奥会津デジタルアーカイブ準備室だより 第1回 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

奥会津DA準備室

奥会津デジタルアーカイブ準備室だより 第1回

2023.08.02

はじめまして、デジタルアーカイブ

(奥会津デジタルアーカイブ準備室室長・榎本千賀子)

みなさん、はじめまして。今年4月に、奥会津ミュージアムに開室した奥会津デジタルアーカイブ準備室の室長をつとめる榎本千賀子です。この準備室は、奥会津の歴史・自然・文化・記憶を、町村の区分を越えて記録し、地域のなかに活かし、地域内外に発信し、未来に伝えるための「デジタルアーカイブ」を作ることを目指しています。

「デジタルアーカイブ」とは、電子的に記録した資料を、検索可能なかたちにまとめ、インターネットなどのネットワーク技術を用いて発信・活用する、記録と記憶のための仕組みです。コンピュータやインターネットなどの情報通信技術を応用した、図書館、博物館、美術館、資料館、文書館等の新たな形のひとつと捉えると、少し想像しやすくなるかもしれません。

しかし、分野も形態も様々な資料と、多様な実践を幅広く内包するこの言葉の具体的な感触をつかむには、実際にデジタルアーカイブを利用してみることが一番です。例えば、国立国会図書館が運営する『ジャパンサーチ』からは、一般の検索サイトと大きく変わらない使い心地で、国内のデジタルアーカイブを横断的に検索・閲覧・活用することができます。ぜひ一度、アクセスしてみてください。

デジタルアーカイブは、DX化(電子化)の進むこれからの社会を支える基盤になると考えられています。将来を見据えて、デジタルアーカイブの整備に取り組む地域や文化施設も年を追うごとに増加しています。それでも、奥会津7町村のような小さな自治体が複数連携し、自分たちの手でデジタルアーカイブをつくるという試みは、まだまだ全国的にみても珍しい、大きな挑戦といえます。この連載では、その挑戦の過程をお伝えしてゆく予定です。準備室の活動は、まずはデジタルアーカイブについて各地の先進事例に学ぶことからはじめます。

さて、デジタルアーカイブに向けた長い旅路の出発点となる今回は、自己紹介とあいさつに代えて、わたしが初めて奥会津を訪ねたときから、奥会津に暮らし始めるまでのことを記しておきたいと思います。デジタルアーカイブに導かれて奥会津に辿り着き、奥会津を舞台にデジタルアーカイブの実践を積みはじめたひとりのアーキビストのお話です。

わたしが初めて奥会津を訪ねたのは、2013年のことでした。

写真制作に取り組みつつ写真史を学ぶ大学院生だったわたしは、この年、新潟大学に職を得て、新潟に移り住むことになりました。出身地の東京を離れて暮らすのは、物心ついて以来はじめてのことでした。

当時の新潟大学では、地域映像アーカイブ研究センターが、地域に残された写真や映画などの映像資料を対象に活発なデジタルアーカイブ活動を繰り広げていました。わたしは、新潟大学着任以前より、センターが紹介する多様な映像に惹かれて、当時参加していた小さな自主ギャラリーでセンター所蔵の資料を紹介する展覧会を開くなど、アーカイブ資料を活用した活動を始めていました。

「今成家写真:写真との出会い 幕末から明治、新潟にて」
Broiler Space (2010年10月12日〜 10月23日)
都内の自主ギャラリーを会場に、新潟県内最初期の写真実践を伝える今成家写真コレクションを紹介した。

このような状況でしたから、着任後は自然とセンターの活動に参加することになりました。「デジタルアーカイブ」そのものに興味があったというよりは、掘り起こされた映像資料に惹かれたという方が正しいのですが、このようにしてわたしは、デジタルアーカイブに関わることになったのです。

そして、センターへの参加がわたしを奥会津へと導きます。その頃センターでは、金山町玉梨地区の人々を60年以上にわたって撮影してきた角田勝之助さんの写真資料を、新たにデジタル化することが決まったばかりでした。そして、新入りのわたしが、当時のセンター長である原田健一さんに促されるがまま、角田さんの写真整理を担当することになったのでした。

初めて玉梨地区を訪ねたのは、その年の5月か6月のことでした。新潟大学の先輩教員が運転する車で急カーブとスノーシェッドの続く国道252号を行く途中、眼下を流れる只見川のところどころで工事が行われているのに気づきました。2011年に発生した、福島・新潟豪雨災害の復旧工事がまだ続いていたのです。恥ずかしながら、わたしは奥会津を訪れるまで、東日本大震災と同じ年に起きたこの水害