしくり修繕では、今年もやる来年もやる、また再来年もやる事となり、そんな煩わしいことは嫌(いや)だから、二十年くらい持つ屋根は出来ないかという婆さんは、もう六十になったと言っていた。私は木羽の厚さを倍にして、五年に一度、防腐剤を塗れば、二十年は優に持たせる事が出来ると言った。伯父は終始怪訝(けげん)な面持ちで話を聞いているばかりだった。

話し合いが熟して、木を見に行く事になった。私は、家の構造と屋根のおおよその坪数を頭の中で計算しながら、道路を越して少し下がったところの杉林を見た。およそ六十本はあると思われる、立派に育った四尺以上の杉が、私の心に、資産家の威厳を見せつけていた。

林の中で、目立たぬように切る事を条件にして三本切って、一分木羽で葺く事になった。仕事期間中は泊めて食事もするという事で、後は根切から一切を私の方でする事にして、仕事期間一ヵ月、金は九十五円というと五円負けろと言われた。留重伯父と共に家へ帰ると、父は、家を出てからの兄の初便りを見て浮かない顔だった。

樺太から兄の手紙

 囲炉裏に火も燃やさず、ただ一人、気抜けしたようにつくねんとしていた。母は裏の畑で、育ち後れの大根を引き抜いていた。障子を開けて母に声をかけると、急いで家へ入って来た。私が火をたきながら兄の様子を聞くと、父は黙って手紙を差し出した。兄の便りは樺太は寒くて体を守る為に金がかかって、期待したほどではなく、今の仕事を代わり造船会社へ入る心算だ、その造船会社はよさそうに思われるから、もうしばらく見守ってくれという内容だった。しかも物事に慎重である兄だから、そう心配する事もないと私は心に言い聞かせていたが、母の消沈した様(さま)に元気を付けるように滝原の話をした。留重伯父が側から口添えして、やらせて見なければ修業にならないと言っていた。父はさまざまな事があり、泊まり込みの仕事は出来ないというので、私は元吉叔父と留重伯父を連れて行く事にした。滝原での仕事は一分木羽は厚いので削(そ)げる事もなく、思いの外捗った。父も時々通って来て手伝った。

話し合いの時、守さんが、一ヵ月は長過ぎるといったので、私はなるべく早く終らせるといった。が、心の中では、初めての大普請なのでやって見なければ分からない不安がこびりついていた。父の手助けはずいぶん心を励ます力となった。滝原は畑が多く、田を作る農家は少なかった。そうした事から穫り入れの季節なのに、大石田のように猫の手も借りたいほどのさわがしさは見られなかった。

木羽の割り方もあと三分の一ほどになり、先が見えて来た昼後の一服に、木羽を割る仮小屋で、伯父達はたばこをのんでいた。私が、うら木の残材を見ながら後仕末の事を考えてい ると、道路で、オーイ、オーイと呼ぶ声がした。誰かと道路の方へ歩き出すと、次雄君が駆けて来た。一緒に働かせてくれといって木羽割り道具も背負っていた。小屋の中でたばこをのみながら次雄君が話していた。兄の泰吾小父があちこちに借り散らかした後仕末をするために、為佐さんから金を引き出し、その金のつぐないの為に次雄君を奉公させたとの事を憤慨するように喋って、今度はまた樺太は金になるから来いとの便りを寄越したが、寒さに向かって樺太へは行きたくないから、一緒に働かせてくれとの事だった。私は応援が欲しい気持ちのところへ、泰吾小父の話を聞き、また、兄の手紙を見ていた時だけに、同情する気持ちと相侯って、一緒に働く事にした。思いも寄らぬ援軍が来て、二十日で仕事は終わった。

守さんは、親戚の人達を呼んで葺合祭(ぐしまつり)をした。私には初めての、大盤振舞いの酒宴の席となった。初めて一つの仕事を完成させた喜びと、これまで味わった事もない、何か自信のようなものが、心を落ち着かせて、かねては唄った事のない私が何時覚えたのかも知らない歌を唄った。翌日葺き替えた古木羽が周囲に散乱しているので、一日余分に泊まる事にして後片付けをした。みんな片付け清掃している間に、私は三次さんを頼み、馬車で残材を名入の伯父の所へ運び整理した。

外回りを片付け、清掃が終わっても暮れるにはまだ余裕があったので、家の中の煤払いまでも手伝った。守さんも婆さんも、職人にしてはよくやってくれたと喜んでいた。滝原の仕事が終わって家へ帰る道すがら米屋へ寄った。母達はどうして過ごしていたかと思うと買わずに居られなかった。南京米と内地米を二斗ずつ買って、四人で背負って帰った。家ではヨテ叔母、イソ叔母も来て、粟だけの餅を掲いて待っていた。滝原の仕事が済んで帰るという便りを聞いて待っていたのだった。母は、滝原の仕事が終わるまでといって、みんなして、有る物を持ち寄って過ごしていたと言っていた。

 滑稽な仕草の次雄君を交えた家の中は久し振りに賑わって、叔母の顔も母の顔も笑顔が綻び、心なしか粟餅が、たとえようもなく美味(うま)かった。父が、お前が初めて経験する事だから支払いの最後までやって見る事だというので、作業控えで計算した。父が通いで十日、次雄君が十日、伯父達と私が二十一日ずつだった。世間一般の日当で、一日七十銭ずつ支払い、釘代・馬車代を差し引いても十円が手元に残ったので、父には通った足代として五円を渡すと、父は、上手に出来てよかった、しかし請負い仕事は損がつき纏う事が多いから気を付けてやる事だといって、五円の金は取らなかった。留重伯父が人様の秩(ふち)を食い、手取りの七十銭は高いから六十銭でよいといった。次雄君も、行き場のない俺だ、五十銭でいいよと言ったが、私は、一人が言い出せば切りがなくなる、今度は良い仕事だったからみんな喜んで取ってくれと言った。母達は米の分け合いをしていた。父はまだ甘味の消えない地酒をのみながら、みんな纏まった金をつかむのは久し振りだろう、矢張り金になるのは他人の秩(ふち)で働く事が一番だと言ったので、叔母達が、兄さんは人に秩(ふち)をしても、われは人の秩を食った事がないと大笑いになった。明るい中の粟餅の夕食がすんで、留重伯父は、残材を家へ運んでくれ、仕事が切れずに出来ると喜んで帰った。

西山紀行

翌朝私は雪の降る前に芋小屋の生家へ後添(のちぞい)に来た姉さんの顔見に行って来たいと母がいっていた事を思い出し、仕事が一段落した時だから行こうかと水を向けると、母は喜んで、今日にも行って来るかと早くも仕度にかかった。留守中は見ているからというイソ叔母に留守を頼み、出かけた。次雄君も生家の黒沢へ行くといって三人で出かけた。途中大登峠はすっかり紅葉して、道の瀬は落ち葉でじめじめしていた。小野川辺りの山あいの農家は、二軒三軒と不規則に建ち、軒下には、粟穂がびっしりと吊り下げられていた。

お昼近くになって黒沢へ着いた。次雄君の生家である。取り入れの忙しい手を早目に切り上げて、家の者がお茶を汲み、草団子や白砂糖などで接待してくれた。この黒沢の伊藤家は、その昔、私の家から鍛冶の銀三という人が婿入りして、家運隆昌を齎(もたら)したという事で、代々近親交流を続けて来た家である。私がまだ七歳の幼少の頃、母は、小学校入学前に一度顔を見せて置こうと、湯八木沢、黒沢、冑中、芋小屋、大芦と自分の兄妹、近親を回った事があった。そのころのおもかげが、私には、おぼろげに思い出された。その時も、小さい私の手の平に白砂糖を一ぱい載せてくれたっけ。一晩泊まって、夜のお茶受けに白砂糖、朝茶に白砂糖と、むろん、その他にも茸料理、栗蒸(くりぶか)しのお手のくぼと、微かな思い出はつきないが、とくに白砂糖の印象が深く残っている。そのころ、田舎では白砂糖のお茶受けは貴重なものとされていた。この伊藤家では、家風のように、他家とは一味違った白砂糖の接待が上手だった。

鍛冶の銀三という人が、私の家のお祝いにと造ってくれたという鉤の鼻を、私の家では、代代囲炉裏に下げて、今も尚、煮炊(にた)きの生活には欠かせない鉤の鼻の役目を果たしている。何時だったか、長兄の死後の事だったような記憶だが、父は鉤の鼻の外筒(そとづつ)は鉄砲の筒だから、逆さに吊るされては不吉があるからといって、反対に下げ替えた事があった。

黒沢の伊藤家は、鍛冶の銀三の後生には鍛冶をやらず、現在の主人林造小父は木挽き職 人で、板を挽かせたら人の倍も挽く、との話題を残した人で、大柄な体格の、全く嫌味(いやみ)のない、笑うと大きな口から歯並の揃った反歯(そっぱ)が、何の屈託もないゆとりを覗かせている人だった。黒沢部落では優秀な、資産もある家柄で、先走った事のない控え目な、慎み深い性格で、人に先き立てば家を滅ぼし身を滅ぼす、といっている小父だった。

連れ合いのオソノという小母さんがまた、夫によく似た、触りの柔らかい小母さんで、夫

の大柄とは対照的な小柄で、顔のかたちも小振りな、眉目の麗わしい小母だった。七歳の私を連れて、黒沢とは僅か八丁離れた砂子原の、上の湯温泉へ行った時、湯の中で、母と共にオバコを唄って聞かせてくれた。あの小母さんの顔が何とも優しく、私の胸の中にこびりついている。黒沢の家でも二度目の私に、「大きくなったなあ、この前来た時は、物欲しそうにこの乳に触っていたっけが」と言いながら自分の胸に手を当てて笑った。その素振りがまたすばらしく親密感を誘って、私はまた一つの強い力が加えられたような歓喜の心に満たされていた。小母さんが泊まれというのに、母は、先もあるからといって昼食を馳走になって出た。胄中に寄ったが、母の兄である寅七伯父さんは留守だった。

芋小屋へ向かって歩いていると、早生稲刈や土手の草刈り、小豆引きと、さまざまな人達と出会う度毎に、カツヨ姉カツヨ姉と声をかけられ煩いほどだった。母は、アサノと戸籍上の名があるのに、なぜか人々は、カツヨとばかり呼んでいた。私の名も真なのに、祖父が言ったというだけで、マーコと人々によく呼ばれるようになったと同様に、母にも何か特殊 な訳があったのだろうと思われた。芋小屋まで、さほどに遠い距離ではなかったのに、部落の外れまで来た時、陽は蔭っていた。暮れるに早い秋の日でも、随分ひま取ったと思った。それだけに、いかに声をかけた人の多かった事か。生家に着いた時、カツヨ、カツヨといって後から付いて来て、共に家の中へ入った人で、時ならぬ賑わいとなり、後添えに来たという太った、顔の脹(ふく)よかな伯母さんが天手古舞(てんてこま)いをしていた。

カツヨが来たと言って、ふれもしないのに部落の人達がみんな寄って来た。みんなと言っても、十六軒しかない部落では、血筋は繋がらなくとも、一様(いちよう)に親類のような付き合いをしているらしかった。特に祖父の弟子だった源吾さん初め、下の金四郎さん、五左ヱ門さんと、満面の喜びを表わして歓待してくれる大ぜいの村の人々の絆(きずな)の美しさを、私はしみじみと感じていた。芋小屋の母の生家で私の面影に残っているのは、母の兄である、男兄弟の末子で相続した、覚八伯父の角張った杓子顔の、親しみがたい風貌である。七歳の時の印象とは違って、角張った杓子顔は同じでも、顔の中に表われた好々爺的な笑顔が黒ずんだ肌色によく調和して、人寄せをよくしていた。芋小屋の家は、先代の杉原文吉という人が、田舎では発明な偉い人だったと聞いた事があったが、その人は、調子に乗って、都会通いをして、米相場に手を出し、とどのつまりは失敗して、杉原家と言われた、膨大な祖先からの資産を失ったとも聞いた。そうしたことから、子孫には、相場や賭け事は禁じられているとも聞いた。覚八伯父は、実直な人柄の上に、勤倹貯蓄を実践して盛り返した人らしく、総てに無駄を省く仕様(しよう)が人の鑑(かがみ)であると、人望の厚い人だった。ひとしきり賑わって、義理で寄ってくれた人たちが帰り、本当に縁の深い、金四郎さん、源吾さんたち五人ばかり残って、夕食の宴になった。そして、私の噂話に話題の中心が移って来た。話を聞いていると、滝原の仕事の件で、ずいぶん高く評価されている事であった。私は偶然によい運に恵まれたと思い、自分に力があって出来たとは考えていなかったので、はずかしいようなくすぐったさを覚えた。それにしても私も母も、世間に吹聴した事も宣伝した事もないのに、しかも近所ならいざしらず、この離れた土地の芋小屋まで知られている事に、不思議な感じがした。伯母さんに、どうして知ったのかと聞いて見た。伯母は、昨日早戸の実家へ行って、実家の兄が具(つぶさ)に聞かせてくれたといった。この伯母さんは、早戸から跡目の後妻として嫁いで来た人で、顔は膨らみ加減のおとなしやかの、柔和な面持ちをしていても、中々の切れ者であると聞いた事があった。実際に伯母と接して話して見ると、噂に違(たが)わず、弁舌が巧みで、しかも大事な事はビシャリと言ってのける人である。

よく世間では、多弁を弄する者は軽薄に思われ勝ちで、また、その通りなのに、この伯母だけはその誹(そし)りを受ける事は全くなく、むしろ引かれる人が多いのだった。

私の噂話も、金四郎さんの大親方の孫だけの事はあるのだろうと言った言葉で終わりになった。

様々な世問話から、成沢学校の屋根の話も出た。成沢は芋小屋とは隣り合わせの部落で、本校が砂子原本村にあり、芋小屋、成沢の二部落の子供が通う分校が成沢に在るのだった。大石田のように距離的な問題があっての施設校である。金四郎さんは、芋小屋、成沢では自他共に認める、最有力な名士であった。学務委員なども兼務していたので、学校の事になると話の進展が早かった。

金四郎さんの話は、予算的な面があって葺き替えは来年になるが、雨の漏る所で勉強は出来ないから、修繕だけは、降雪前にしなければならない、木羽職人を探していたところだが、実際に西山には木羽職人がいないので困っていたところだといった。傍で源吾さんが、俺は、お前とこの親方に割り方も葺き方も習ったが、木の石数の計り方や、屋根の坪数の出し方など習わなかった。それに学校も三年出ただけで算盤などはじいたこともない、この木を切れば、どのくらいの木羽が割れるなどとは全然分からない、まして請負い仕事など見通しが立たず怖くて出来ないのだと言った。そうしたことから、金四郎さんの頼みで、私は学校の屋根修理をする事になった。ふと、次道老がいっていた、金があっても出来ない者は出来ないという言葉が思い出されていた。道は違っても、心は同じように考えられ、木羽仕事の技術はあっても出来ない者は出来ないのかと、源吾さんに同情の心が湧いていた。

次々と仕事が……

何年振りかで顔を揃えた人たちの話は、次から次へと果てしなく、亡くなった人の話、結婚した人の話、狭い部落から出て行った人、また、よそから入って来た人と、何時つきるとも知れない話に、夜は深々(しんしん)と更けていった。来春は学校も卒業するから働けるという長男の覚恵君と私は、何時知らず床の中にいた。マーコ兄(あん)にゃと、長女のテル子が呼ぶ声を夢うつつに聞いて眠りこけていた。ややあって、甲高い伯母さんの声で起こされた。新宅の金四郎さんが、朝飯に馳走したいと呼んでくれたとの事だった。昨夜、明日帰ると言ったので、それでは朝飯にと呼んでくれたのだった。金四郎さんの家は、何代か前の人が杉原家から分家されて、同じ杉原を名乗り、出来物(できぶつ)が多く、今では本家を凌ぐ環境になっていると伯母は言っていた。

金四郎さんの家は、まだ新しさが残っているように、手入れの行き届いた、大きな家だった。畳表の青さが残る、表替えしたばかりの客の間には、ハヤブサに似せた欅の根っこが磨き抜かれて飾り台の上に置かれ、主人の趣味を表わしていた。朝飯は茸の入った味飯が、何とも言えない香りを添えて、主婦の味の良さを感じさせた。

外は、秋の収穫にいそしむ近所の人の出て行く気配がしていた。私は、そうした外の音を聞きながら、食後の茶をのみ、金四郎さんの話を聞いていた。息子たちに世帯の事を任せ、楽隠居の身でも弁舌が巧みで、心持ちの柔らかみが人を魅了(みりょう)するのか、相談事などには必ず頼み出されて、中々その実権がおとろえないと本家の伯父さんが言っていた。金四郎さんは、源吾さんが木でも買って仕事をして見ようという気持ちがあれば、結構仕事はあるのだが、あいにくその器量がないと話していた。私は、昨夜源吾さんが、呟くように言っていた計算が出来ない、怖くて請負は出来ないといった言葉を思い返していた。次道老が言った、金があっても出来ない者はできないという事と、祖父が言っていた、分からない事でも、しなければならない立場になった時には、誠心誠意やれば道は開ける、不安と思っても断じて行なえば成るといった言葉を相互に頭の中で繰り返していた。

母は、まだ二 、三軒寄って行かねばならないからと言って、金四郎さんの家を出た。そしてついでだから寄ろうと言って、裏の五左ヱ門さんの家をたずねた。五左ヱ門さんは、寄るだろうと、お茶の準備をして待っていた。五左ヱ門さんは資産家の旦那らしく、普段でも着物に羽織姿で、温和な風貌の目に笑みをたたえて、寄らなかったら、前の家へ行って見ようと思っていたところだと、何か話しあり気な事を言った。挨拶が済むと、茶を啜(すす)りながら、五左ヱ門さんは、家の物置小屋で雨が漏って物が腐るので葺き替えたいと言った。その小屋の屋根は素人が杉皮で葺いたので最初から雨が漏り、今は土台など茸が生えていると言っていた。

私はその小屋の屋根を見る為に外へ出た。お茶汲みをしていた娘の節が一緒に出て案内してくれた。私よりは二つ三つ年上かと思われる節さんが、体が弱く寝ている母親に代って、家事一切をやっていると言っていた。その素振り口振りから、着物に羽織で座っている父親の湿和さとは似ても似つかない勝ち気な気性が感じられた。家の裏は西の方向になっていて、大きな杉林が奥へ延びていた。節さんの案内で五十メートルほど入ると一段高地になり、途切れ途切れに五尺ほども回る杉が二十本ほど山の麓に生えていた。節さんが指差して、「父はあの杉を冬期の費用に売ろうとしている」と、何気なく言ったので、私は、どのくらいで売れるのかと聞いた。母の薬代や、いろいろかかるので、五、六十円はいるからそのくらいには売りたいと父は言っていると言った。私はその木の姿から見て、大石田辺の木の相場から判断して安いように思った。

 一渡り小屋や林を見て家へ入ると、伯母さんが何時帰るのかと迎えに来ていた。私は五左ヱ門さんも小屋の屋根を葺きたいといっているから、仕事の段取りも付けて帰りたいと言って、旦那に木を一本切って、割ったり葺いたりの賃仕事的に小屋の屋根葺きの事を話し た。旦那は、人はみんな、家では金は持っているだろうと見ているかも知れないが、人が思うほど家では金を積んで置く訳ではない、杉を売ってその時その時を送っているのだ。今も杉を売って冬の備えを考えているところだ。といって、現金を使わずに葺ければ一番よい のだが、そうもいくまいな、とにが笑いするように心を覗かせていた。そして杉買い山師を待っているのだが、雪が降れば、木の出(だ)し方(かた)に金がかかり過ぎることを考えて、降雪を目の前にして山師が仲々来ないのだと言った。私は今買えば安く買えると、心の中にいろいろ考えを巡らせながら話を聞いていた。伯母も母も、五左ヱ門さんは冗談が上手だからと言っていたが、私は、娘さんの話といい、五左ヱ門さんの話といい、多少の話の差こそあれほんとうではないかと思われた。

話の途切れを待って、私は、杉は今どの位に売れるものかと聞いて見た。旦那は春の頃は石一円五十銭だったが、今は昇った昇ったと言っているから、二円は無理かも知れないが一円八十銭には売りたい、家の木は伸(の)びがあるから山師は喜ぶのだ、裏山の木は一本五円で買うと春言っていたから、今なら七円には売れるだろうと言った。私はその言葉を聞いて、心にむらむらと逸(はや)るものを感じ、木を計って見たくなった。旦那を促すと、儂(わし)はここにいるから、行って計って見てくれといって、木の立ち場所と、一、二、三と印した木の存在の略図をくれた。私は何時も手帳と巻尺を持っていたので座を立つと、初めての人には無理だよといって節さんが一緒に外へ出た。さきほど節さんに案内された時は遠くから眺めただけで、木の質は分かっても漠然とした容積の予想だったが、実際に計って見ると、旦那が話していた山師の話とは、大分(だいぶ)開きのあるように思えた。私は、山師が石数で儲けようとしている意図を感じていた。私は略図に示された木があればかなりの仕事が出来ると思い、自分で買いたい気持ちで、亡き祖父の言葉が鞭となって心を励ましていた。節さんに、実際には冬の期間、どのくらいのお金が必要だろうか聞いてみた。節さんは、兄が使わなければ三十円もあれば冬は過ごせるといった。その言葉で、私は木を買うことに心を決めて家へ入った。そして旦那にいくらなら売れるかと聞いた。旦那は、「マーコ、お前が買うのか」というので、私は木が無ければ仕事は出来ないから欲しいと言うと、山師なら少しでも高値で売りたいが、お前なら損もかけられないから一本六円かなといった。そして、二本や三本の抜き切りはしたくない、後が値打ちが下がるから出来れば纏めて売りたいのだと言った。私は、略図に示された木が山の木にも番号が印されていたので間違いのない事を知り、印された木の二十本を全部買う事にして、五左ヱ門家の冬期間に必要な金を払って、後金は春まで待って貰う話をした。すると旦那は、息子が今若松へ出ている、そこで春には金がいるのだ。春に必要な金を、今つくる必要もないのだが、家で金をつくるには杉を売るより手はないのだ。杉を売るには、雪中では足元を見すかされ、それに材木の搬出に経費がかかるので高く売れないから、降雪前に売りたいと思っているのだといった。そして家だけの冬期間の小遣などは、米味噌はあるのだから、二十円もあれば間に合うのだと言った。私は、しめたと思った。そして息子さんの事を聞いたが、息子の事になると、旦那も節さんも、伯母さんも、口を閉ざして話したがらなかった。私も押して聞かなかったが、人の噂で、五左ヱ門も金遣い息子が出来たと、小耳に挟んだ事があった。

伯母さんが、マーコは確かり者だから心配ない、もしもの時は家で保証つけると口添え して、旦那との相談は決まった。頭上の陽を真昼と見て帰路についた。当地は、西山村字芋小屋が土地名で、五左ヱ門家は、西山きっての資産家で、杉の古木の所有量は世の人の羨望の的だった。その杉森を眺めながら芋小屋を後にして、行きには留守だった胄中の家へ寄った。たっぷりした貫禄を持った顔の寅七伯父が、私と同年輩の息子の勝意を相手に横庭で、取入れの段取りを話し合っていた。

母が何時も言っていた。冑中の兄は、滅多な事では身を崩さない人だと。その伯父が、山袴を着付(きつ)けていたので、母は珍しいと、挨拶の言葉に使っていた。裕福な家庭らしく、囲炉裏の回りも畳を敷き詰めてあり、農家では決まってお茶受けに出る煮物や清け物は出さず、金平糖、クラッカー、センベイ、栗鰻頭が豊富に並べられていた。話す言葉も悠揚としていて、一言一言聞く身に漏らす事の出来ない喋りかたで、母とは何年振りかで会った積もる話をしていた。私は甘い物が好きで、煮物よりは鰻頭の方がよく、話を聞きながら何個も食べていた。

母が芋小屋での話をすると、どうしても屋根の話もする事になって、私の自慢話のような事にもなった。そんな話の成行きにそそられるように、伯父さんは、冑中でも、従兄弟(いとこ)の家で雨漏りで困っていると言った。そして、西山には木羽屋がいないので、不便を託(かこ)つ者が大勢いるから、マーコが仕事する気なら喜んで世話するよと、乗り気の姿勢だった。私はまた一つの力が加えられたようで嬉しかった。そして父の不惑の年祝いの時の事を思い出していた。昔から、四十にして惑わずと、古い本で読んだ事があったが、大石田では、不惑の祝いを四十二の厄払いと兼ねるのが定例になっていて、父もまたその四十二の厄落とし祝いを盛大にやった。障子襖(しょうじふすま)など貼り替えて、殊に座敷の押入れの襖戸は骨組みまで新調して、唐紙を貼った。その唐紙に墨痕鮮やかに、「四十二の歳を迎えて恙がなく、喜寿や米寿の春を待つ也」と墨書したのはこの伯父である。十二歳の私が、傍で見ていると、「歌心のない人は、安らぎのない人だ、子供のうちから、歌心を養いなさい」と言った。その言葉が頭の中にこびりついている。私は今その伯父と相対して、改めて伯父の人となりに崇敬の念を覚えた。遅いが昼食を食べて行くようにと、娘のチドリさんの言葉に、母は、お茶腹でもう何にも入らないと言って暇乞いした。黒沢へ着いて母は、トンボまで入ったが、また来るからと挨拶だけで出ようとすると、勇(いさみ)ん所の婆さんが来ているから入んなよ、と小母さんが手を引いた。入れば長くなると思いながらも、入ってお茶をのむ事になった。囲炉裏の傍には相変わらず白砂糖のお茶受けが出されていた。勇という人は、母とは義理の従兄姉(いとこ)同士だといっていた。話はまた芋小屋の話が出た。自然と屋根の話にもなった。屋根の話になると、その婆さんは、家の庇も雨が漏るといった。小母さんは、家の重喜も来春は埋壺へ家を建て馬車追いをすると言っているから、屋根は木羽だろうと言った。その重喜さんは、次雄君とは腹違いの兄弟で、今日は二人して茸取りに行って留守だった。話は尽きそうになかったが、母は、陽のある中に帰りたいからと暇乞いした。私は、芋小屋の仕事を次雄君に頼みたいと、小母さんに伝言を頼み、黒沢の小母の家を出た。追い掛けるように小母さんが出て、今度来た時また湯入りに行こうという。その小母の言葉を背に受けて私たちは歩き出していた。

喜久馬さんのこと

宮下で、イソ叔母さんや弟達への土産物を買って高清水へ出た時、暮色が迫った道を、屈(こご)み加減に歩いて来た喜久馬さんに出会った。喜久馬さんは、私たちに気付かずに行き過ぎようとしたが、ふと振り返って、中野のマーコかと声を掛けた。私がそうですと答えると、後戻りして、滝原の俺が最初に声をかけた仕事を、なぜやった、人が先に声をかけた仕事をする時には、声を掛けた人に話して諒解を得てするのが、職人仲間の規約だい、お前は話し無しに俺の仕事を取ったと凄んで来た。私は、喜久馬さんは契約をしてなかったし、契約出来そうな状態でもなかった、取ったという言葉は、場外(ばはず)れだといった。喜久馬さんは、そんな事をすると、この後お前には、仕事を出来なくしてやるという捨てぜりふを残してスタスタと立ち去った。母は心配そうな顔をしていた。

喜久馬さんは、私が五年生になって西方本校へ通い始めた年に西方まで流れて来て、村外れの通学路の側に、小屋のような住居を建て、親子四人で住みついた。越後の人で、渡り歩いた職人らしく、仕事は早く、こまめに仕事探しをする人だった。体が小さく白髪の見える坊主頭で、上瞼が目を金壺にして風采の上がらない人だったが、渡り職人ながら技量はよかった。

家へ着いた時 、玄関の障子だけが白さをまだ失わずに、辺りは手探りで入るほど闇に閉ざされていた。今帰ったと居間の戸を開けると、ブーが上がり框(かまち)に出迎えて、 ニャアニャアと背を摺り寄せて来たが、以前のように絡まる事はなかった。家の中では弟達が、叔母の言い付けを守って、おとなしく帰りを待っていた。お盆やお祭りでもなければ食べる事も出来ない、ビスケットのお土産を手にした弟達の狂喜するさまを見て、私には、やはり、居るべき母の居ない家は淋しかったのかと、母の存在の重さが思われた。父も、私達と相前後して帰って来た。僅か二日の留守を、随分長かったような話し振りで、父は語っていた。

大石田のイソ叔母の家ヘトメ小母が来て、学校が終わったらカツミを借り度いと言って帰ったと、トメ小母の伝言を伝えていた。そのトメ小母さんは、イソ叔母の家から、西方の兼松という、旅人宿を兼ね、食糧品雑貨一式取り扱いの商店を営む人のところへ嫁に行った 人である。その家には、私と同級の嘉美君がいて、商店の切り廻しをしていた。中々手広くやっているので、雑用と店員をかねた、家族的に出来る娘を欲しいという事だった。私の家とは遠縁の親戚でもあり、父と兼松さんとは談判仲間でもあり、頼まれれば貸してもよい気持ちの父の態度だったが、母は無言だった。

 夕食後、芋小屋の事や、喜久馬さんに会って話した事など話すと、父は、世間の風は厳しいが、自分で間違っていなければ、何も恐れる事はないといった。

巣立ちの旅

 翌朝、暗い中から私は、芋小屋行きの準備をしていた。父は、自分で大切に使っていた大型の天能寺を出して、元山から自分が先立ってやらなければならないから、これを持って行けと言った。私は、元山という根切りが一番心配だっただけに、父が受けを掘ったり楔(くさび)の矢打ちなど、根切りには大事な手順や要領などの解説をしてくれたので、やるぞと気持ちを励まして、せっせと蓄えて置いた金と道具を持って出かけた。名入の伯父のところへ、木羽の出来具合いを見て、いくらかでも金にしたいと、かすかなのぞみを抱いて寄った。入口で出会い頭に挨拶の問もなく伯父は、この木羽を使ってもよいかといってきた。伯父の話は、為佐親父のところで、今、冬に備えて水小屋を建てているが、その屋根を葺くように頼まれているとの事だった。木羽は、滝原から運んだ木を割ったので、八本の木羽が出来ていた。もう少し金が欲しいと思っていた時だけに、私は喜んだ。渡りに舟とはこの事かと、偶然の話に、自分の巡り合わせのよさに驚いていた。軒付けが出来れば葺けるという伯父に手伝って、一緒に葺く事にした。大二郎大工が、屋根下地はこれからというので、ザラ板を運んだり釘を打ったり大工の手伝いもしながら、三坪の屋根は葺き終わった。

伯父さんが、名入では霙が降るころになるとクスクリ仕事などでてくるから、木羽さえ使わせて貰えば金は取れる、これから芋小屋の知らないところで仕事するには金は大切だと いって、三坪の屋根賃は全部渡してくれた。私は、あまえるような気持ちで悪いと思いながらも、この金があれば助かると思う気持ちの方が強く、伯父の情けに縋って、その金を懐にした。伯父の、自分の生家である芋小屋の家によろしくという言葉をうけて、西に傾いた陽光を額に受けて渡し舟に乗った。

水小屋三坪の屋根が、私の心を晴れやかにして、足取りも軽く、黒沢で次雄君に段取りをして置くから明日芋小屋へ来るようにといって、足は早、芋小屋へ向いていた。小母さんの泊まれという声はかすかに聞いたが、私の心は芋小屋へ飛んでいた。源吾小父のところへ着いた時、汗ばんだ肌に秋の夜風が沁みて、消え入るような虫の音が、晩秋の田舎の情緒を遠く近くに奏でていた。源吾小父に父からの手紙を渡すと、小父さんは、この達筆の字は俺には読めないから読んでくれと差し出した。私はその父の手紙を読みながら、胸に温(ぬく)もりを覚えていた。手紙には昔からの源吾小父さんの労を讃え、今また息子の世話を頼むと結んであった。私は五左ヱ門さんの杉を買って仕事をするので、手伝いを頼んだ。小父さんは、俺は田畑もあまりないから、今も人様の雇われ仕事や土方などで暮らしているので、冬に向かって苦労していたのだといって、非常に喜んでくれた。そして、私も次雄君も一緒に泊めて世話をするといってくれた。私は、小父さんの敷地の南側に空地があるので、丸太で簡単な割り小屋を建て、三人の作業場を造る事を頼んで、杉原の伯父の家へ行った。夕食の謄が並べられていた。私は挨拶もそこそこに、明日から仕事するには今日の中に木の話を決めて置きたいからと、伯母さんに、一緒に五左ヱ門さんのところへ行くように頼んだ。伯母が、飯の時だから夕食を食べてからと言ったが、私は飯を食っていると、つい行きそびれて了うからと言って戸口へ出た。伯父が、大事な時には俺が行ってやると言って、一升壜を風呂敷に包んで、一緒に裏の家へ行ってくれた。裏の家でも膳が並んで、五左ヱ門の旦那が、正座して膳に向かっていた。私達が上がって挨拶すると、傍らに膳を押しやって、四、五日は掛るだろうと思っていたのに、昨日の今日とは実に堅実な人だとほめられた。二十円の金を払い、杉立木の売切約定書を貰った。旦那は終始顔を綻(ほころ)ばせて、伯父さんに向かい、前の家では何も心配する事はない、家の仕事をしてもらうのだから、家で面倒見させてもらう、満更の他人でもないのだからと言った。私は有難く頭を下げたが、心の中では、どうしようかと考え倦(あぐ)んでいた。源吾小父は、祖父の弟子であり、私の面倒を見る事によって、いくばくかの御恩返しの出来ることに喜悦を感じているし、覚八伯父は甥の面倒見る事は、兄妹に対する最大の義理と考え、また五左ヱ門さんは、物持ち人柄として、自分のところの仕事をする職人の世話もしなかったと世間の人から言われてはならないという、世間への義理を、頑(かたく)ななまでに固執(こしつ)しているし、という訳だった。

酒宴になったが、旦那も伯父も私も、酒はあまり飲めなかったので、食事になった。伯父も一緒に箸を取って、流石にこの家は食い物が違うと、食事の良さをほめていた。私はあまりのめない酒に頬を染めて、円熟した中老二人の話を聞いていた。旦那は、その昔を思い起 こして、私の祖父が芋小屋で仕事をした時の事を語っていた。金の事になると頑固(がんこ)な人で、一銭の掛け引きも妥協はしなかったが、使うべき時の金は、惜し気もなく使った人だと言っていた。伯父と旦那の話が、私にはどことなく祖父の教訓のようにも思われて、聞き漏らさぬように聞き取っていた。秋の夜の時間の経つのが早く、伯母が迎えに来て十時が過ぎたと言っていた。

息子が出ているから家は小勢だ、笑って過ごせる夜は滅多にない。木羽屋さんがいれば雰囲気が良いから、家にいてもらうという旦那に、私は、伯母が迎えに来たから今夜は伯母の家で、明日からお世話になりますといって、風もない闇夜の外へ出た。空には細かい星があちこちに細く糸を引いていた。

朝の澄みきった中天には、ちぎれ綿のような雲が軽く浮かんでいた。今日も晴れだ、気も晴晴の朝だった。次雄君も、源吾小父さんも、仮小屋建てに懸命だった。私は兎に角、一時も早く木の割れ味を試したかったので、天能寺を持って杉林へ入った。初めての根切りの様(さま)を人に見られる事も嫌だった。失敗した時の、不様(ぶざま)な姿を見られたくなかったのだ。切り倒しには絶好と思われる離れ木の一本を見て、これだと根元を刈り払い、じっと精神を統一して、神に祈るような気持ちで、心の中の一抹の不安を静めるように、断じてやって見ろと祖父のいった言葉を繰り返し心に言い聞かせて、木の根元を見詰めていた。上を見て下を見て、枝の多く生えている方が重いから、その方向へ倒す事が一番無難だ。しかし倒れやすいからその場合の受け掘りは殊に大事だ、受けが浅ければ木は裂ける、受けは深く掘るほど安全だと言って、教えてくれた父の言葉を手本に、切った。受けの切りの深さと鋸の刃先が二寸程に迫った時、木は徐(おもむ)ろに傾き始めた。鋸を取って木から離れ、倒れる様(さま)を見ながら、父の教えの正確さを身に沁みて感じていた。枝を払い、根元から六尺三寸上げて一個玉切った。これも父の教えである。父は、もし割れなかった場合六尺三寸あれば立派な板材となるといっていたのだ。

玉切ったゴロを割って見た。鮮かに割れた。赤身の多い割れ口が、水分を含んでか、見事な光沢の割れ肌が、私を狂喜の境に誘っていた。初めての根切りが、案じた割りにはたやすく出来た事と、割れ味のよさが、張り詰めていた気力を、体から一瞬奪ったように、くたくたと崩れるように切り株の上に腰をおろした。無意識に山椿の青葉を噛んでいた。気が付くと喉がからからに乾いていた。お昼が過ぎても帰らないからと、娘さんが迎えに来た。杉林の樹間に漏れる弱い冬の陽が、疲れた体に活力を与えるように射していた。手がけだるく、足どりが力なくふわふわしていたが、午後もまた切るぞと、気力が盛り上がっていた。昼のお汁が、百倍の味を添えて美味(うま)かった。その味噌汁に勇気付けられ、午後また一本切り倒し、割れ味を試した。同じように、赤身の勝った割れ口は、私に幸先のよい安堵感を与えて、私は何時になく誇らし気に喋っていた。伯母さんが、お前にとっての材木は、一つの掛け替えのない財産だ、自分の財産は、みだりに、明けっ開きに他人に話すものじゃない。あまり良い事ばかりいっていると、そねみを買って、思わぬ邪魔の入る事もあると、たしなめられた。

伯母が言うように田舎では、噂の伝播が早く、人の成功を妬(ねた)む傾向があった。特に職人同士とか、山師仲間にはその傾向が強く、人の喜びを共に喜ぶ者は、親戚緑者に限られた。職人や山師はむしろ、その儲けに群らがって、飲みつくそうとするようだ。今日の名声は明日の没落と、変化の烈しいのが田舎のきまりのようなものだった。そして人の悲劇を陰ながら喜ぶ風習も一部にはあるように感じるのだった。私もいろいろな噂を何度も聞いたことがあり、その度毎に、あの人に足を引っ張られたと、必ず邪(よこしま)な人の名前が出て来るのだった。どこの部落にもそうした噂の人がいて、世間の人から敬遠されている事も事実だった。

技量の陰

源吾小父が、伯母の家からも不要の古板など狩り集めて、割り小屋が出来た。一日にしてはよく出来た。その手際のよさに、流石に昔しつけられた職人の腕前が表われて、テキパキと事を運ぶその姿に職人の本領を見た私は、ただ、感嘆するばかりだった。その夜源吾小父 の家で、杉も切れ、小屋も出来た仕事始めの、軽いお祝いを催した。木主の五左ヱ門、杉原の伯父伯母、新宅の金四郎小父と関係者を呼んで、ささやかながらの酒宴には、伯母が唄い、次雄君の隠し芸がとび出し、時ならぬ賑やかな席となった。源吾小父も、私が思っていたより朗らかで、黄色い声で唄も嗜み、座持ちの上手な人だった。酔ったといっても、飲めない酒の源吾小父が、三代目の親方が出来たといって、真実嬉しそうにはしゃいでいた。その心の中まで明けっ広げな、お人好し振りが印象的だった。

日が経つにしたがって油が乗ったように仕事が捗った。いつか私は、親方と呼ばれるようになっていた。仕事始め祝いの晩、源吾小父の言った言葉で、そう呼ばれるようになったと思った私が、親方というのを止めてくれというと、小父さんは、最初が大事だ、これだけの林を買って仕事の出来る人は、そうざらにはいない、親方といわれて、何の憚る事があるも のかと言われたので、いわれるままになっていた。しかし私はどうしても、はにかみに似た気持ちが抜けなかった。無我夢中という言葉があてはまるように、我れを忘れて仕事に熱中していた。昼食後の一休みの時、次雄君が外へ誘ったので出て見た。小屋の陰で次雄君が、米櫃の底がついているらしいというのだった。そういえば、昨日の夜だった 。私の泊まっている五左ヱ門家ヘ源吾小父の妻女が来て、家人の隙を見るようにして、「われらだけなら、何を啜ってもしのげるが、職人がいればそうも行かない」と話しているという事があった。源吾小父の家は田畑の稼ぎは微々たるもので、もっぱら雇い仕事や土方などで生活していたので、余分な蓄えは在りよう筈がなかったのだ。その時、私も、米を買うほどの金はなかった。夜になって私は伯母のところへ行って事情を話すと、伯母は真顔になって、「いよいよ、第一の関門が来たか」といって、米は二斗程、こっそり届けてやるが、この後どうすると聞いて来た。私は、差し当り学校の修理をして、金になる仕事を探すというと、伯父が、学校の方は新宅が付いているから心配はないが、世間にはそうそううまいことばかりはない、従兄妹仲のような訳には行かないといった。私はその足で新宅を尋ねた。金四郎小父は、待っていたといわんばかりに、学校の屋根修理はいつできる、話はついていると切り出したので、私は救われた思いで明日やるといった。天気は私に味方して連日好天に恵まれて修理は終わった。

今年修理してまた来年葺き替えということでは、人情的にもおさまらないと思い、多少高価についても三年位は持つようにと、修理した。私の方は、来年より今の金が少しでも多くとのぞんでの仕事だった。委員の方達も私の言葉に賛成してくれたのだった。金が出来たので、源吾小父に一日休んで米買いをするよう頼んだ。誰よりも小父は喜んで、とび立つように出て行った。学校の修理費は米代になり、手元に残った金は僅かだった。

伯母がいう第一関門は通過したが、私の心はあせっていた。そして知らず知らずの中に、寅七伯父の言葉に縋るように、胄中に向かって歩いていた。道脇の刈り終わった田圃を見るでもなく道を急いで行くと、いなごがとび出して、慌てて足を止めた。そんないなごの群れが、焦燥に駆り立てられる心を和らげてくれた。伯父の家では野良帰りの勝意君も、従兄妹の家では秋は忙しいので、穴のあいたところだけくすくり、葺き替えは来春にするとの事だといった。私は葺き替えの腹づもりをして、頭の中で計算していたのに、期待が裏切られ、空虚感が心に残った。昼食を馳走になり、勝意君が聞くので、いろいろと現在の心境なども話した。降雪前にどうしても纏まった仕事をしなければという話に力が籠ったのか、勝意君が、発電所の宿舎が、雨漏りするといっていたから、葺き替えするかも知れないと教えてくれた。勝意君は青年会の幹事をしていて、発電所の職員とは懇意で、時々食糧の持ち入れもやったと言っていた。

勝意君と連れ立って発電所を訪れて見た。なるほど屋根はかなり傷んでいた。職員の話 では、屋根替えの計画もあり、本部で見積もりの選考をしているが、まだ決定はしてないから、今からでも間に合うかも知れない、一応見積書を出して見るようにとのことで、社用の見積書用紙をくれた。勝手の方で、その職員は勝意君とヒソヒソ話していた。職員が印を必ず捺して来てくれ、兎角田舎の人は印を忘れるといって、なお会社の心証を良くするよう肩書があればなおよいといっていた。代金の支払いは作業が終わって次の会計日という事だった。用紙をもらって帰る時、別れの挨拶をすると勝意君が、会社だから、百姓相手とは違う肩書を考えた方がいいといってくれた。

肩書きつきのゴム判作る

その夜、私は床の中で、あれやこれや考えていた。発電所の屋根工事をすれば、少なくとも百六十円の金にはなる。それだけあれば、悠々安心して冬は越せる。冬の間に四百本の木羽ができて、来春は大きな仕事が出来ると、希望を胸に画いた。それには先ず印鑑を作らねばならなかった。印鑑を作るには金が要(い)る。いろいろ考えを巡らして、結局胄中の従兄妹の家のくすくりをして、少しでも金を取る事だと心を決めた。翌朝源吾小父と次雄君に、五左ヱ門さんの小屋の屋根葺きを始めるように頼み、自分は、木羽一本背負って冑中へ向かった。くすくり仕事は半日で終わった。午後から私も小屋の屋根葺きに上がったが、印鑑の事などが頭にこびりついて、葺く手の捌きがいつもよりは進みが鈍(にぶ)かった。

印鑑を造るには、坂下(ばんげ)町まで出なければならなかった。次の朝、坂下行きを決意して着替えていると、節さんが私のシャツを見て、白く斑(ぶち)ている、洗濯するから着替えた方がよいといったが、着替える代わりがなかったので、上から半天を着て、汚れを隠すようにして、朝食もそこそこに、慌しく坂下へ向かった。道中の風景など、目に写る余裕もなく、ただ印鑑と肩書ばかりに心が捕われていた。

坂下町は、学校時代、江川先生と来て、その後一度来たことがあったが、日に日に進歩するのか、町並も店の様子も変わっていて、初めて来た町のようにまごついて、判こ屋探しに時間がかかった。町の中ほどにはなく、町も外れに近く、一坪ほどのちっちゃな荒井印房の看板を見つけた。痩形の中老の主人が一人で、注文もないゴム印を刻んでいた。

水牛や象牙の印は高かった。私が、高い高いというので主人は、三文判なら安いと、飯塚の印を探して出した。

私は、ゴム判を作るにはいくらくらいかかるか価額を聞く為に、肩書の木羽製造・屋根工事一式請負業、飯塚真と書いて渡した。主人はそれを見て、これではどこの者か分からないから住所を入れなければ駄目だというので、現在の状態を話して相談すると、主人は中野を本店とし、芋小屋を作業所として作ればよい、金は高くつくが、会社や役所などには手広くやっているような印象を与えてプラスになると教えてくれた。私は主人のもっともらしい言葉に引かれ、そのように作ってもらう事にした。ゴム判で金がかかり、印鑑は三文判で我慢した。印房の主人が肩書きの字をじっと見詰めていたが、お客さんは木羽屋さんかと聞いて来たので、私は自分の所在を話すと、主人は興味ありそうに、いろいろ聞いた。私も木を買って木羽を割り、屋根も葺く、そして、判こ作りに来た理由を話して、ふと自分が今喋っている事が、宣伝がましくなっている事に気付き戸惑った。併し主人は真面目な顔で、お客さんがその姿で入って来て、高い高いといわれた時は、どういう人か分からなくて戸惑った。しかしだんだん話を聞いていると、お客さんの真実が分かって来たと言って、ぞんざいだった言葉が改められていた。やや間を置いて主人は、お客さんに頼みがあるといって来た。そ の頼みとは、一坪の印房を作る一切の工事をある大工さんに依頼した。その時の大工さんは、真面目に昼食も食べずにこの印房を作ってくれた。その働き振りに魅せられて、甥の家の籾倉(もみぐら)の屋根仕事を世話した。その屋根は、長い間雨が漏って下地も傷んでいるので、屋根下地から葺くまで一式請負いで、九月に決めたものが、木羽が無いので木羽の買えるまでと、延び延びになり、今もって仕事をしてくれない、手付け内金も払ってあるから、心配になっているとの話だった。そして、お客さん、木羽をお持ちなら大工宅へ寄って、木羽の話をしてもらいたいと、頼んで来たのだ。

私は、何でも仕事の内、縁あって印房の頼みを聞くのもまた世間の義理と、主人の名刺と略図をもらって、秦と言う大工宅を尋ねた。入口で声を掛けると、若い奥さんらしい人が出て来て、大工は家だが、今、学校の補修に行っている、近くだから呼んで来ると言って出て 行った。その素振りが明るく自然で、悪い人とは思えなかった。そしてどこかで見た事があるような顔だった。中に老婆がいて、中へ入れと招いた。囲炉裏ともつかない、毀れかけた長火鉢の練炭が、薬缶の湯気をかき立てている。側へ寄って、老婆の汲んだお茶を飲むと、梅湯の味がした。炊事場と居間が一室になって、七寸ほど敷居が高くなった次の客間の仕切戸を取り外して、がらんとした殺風景なたたずまいで、生活程度が良いとは思えなかった。婆さんが、学校の補修と言っても仕事がない合間の仕事だと言って、宮下から木羽が来れば仕事は一ぱい有るのだが、その宮下でも木羽はないというのだ、中野の木羽屋さんが割っていないのかも知れないと、独り言のように喋った。私は、もしやと思い、宮下とは橋本屋のことかと聞いた。婆さんはその橋本屋の家の者で、出て行った女の人は、禿定の娘だったのだ。私は見たことのあるその女の人の顔を思い出していた。それは音吉老とお正月の商い初めの日に木羽を背負って行き、空き腹に甘酒のお替わりを盛ってくれた時のあの女の人の顔だ。そしてまた、弟と共に木羽を背負って行き、木羽代金が貰えず、米の買えなかった時の悔しさと、禿定の顔が交互に目の中に去来して、打ち消そうとしても幻影のように目の奥をかすめていた。

米の買えなかった時は、非情な人だと禿定を恨みに思った事もあったが、祖父や父から事毎に、人をそしったり、誹謗したり、愚弄するような言葉を使ってはいけないと、厳しく教えられていたので、私は悪口を言ったことはなかった。今その所縁(ゆかり)の人と向き合って、悪口などいわなくてよかったと、胸を撫でおろしていた。婆さんは、この頃になって俄に物の値段が高くなった、中野でも今一生懸命割ればよいのにといっていた。私は、中野を知っているのかと聞くと、中野へ行ったことはないが、親父さんの顔はよく分かる。店の大得意でよく酒を飲んでいた、酒を欽むとまた素晴らしく上機嫌の人だったと、親しみをこめて語っていた。私がその中野の息子だと言うと、婆さんは目が悪いのか、私の顔を覗くようにして、親父さんによく似ていると言った。そんなところへ大工さんが帰って来た。私は、印房主人の名刺を出して尋ねた理由を話した。横から婆さんが、この人は中野の木羽屋さんの息子だよと、さも得意そうに言ってくれたので、私の所在を話す手間が省けた。大工さん の日焼けした面長の顔は、頬の辺りから寂しく痩(こ)けて、風采はあがらなかったが、耳に鉛筆を挟んで、職人らしい様子に好感がもてた。悪いと思いながら、肝心の木羽が買えず延び延びになっている、別に悪気があって引き延ばしている訳ではないと、弁解する態度も毒気はなかった。

いろいろな話の結果、私が木羽を持って来て葺く事になった。木羽を持って来る馬車賃として、前金も出してくれた。大工さんは早速明日から下地取替えにかかり、私は明後日から葺く段取りを話し合い、印房へも連絡する事を約して、私は帰路に就いた。

私は歩きながら、町在住の職人の出立(いでた)ち服装(ふくそう)や気質など、田舎では想像も出来なかった晴れやかさに幻惑されたように、いつか衣料品店に入っていた。そして大工さんから金をもらって、気持ちもおおらかになったせいもあり、白く斑(ぶ)ちて塩が吹いているといった節さんを驚かせて見たい気も起きて、乗馬ズボンと胸前のダブル折襟の上衣を求めた。そして、自分がズボン姿になれば、次雄君も欲しいだろうと思い、同じ物を買った。

黒沢へ着いた時は、小母さんの家では夕餉は済んで、秋の収穫の模様など雑談をしていた。声を掛けて入ると、小母さんは、放蕩息子が来たから、ありったけの馳走をしようかと冗談 を言いながら、膳を設(し)つらえた。その冗談に私はたとえようもなく、親密感を覚えて、嬉しかった。重喜小父も、細い目に眼鏡を掛けて、恵比須のような笑顔で冗談を聞いていた。その重喜小父に、私は坂下での仕事の事を話し、明後日、馬車での木羽運びを頼んだ。重喜小父は、俺も来春から馬車追いをする心算だが、今はまだ馬を持たないから、誰か頼んで見ると引き受けてくれた。小母さんがマーコは顔が汚れている、体が疲れているだろうから湯に行こうと言った。砂子原や黒沢部落の人達は、湿泉が近いので、野良帰りや夕方など、自分の家の風呂に入るように気安く、温泉に浸る事が習わしになっていた。

お湯の中に咲く仕事

私とは同年輩の小母の息子一(はじめ)さんが親にも勝る堅人(かたじん)で、身を飾らず、手縫いの野良衣を着て、相好(そうごう)を崩した笑顔が、小母と共に私を湯に誘っていた。出かけようとしたところへ次雄君が来た。私が夜になっても帰らないので、もしかして黒沢にいるかも知れぬと、心配して来たのだ。丁度よいところへ来合わせたといって打ち連れて上の湯湿泉に行った。湯舟の中は混浴で、三人の先着男女が浸っていた。小母が先に入って先客に「先生、今晩は」と声を掛けていた。その人は、榊原という学校の先生で、私は初めて出会う人だったが中々の好人物で、如才(じょさい)なく話しかけて来るその笑顔の皺が、たとえようもなく魅力があった。榊原先生は、湿泉に浸るのは又とない力の涵養だが、冬場は期末試験などの事務繁雑になり、中々来れなくなる。家に風呂があればと思うのだが、薄給の身では屋根の雨漏りすらままならないといっていた。小母が雨漏りならここに木羽屋がいると私を指した。

先生は、屋根屋を探していたところだ、滝谷にいると聞いたから近々頼みに行くつもりだったといった。湯の中での話し合いで修理をすることになった。明日は日曜日だからという先生に、修理に行くといって湯から出た。湯上がりに新調のズボンと上衣を着て、上機嫌の私と次雄君の姿に、小母達は、職人らしい風格が出て来たと喜んでいた。

屋根職人の秋空は忙しく、遅くなっても次雄君と二人で芋小屋へ帰った。深夜の空気は冷えこんで、吐く息が闇の中で微かに、魔性のように消えて行く。月もなく、ぼんやりした星が二ツ三ツ見えたので、下り坂の天気が予想されて、ボツボツ雪の便りも近い感じを受けた。日曜日の朝は一面に霜が降りて、汚れた白い雲が天空の三分ほどに浮いていた。二人で一本ずつの木羽を背負って、榊原先生の屋根修理に行った。先生は、来年は葺き替えねばならないだろうから、酷(ひど)いところだけ見るようにといわれるので、そのように繕って午前中に終わった。

乗馬ズボンと上衣のお陰で、一角の職人と見られたような印象を感じながら、これからはあらゆる人と接触するのだから、身形(みなり)も大事な交際の糧(かて)と思った。余った木羽を黒沢の家へ持って帰ると、小母はついでだから勇んところの庇も見てやれと言うので、半日遊ぶのは勿体ないと思い行って見た。若い者は野良だといって、婆さんが孫娘を相手に栗の皮剥きをしていた。庇の屋根はかなり傷んでいた。あるだけの木羽で、大方の修理をして帰った。

重喜小父が、馬車は頼んだが、明日になって木羽を積んで出掛けては、坂下(ばんげ)まで行けば夕方になるから、今日の中に積んで黒沢まで持って行って置き、明朝早立ちで行くと言った。考えて見ると、坂下までは途中柳津の岩淵の坂、坂本からの七折峠と、馬車にとっては難所がニヵ所あるので、重喜小父の責任もった段取りに敬服し、重喜小父が馬車追いになったら、さぞかしよい馬車追いになるだろうと思った。そして私は、なるべく軽いところを見て置く心算で、次雄君と共に芋小屋へ急いだ。心は穏やかでも、体が無性に忙しい毎日だった。次雄君を連れて、坂下へ着いた時、大工の方は、古板剥がしが手間取って、下地は出来ていなかった。木羽も届いてなかったので、下地張り替えを手伝って、昼近くに木羽が届き葺いたが、屋根の半分が葺き残った。止むなく大工さんの家で泊る事になった。翌朝は、小雨がぱらついていた。

大事をとって、大きな合羽を借りて屋根を覆い、葺くだけの問隔を合羽を捲りながら葺 いた。合羽を捲りながらの仕事は時間がかかり、終わった時は午後も三時だった、その間、家主の小母さんが、お茶だ、お昼だといってくれたが、雨の心配ばかりで、下りずに、手を休めずに葺いていた。幸い雨粒は細かく、大した降りではなかったが、背中から腰の辺りにかけて、ぐっしょり濡(ぬ)れて絞(しぼ)るほどだった。大工の家へ駆け込んで、着替えのズボンと上衣を買って来るよう頼んだ。長火鉢のタドンの火では乾かすことはできなかった。その時私は、責任を持つということの辛さが身にしみていた。

着替えて、雑炊を食べ、腹の中から温(ぬく)もり、人心地を取り戻したが、時計の四時を打つ音に早、帰る時間が気になっていた。

町と村の仕事の差

大工さんの精算で、私の取り分は七十円だった。私の計算では五十五円と出ていたので間違いではないかというと、大工さんは、屋根先に使う軒付という特殊木羽の分を六尺一坪として計算しており、私よりも坪数で二坪多く、しかも坪単価が五十銭高くなっていた。この辺では施工主が予算を立てて、その予算内であれば、高くともよいのだといった。私は、次雄君と二人分の服装代がただになった気分で朗らかになった。そして大工さんには、初めて付き合った仲とも思えぬほどの歓待を受けて、またの機会を誓い合って帰った。

その日もまた夜は遅かったが、次雄君の生家でもある黒沢の家は、行き来には必ず寄らねばならぬように建っている家だった。寄ると、小母さんが、勇んところから金が届いているといって二円の金を出した。私は、しょっちゅう寄ってお世話になるから、小母さんの小遣に上げるというと、小母さんは、世話をする事が楽しみなんだ、お金をもらうと世話が出来なくなるといって取らなかった。

遅くなっても帰らねばならぬ芋小屋へ、小止みになった雨の中を電灯を頼りに歩くと、闇の道路に水溜りが電灯の光に反射して、慌てて跳び越して、思わぬ泥を跳ね上げ苦笑した。辺りの山が、闇の中で闇より黒く浮き出し、目の前に迫って来るような幻覚を感じながら芋小屋へ着いた時には、部落はひっそりと寝静まっていた。汚れ物の風呂敷包みを風呂場に置いて床に潜ると、何とはなしに、喜久馬さんの顔が浮かんで来た。あの凄い顔だった。そして頭の中に、町の人と田舎の人との、はっきりした色別けが浮かんでいた。

田舎の人は、一つの仕事を、取った、取られたと奪い合い、汚い泥試合をする小心であり、また仕事をしてもらう側の人も、坪数が幾らあって、釘がどのくらい使ってと、緻密な計算をした上、なお且つ最後には負けろというのに対して、町の人は、おおらかというか、自分の考えと予算を言って、後は職人に任せる。淡々として職人を信じている。職人もまた責任ある仕事をする。そうした事を考えながら、降雨の中の仕事の辛さに勝る心の収穫が、希望を大きく育てていた。井の中の蛙ではいられないと思いながら、いつか眠っていた。

どのくらい寝たのか、チャリン、チャリンと、茶碗の音で目が覚めた。食後、飯台の端で見積書を書いていると、旦那が座敷に机があるといった。が、見ている所で書いて見たい一種の見栄のような心があって、飯台で書いた。作ったばかりのゴム判を捺して、三文判の印鑑を捺して見ると、ゴム判と比較して、印鑑が貧弱で、重さを欠いていた。しかしこれで一応の書類も出来たという安堵感で、ホッとした。その反面、見せびらかすようにして書いた事にいささか含羞(はにか)みを覚えていた。

空はどんより曇って、道路には霜柱が一寸ほども伸びて、頭に泥を冠っていた。雪の気配はなかったが、博士山はすっかり禿山になって、雪を待っているように見えた。

ざくざくと音をたて崩れる霜柱に足跡を残して、発電所へ行った。上役らしい職員が、見積書が出来ないのかと、はらはらしていたといった。勝意君の頼みもあり、本部へ良いように話をしてしまったので、出来ないことになれば、その職員も信義上困るところだったといっていた。大きな会社の職員でも、田舎に生活している故(せい)か、田舎弁丸出しの言葉に、私は好感を持った。

その職員が、本部では、金額が合えば、季節が季節だけに即決してもよいと、諒解はとってあると言っていた。その季節とは、降雪も間が無いことを意味していた。見積書の金額を 見て、驚いたように、玄関も庇も入れて一式工事をこれで出来るのかと、大分開きのあるこことを、暗に知らせていた。私は会社の事だから、精密に計って、その金額になりましたというと、見積書に社判を捺して、これは本部へ送るからといって、新しい契約書に要点を書き込み、相互に捺印して契約は成立した。

雪の中で発電所の葺き替え

この発電所は、博士山の西北から流れる小川が途中の谷水や沢水を誘って流れ、琵琶、成沢、芋小屋と流れ、この辺ではかなりの水量になり、芋小屋と胄中の間の落差を利用して作った発電所で、付近の五ヵ町村くらいは賄えるとの事だった。この川は、下流に黒沢、砂子原、湯八木沢と流れ、滝谷で滝谷川と合流して只見川へ注いでいる。

契約を取り付けて、さあ明日から葺き始めると、心が逸(はや)って、午後から割り方を 止め、三人で木羽背負いをした。夕方から小雨をまじえた風になった。冷え込みが厳しさを増して、険悪な空模様が、いやな予感を告げていた。翌朝の冷え込みは殊更に強かった。雪は止んでいたが、各家の屋根も野も一寸ほど雪が積り、白一色に塗り込められていた。初冠雪を頂いて、博士山の高峰には朝日が反映して、見事な白銀光りを放っていた。

源吾小父をまじえて三人で葺き始めたが、雪を掃きおろす余計な手間がかかり、手先の冷たさも災いして、思うように捗らなかった。博士山へ一度降れば根雪になると、当地のたとえがあるので、早く葺き終わりたいと気は焦っても、仕事が進まず、本屋根が終わって庇に掛かった時は、朝から雪が降っていた。雪が降っても休めなかった。休めばそのまま雪の中になり、半端仕事になり、来春まで金もお預けになる。苦しくとも蓑(みの)を着て葺いた。一足葺いては雪を払い、また一足葺いては雪を払い、雪と戦いながら苦患(くげん)の屋根葺きが終わった時は、流石に身も心も疲れていた。生涯忘れる事の出来ない経験だった。

木代も払う

発電所の屋根葺きも終わり、雪も積もって来たので、私はこれ迄の仕事の一切を精算した。木羽割りの方は出来るだけの仕事をして、雪中の無理な仕事はせぬように、後の事を源吾小父に頼み、一先ず中野へ帰る事にした。

金四郎小父や伯母さん伯父さんが、骨折った後だから、少しゆっくり休めといわれたが、雪が見通しもきかないほど勢いよく降るので、この調子で降られれば家へ帰れなくなる危惧もあるので、心を駆り立てるように、伯母達の言葉を振り切って帰路についた。

次雄君が、雪が積もれば、しばらく仕事は出来ないから、一緒に中野へ行くというので、相手があれば心強いと思い、敢えて拒まず、一緒に帰った。黒沢の家でも、この降りでは長居もできないからと、握り飯を拵えて持たせてくれた。次雄君は、黒沢の家が生家であっても、幼少のころからほとんど兄の泰吾小父のところで過ごし、なお且つ泰吾小父の指示で追い回されてきたので、お盆やお祭などに実家へ寄っても余り長い逗留はしたことがなく、むしろ、泰吾小父が私の家で仕事をしていた関係で、私の家で遊ぶことが多かった。いま、泰吾小父が留守で、名入へ行っても、あまり心を休める訳もなく、しぜん私と一緒に中野へ行くという気持ちが、私には痛いほど分かった。

途中大登峠は、膝まで潜(も)ぐる雪が積もっていた。名入の渡し舟は雪の為舟止めだと聞かされて、高清水回りで、そこから高尾原へ出ようか、名入回りにしようかと迷ったが、雪が積もれば中々出難くなると思い、時間がかかっても伯父の所へ回る事にした。

名入の伯父宅では、囲炉裏を囲んで、大きな鉄鍋を鉤の鼻に下げ、輪切りの大根や芋など入れて煮ながら、各自が箸で突つき上げて食べていた。私も次雄君も雪の中を漕(こ)ぐように歩いて来たので、空(す)き腹(ばら)には有難い馳走だった。水小屋仕事の後、伯父は中洲の屋根と彦吉さんの庇を葺いて、木羽にならない細木の分は、彦太郎に売ったとい っていた。

その彦太郎さんは、秋田木材と言う大きな木材会社の社員で、地方では手広く杉木の買い付けをやっていた。伯父が、他人から儲けることにしてこの木は高く買ってくれと頼み、細木が高く売れたと、木羽代と共に三十円の金を出した。そして、木は割り尽きたから冬の仕事はないといって、庄太親父が木を売りたいといっているが、一本や二本欲しいといっても話にならないからと消極的な話をしていた。

その庄太さんは、名入部落では一、二と指折りの資産家で、長男が海軍士官で、次男の強君が私の名入在住中は、大の友達だった。私は「一旦家へ帰って天候具合を見て、又来る伯父が一人で割るくらいの木は買えるだろう」と言って、木代に当てる金として二十円を預かってもらうことにした。長女の君子が外を眺めて、小降りになったと言う言葉に力づけられるように私達は外へ出た。雪は、どんなに烈しく降っていても、一日の中(うち)、必ず夕方の一時(ひととき)、小止みか、小降りになるという定説がある。ちょうどその時刻なのだろう、小降りになってはいたが、寒さは募っていた。

久し振りで実家へ

雪明りが暗さを半減させて、時刻の割には外はよく見えていた。父は、茅を編んで作った大垂を家の回りに巻きあてて冬囲いをしていた。回りの雪はおよそ一尺ほども積もっていた。母は、久し振りの私達に、餅でも搗くかといって、仕度に取りかかった。私は、仏壇に灯明をつけ、働き高を祖父に報告した。仏壇の奥の方に封筒があるので手に取って見ると、兄の便りだった。便りには、今月は三円だが、来月からは五円ずつ送ると書いてあった。兄もようやく金を送れるようになったのかと、私は喜びよりも涙が出て来た。手紙の中に金はなかった。

次雄君と私は交互に餅を搗いて、久し振りの団欒には地酒が出て、父の笑顔が殊更に和らかく光っていた。餅を頬張りながら、私と次雄君が、代わる代わる過ぎ来し仕事の話をした。寒いのか、ブーが膝の上に乗って来て、喉をゴロゴロ鳴らしていた。

私はこれまでの働き高といって七十円出した。母は、七十円もの金は、何年も見た事がないと、いつになく喜んでいた。父は来年の春は、新築屋根仕事が出来そうだといった。名入の履物店の常次さんが、現在の住まいは道路下で北向きだから、道路上に南向きの家を建てるというのだった。その常次さんは、下駄や草履など背負って歩いて、私の家へ来ると囲炉裏端に上がりこんで、お茶をのみながら一時間も話しこんでいる人だった。目が悪く、不自由だろうと思って見ていると、物の良く見える者よりも上手に品物を扱って、商売が上手な のか、家では金もないのに、よく買わされていた。父は良く付き合っているから、間違いなく葺けると、自信ありげにいった。父はまた、西方の兼松さんも家を新築して、ふじやの看板を大きく掲げるといっていた。そのふじやから父は食料品など前借りで使っているから、屋根を葺いて精算すると話はついているのだが、喜久三が葺かせてくれと話しかけて、坪単価を思いの外安く喋っているから、そうそう高くすることも出来ないと、少し当惑気味ないい方をしていた。父の話は続いて、喜久馬さんは体が悪く働けなくなり、代って息子の喜久三さんが大石田から留夫を弟子に取り、手広くやっているともいった。

その留夫さんは私より三つ年上で、部落の青年時代、無類の力持ちで、働く事においても人後に落ちない剛の者だった。

父は、喜久三と張り合ってもつまらないから、木羽の長さを伸ばし、尺木羽で葺くよう話し合って見る心算だが、今から話せば、また喜久三の耳に入り、話題になっても困るから時期が近づいてからと考えているのだといった。私は、父も中々考えているのだと、尊敬の度を増していた。しかし、どうして田舎の人たちは、人の邪魔になる存在が多いのだろうと、義憤のようなものを感じていた。と同時に春先に仕事をするには、冬期間にある程度の木羽は割っておかねばならない。春ともなれば、芝切りだ、苗代だ、夏藷植えだと百姓は目まぐるしく忙しく、木羽割りは出来そうもないと思った。しかし父は、木は持たなかった。堰の山に割り残しがあるといったが、さほどの量もないらしく、たとえあっても、雪の中を運ぶ事は困難だった。

父の木羽木の買入れ先は、ほとんど直市さんでその直市さんは、下村の寅市さんからの分家で、財産はほとんど上村に偏(かたよ)り、村下から中野辺にはなかった。雪の中では、自分の家の付近でなければ仕事にならないので、父も困っていたのだ。

世のうつり変わり

私の家でも、祖父の時代に丹精して育てた杉林が、セイロウの上方(うわかた)からかなりの範囲に亘り切りごろの杉になっている。しかし、長男が亡くなった年や、弟蕉が亡くなった時、父は、ちょっと借りと言って、金上(かねじょ)の屋号を持つ西方の勇という資産家から金を借りていて、その金が返せず、利に利が乗って大きくなり、その上、勇さんが大石田の寅市さんへ証文の鞍替えをしたため、その杉林をやって精算したので、家の権利から除かれていたのだ。父は自分の見栄のために財産をなくしたのだ。あの時見栄を捨てて木を切っていれば、土地までは手放すことはなかったと、後悔していた事があった。それは、夏祭りも近づいて、父が、こう物が高くなっては祭りの仕度もたいへんだといった時、兄と少しばかり言い合った時の事だった。そうした事があって、常に一働きせねばと考えていた兄の心に油を注ぐ結果となり、家出の一因ともなったと、私は感じていたのだった。

大雪が降った後は、寒さが緩んで雨となった。その翌日も雨で、冬場には珍しい、篠つく雨となって一しきり降り、雪が溶かされて、家の庭は時ならぬ水溜まりとなった。学校帰りの弟逹が、前の沢は洪水だと騒いでいた。私は、橋など落ちてはたいへんなことになると思い、スコップを持って行って見た。村の人も四、五人出て、側溝の雪を突ついて流れの滞りを直していた。私は橋脚に絡まった木の枝を取り除き、心配ない事を確かめ、みんなとともに大丈夫だといい合って帰った。次の日、四日振りの晴天に陽は強く射し、軒先の凍氷(かなこおり)は、先端から水滴を垂(た)らしていた。次雄君が、つまらなそうに巻煙草をのんでいた。ゴールデンバットである。その頃から田舎にも巻煙草が出回って、若者がよくのむようになった。世の中も大分変わって来て、銀煙管(ぎんきせる)で刻み莨をのんで気を吐く旧習の時代は終わったかのように、ちょっと気障な人は、朝日を燻(くゆ)らし、バットを咥える人と、上下の相場が決まったような世の中に変遷して、貧富の差が歴然と現われ始めていた。

私は次雄君の気持ちを心にかけながら、早く木を買って共に仕事をしなければと考えて いた。父とも話し合って、若い者の方が良いかも知れないという父の言葉に元気づけられ、寅市さんの家を訪れた。入口が雪溶け水で短靴で歩けぬ程、ゴシャゴシャしていた。出入りの人が困ると思い、軒下のスコップを取って排水の溝をつけて、トンボヘ入って案内を乞うと、奥さんのトミエ小母さんが、「今日は留守だから、話はして置くから、また来てくれ」と言ったので帰った。

師走月は日暮れが早く感じられて、数日を読書とお茶のみで過ごしていた。

収穫物のあるうちは、農家にとっては極楽である。三尺ほど雪も積もって、草履、草鞋、荷縄綯いなどの藁仕事もあまりしなくなって、ゴム靴、ズック靴が出回り、文化の波が山里にも広まりつつあった。藁仕事の代わりに、都会の建設工事の雑役として出稼ぎして、金を取って来る。一部の人には、革靴を履いて、高シャッボを被り、都会かぶれと非難される者も出た。進歩とも言えない変わりようが部落の物の値段をつり上げ、働き手があって稼げる人には小金の回りがよく、その陰に泣く人もまた数を増していた。

外は、晴れ間を縫って、積もりそうもない雪が降っていた。四十雀が、桜の枝で囀っていた。二階の軒下につるした油菜の匂いを嗅いで欲しがっていた。昼近くだった。次雄君が、煙草がなくなったというので、私は煙草買いに出かけた。仙八と言う人の家の前を通ると、仙八さんが、寅市さんは帰っているよと教えてくれた。この仙八さんは、下村と中村の境に家を建て、大きな赤牛(あかべこ)を飼っていて、牛(べこ)の背中に荷を載せて運ぶ、運賃稼ぎの牛追(べこお)いをしていた人で、父とは良く気が合うのか、父の仕事なら、力仕事のぼた背負いなど、喜んでやってくれた人である。仙八さんの弟で、留市という人が、家で寝泊りして働いていた事もあった。

寅市さんが帰っていると聞いて、私は寄って見た。金持ちの旦那らしく、落ち着きのある、

和らか味の姿で、上がれといった。囲炉裏の側へ上がると、座布団を勧められ、遠慮なく座って、杉の事を話そうとすると、旦那の方から話して来た。トミエから話は聞いているが、この雪では杉見(すぎみ)の山歩きは出来ないといいながら、中野の裏に雷木がある。夏雷が落ちて折れた木だ。その回りに三本あるといって帳面を開いて見ながら、秋になってから山巡りした時にその雷木を見つけて、何とかしようと思っても雷木だけでは買人(かいと)もないから辺りの木を計って置いた。雷木を入れて四本で五十円で買えるか、五十円なら切ってもよいといった。そしてお茶を注ぎ、饅頭を出し、俺は甘い物が好きだ、お前も食べろといって、うまそうに食べていた。そうした旦那の仕草に、私は普通の人と変わらない社交的な情を感じて、世間の人が近づき難い人だといっている言葉とは違って、親しみ易く思った。

家へ帰って、次雄君を連れてその雷木を見に行った。父も後からついて来ていた。なるほど木の七分目どころから折れて、根元の方まで裂け目があった。回りの三本の木は旦那の言葉に偽りはなかった。伸びもあり、古木の中に数えられる木だった。回りを計って平均四尺 六寸と、木羽には勿体ないほどの木に私の心は喜びに満ちていた。父は、雷木は全体にひびが入り物の役には立たない、昔から雷木は木羽にも割れないといい伝えがあるといっていた。私は雷は素性の良い木に落ちるので、雷木の付近は割れると言う話をどこかで聞いたことがあったので、その木が欲しくなっていた。父はかなり値段も高いが、直市さんの本家だけあって木も良いといった。翌朝、足跡を隠す程度の雪が降っていた。私は、西方まで饅頭を買いに行った。初めての私に、快く木を売るといってくれた旦那に、好きだという饅頭を手土産に持って行く考えだった。魚心に水心と、祖父がいっていた事を思い出して実行しているのだった。

甘い物が並んでいる中から、餡(あん)こが透きとおるような衣で包んだ餅菓子を求めて、五十円の金を持って、再度寅市さんを訪れた。寅市さんは、みな金持って来るとは思わなかった。家でも今年は金が要るのだといって、傍に座っている娘を指していた。その娘は、女学校卒業の年だったのだ。

仕事がないという仙八さんを頼んで切った。私と次雄君は、もっぱら運び方をして、木屋の前からセイロウの辺まで一ぱいになった。雪が降っても、雪の中に埋もらしてはたいへんと頑張っていた。運び終わって、歳夜が来て、次雄君が、歳取りには名入へ行こうなあと言っていた。

平穏無事な冬が過ぎて、縁先の積雪もあちこちに土の匂いがするほどに消えて、堀の流れには、相も変わらぬ、つくしんぼや蕗が芽生えて、私には昔を思い出すような感じがした。小屋の軒場や桜の根元まで木羽が山と積まれて、雪中の仕事高が、晴れ晴れとした気分にさせていた。心配した雷木も、ひびはあっても、立派な木羽になっていた。しかし、金は使い果たし、月末に届いた兄からの金で凌いでいた。私の取って置いた金も残り少なく、木羽を売らねばと考えていたが、禿定の店や西方辺では売る気がしなかった。名入の常次さんも、西方のふじやも、大工が始まったといって来たが、屋根葺きまでは、まだまだ日がかかる。木羽はこれから割っても間に合う状態だった。私は、密かに、坂下町や若松方面の木羽の値段を聞いて、運賃や手数料を引いて逆算して見た。出た答は明らかで、いかに土地の店の仲買料が高いかを知った。泰吾小父は、早く来いという便りを次雄君のところへ二度も寄越した。義理に縛られて迷っていた次雄君が、金になる、金になると何度も書き綴った便りに誘われるように樺太へ出て行った。私はなけなしの金を餞別して、もし会えたらと兄への手紙を託した。数日して坂下へ木羽を売る話で出かけた。行きしなに、名入の伯父のところへ寄った。伯父は、木代として置いた金で木を買って割った木羽を、軒場にうずたかく積んで置いた。

伯母さんが、留三さんとキツノさんは南洋のテニアンというところへ行ったと話していた。坂下へ着いて、秦大工をたずねたが、空き家になっていた。縋る木を失ったような空虚感で、印房を訪れた。印房の主人は、このごろは一人働きの大工では働けない、テニアンは、大工がいないので金になるといって、金につられて出て行ったと話した。私は、半歳も経たない中のあまりの変わりように、世の中の移り変わりの烈しさを思い知らされて、身の縮むような気がした。私が、戸惑ったような話をすると、印房の主人は、お客さんのような人なら安心して話も出来ると、お世辞をいいながら、ゴム判を作った事がある、明(あきら)という人を紹介してくれた。印房の名刺を持って、町並から外れた田圃を埋めて建つ工場に行くと、少しばかりの木材と製材機械が一台取り据えてあって、一坪程の事務所に明さんはいた。木羽の話をすると、ぜひ欲しいという。私は雷木を割った五十本を考えていたが、明さんは、五十本では農家の一軒分纏まらない、五十本、六十本の木羽の小売りは面倒だからやらない、屋根は屋根で一式請負いをするのだといった。話し合いで百五十本売る事になった。ただし坂下渡しと条件付きだった。早速、三次さんを頼んで運ぶ事にした。三次さんは、雪溶けで道が悪いからといって仲間を誘い、三台の馬車で三日かかって百五十本の木羽は精算された。五本や十本の木羽で売ったが金が貰えないなどと、小口売買で騒いでいる時代は終わったのだ、と私は、時代の流れが大口化して、取引金額も大型化している事を、心にひしひしと感じていた。

家での仕事が一段落して、私は西山方面の年始回りを兼ねて芋小屋の木羽を見に行った。榊原先生は、雪も消えたから、何時葺いてもよいと言っていた。源吾小父は、婆さんが弱って思うほど仕事は出来なかったと言っていたが、切った木は割り尽くして、四十本の木羽が出来ていた。そして万一の場合、小屋が邪魔になると小声でいうので、私は、小屋の取り払い手間賃と割り賃と婆さんのお見舞いを置いて帰った。五左ヱ門さんは相変わらず悠揚な顔で、残りの木は何時割るといっていた。帰り足に、重喜小父に木羽の運搬を依頼して帰った。

若葉にはまだ程遠いと思われる山里にも、コブシの花やマンサクの花で、芝山は賑わっていた。芝切り山で、乾いた落ち葉の上に寝転がって昼寝をする時は終わって、雪溶けの水がまだ乾き切っていない畑に、夏大根の種子を蒔く時期だった。ふじやから妹カツミを欲しいと、再度いって来た。母は連れて行った。しかし母が帰ると、嫌だ嫌だと泣いて泣き止まず、どうにもしようがないと送り返された。私は、自分の家で成人するのが一番よい、それでよいのだと密かに思っていた。

そろそろ田仕事も始まるから、やるべきことは早くしておきたいと、榊原先生の屋根葺き の事を考えていた。次雄君もいない事で、元吉叔父に相談すると、叔父は、本格的百姓が始まる前に金も取っておきたいと、快くいってくれたので、叔父と二人で泊まり込みの屋根葺きに出掛けた。叔父は、丁寧な仕事をして葺いた後が綺麗だったが手間取った。葺き終わって、祝いの馳走に就いた時、先生が、定めし良い屋根が出来たでしょうと、くすぐったい言い方をされて、私は言葉に詰まった。

若葉に目が醒めるような新緑の春が山里の生気をかき立てて、部落にも派手な服装が目立って来た。私も十九の春だった。龍太郎老が来て、父と屋根の話をしていた。森野の従兄妹の家の屋根を葺いてくれと頼んでいたのだ。父は、森野は泊まり込みの仕事になるから、私に葺いて来いと言い付けた。そして、嘉十さんを頼んで木羽を運んだ。私は、留重伯父を頼んで、着替えの風呂敷包みを背負って二人で出かけた。森野の庄三郎さんの家は大きかった。家の中はこざっぱりして、生活の裕福らしい様(さま)を漂わせていた。主人は馬に乗って毎日のように出ていた。馬の種付けで働くといっていたが、すらりとして背も高く、人品卑しからぬ好男子で、話す言葉も柔らかく、冗談をいわない正直そうな人柄は、人品に相応わしい感じがした。

庄三郎さんの屋根が終わって帰って来ると、名入の常次さんの屋根が待っていた。父と伯父と三人で、二日で葺き終わった。

ふじやの仕事はまだ数日先になる模様だった。田のよせ刈りの季節だったので、私は妹を連れて滝の和合へ草刈りに行った。草を刈りながら、以前に、母や兄達と田植えに来て、苺もぎやホトトギスの話を聞いた事など思い返し、あの頃はみんな揃ってやれたものをと、大きく変わったわが家の境遇を寂しく感じていた。隣の家でもよせ刈りに来て、テル小母さんは滝の方へ何か取りに降りて行った。トシ子が、家の田と隣り合わせの土手の草を刈って、芒で手を切ったと、泣き声を出していた。妹より一つ年下で、子供じみていた。私は汗拭き手拭の端を割いて傷口を縛ってやった。

妹は叔父と越後の五泉へ

それから数日して五泉の亨叔父が来て妹を連れて行った。私は幼少のころから亨兄さんといって信頼していたので、喜びさえ感じていた。妹もまたふじやの件もあってか、こだわりなく出て行った。

父と二人で、ふじやの屋根葺きが始まって、昼頃だった。嘉美君が屋根の上に登って来て、私の傍らで一枚の木羽を取って、尺木羽の約束なのにこの木羽は五分短いといった。私は 一瞬、ハッとしたが、次の瞬間、長いところを三、四枚掴んで、これを計ってくれと差し出 した。嘉美君は何にも言わず降りて行った。好天続きに恵まれた週間の中に葺き終わった。三時の休み頃だった。お茶屋の前で賑やかな人だかりがあったので行って見た。道路にテーブル用の木箱を置き、小ちゃな薬びんを並べ、「傷によく利くガマの油、さあ、さあ、買った買った」と、大声でがなり立てていた。山里の部落では、ついぞ見た事のない光景をそこに見て、私は、文明文化に付随したこうしたいかものがこの山里にも流れて来たかと、今日見ぬ物が明日は見る流れの早さに気を取られていた。そして、なぜ百姓ばかりが取り残されるかを考えた。考えれば考えるほど、金がないという事に突き当たるのだった。

私は、土掘りと背負い方の百姓の辛さを知り、父や母だけにその重労働を稼した事に忍びがたく、出来る限り百姓をやろうと思っていた。

春も過ぎ夏も過ぎ、初秋の頃、芋小屋から、来春栗木羽で学校の屋根を葺く事に決まったと連絡が来た。私は栗木羽仕事はした事がないので、少しでも習っておかねばと思い、十三子参りの時、よい人だと心に残っている徳五郎さんを尋ねてみる事にした。初秋といって も山里は、じりじりと灼きつけるような日が続いていた。郷戸の坂を登って、徳五郎さんを 訪れると、親切そうに徳五郎さんは、ああ、あの時の中野の息子さんかと、思い出してくれ、今丁度よい時だ、九月九日までに本殿の屋根替えをしなければならない、木羽も後僅かで出来るといって、山へ連れて行かれた。そこでは息子の徳衛さん、銀平さんと四人で割っていた。私は徳衛さんと一緒に仕事をすることになった。五日ほどで木羽は出来て、葺く段取りの足場掛けから、軒付、平葺、角葺、流れ破風と、一応手掛けさせて頂いて屋根替えは終わった。そして九月堂と言う虚空蔵様の一大祭りには鬼門係りとして行事に参加し、僅か二十五日の間に意外な収穫を得て家へ帰った。

家では、私が農作業にも精出すようになってから母も体にゆとりを持ち、大石田へ出掛けてお茶のみする機会も出来た。父もまた、世話好きの性格が表われ始め、親父、親父と掛かる声が多くなった。私は、それだけ父母に余裕が出来れば自分の働きが無駄ではない事を知り、喜んでいた。泰吾小父が帰って来たと知らされた。次雄君を呼び寄せて、自分が帰るとはどういう訳かと、私は不審に思った。春よりは夏、夏よりは秋と、日を追って物価の上昇が烈しく、杉の値上がりは、鰻昇りというに相応(ふさわ)しい上昇を示した。木羽を割っては損すると、五年前の木羽屋の不況を再現する現象が起きて来た。木羽屋を止めて、土木工事で働く人が増えた。

私は、芋小屋の残り木を、坂下の木材工場に立木で売って儲けた。そして儲けた一部を五左ヱ門さんにくれて喜ばれたが、伯父さん達には、人が良過ぎると言われた。

辛いようなおもしろいような季節が過ぎて、いつか雪が積もって、百姓の気楽な季節となっていた。家でも木羽割りを止めて、雪降(お)ろしが仕事らしい仕事となった。またたく間に春になって、私は、約束の成沢学校の屋根仕事に行った。元吉叔父、留重伯父を連れて、時々源吉小父も手伝ってくれた。部落の人達が村山の栗の木を切って、三ヵ所に運び集めたものを割って葺く契約になって、葺き終わった時、部落の田圃は一番ご草取りが始まっていた。叔父さん達には精算して帰ってもらった。早苗(さな)ぶり小遣が出来たと喜んで帰った。私は、次から次と、小さい仕事を頼まれ、断わりも出来ず残った。月に一度金を持って帰る家は、私の無上の楽しみの場所だった。

父の事故死

仕事に熱中していると月日の立つのが早く、いつしか山里の部落には、西へ行っても東へ行っても、秋祭りの太鼓の音が聞こえる季節となっていた。私は、琵琶の庇葺き替え、成沢の新築小屋の屋根と、一人仕事には格好の仕事を終え、藤太という人の土蔵の屋根を請負い、栗木を割り始めていた。午後の仕事に取り掛かり、せんを研いでいると、弟が迎えに来た。父が帰らないからというので、よく聞くと、沼沢の祭りに行って三日も帰らないというのだ。私は藤太の家の人に話し、弟と共に急いで帰った。宮下に着いた時、亜寺沢に事故があると聞いて、心が騒いだ。亜寺沢とは、宮下と沼沢を結ぶ道路で、只見川に沿って岩山の中腹を切り取って開いた道路で、亜寺沢の沢水が流れ、そこだけ道路がU字型になり、危険な場所と指定されていて、転落事故のあった場所である。亜寺沢と聞いて私の心が騒いだのは、そうした話を聞いていたから、なおさらである。

私は弟を家へ帰し、自分は亜寺沢へ急いだ。村人達が輪になって騒いでいた。その真ん中に、動かぬ父の姿を見て私は愕然とした。声も出ず、呆然とした。夜道を歩いて足を滑べらし、転落死したのだと、誰かのいう言葉を、遠い地の底の方から聞えてくるような、或いは心の声か、魂の抜け殻のように感じ、ただ瞼の奥で三時の陽が、川霧をすかして光りもなく、あの世とやらの絵のように、赤くゆらゆらと燃えていた。

頭の中も心も空虚な精神離脱の状態で、どれほどの時間を経過したのかも知らず、岩肌に背をもたせていた。突然、白い川鳥が目の前をかすめた。ハッと気がついて見送ったが、なにもいなかった。瞼の奥の夢まぼろしは消えていた。気のせいだったかと思ったが、確かに見た。

川鴎(かもめ)かと、川筋を見た。しかし何にもいなかった。不思議な気持ちにとらわれていた。駐在所のお巡りさんと医者の検視は終わっていた。私は気を取り直して、父の側に 寄って見た。頬の辺りから胸まで汚れていた。私は、沢の流れに寄せて清水で洗った。人々も、手を貸してくれた。その中に、亨叔父も来ていて、一緒に清水をかけて洗ってくれた。誰かが布団を持って来て、洗った体をくるんでくれた。そして俄作りの菰担架に乗せられた。

私は引かれるように医者を追って、診断書をもらい家へ帰った。家では棺が届けられ、叔母さん達が、涙を拭きながら世話をしていた。私は、そっと、診断書を開いて見た。頭骸骨粉砕脳損傷と書かれてあったので、私は、誰にも見せたくないと思った。

五泉から妹が駆け付けて、棺に納まった父の顔を見たいと手を掛けたが、私は、俺の顔を見て、父の顔だと思え、といって外に出た。コロコロと鳴く虫の音が哀れみを添えて、父を 慕っているように思えた。

兄も帰って来て愕然としていた。父の葬儀が片付いて、兄は又樺太へ行くという。私も叔父さん達も、口を揃えて、家を守っているようにといったが、兄は、会社での仕事もようやく緒に就いて来た時だ、二、三年すれば立派になって帰って来るといって、みんなの説得を振り切って出て行った。

まだ幼い妹達や、母の憔悴の姿を見て、私は、母を助けて、兄の帰るまでは動けないと思った。そしてこれからの事を、あれやこれやと考えて、いつか、江川先生の言葉を思い出し、明日に向かって建設的な光明を見いだそうと努めた。しかし空虚の心を満たすすべもなく、三七日(みなぬか)が来た。しかし心の中は、進む心と退く心とが混在して、ともすると悲観的に萎える方に引かれやすく、自分の心と戦っていた。供養が済んで、中秋も過ぎ、晩秋の天竺トンボが、羽を光らせてとんでいた。外に出て空を眺める事が、唯一の心の慰めとなっていた私に、御坂の山に落日がカッカと照って、ともすると沈む心を鞭打っていた。

夕映の山河・奥会津の抄

昭和61年5月15日発行

定価1000円

著  者  飯塚  真

東京都八王子市絹ヶ丘2-24-2

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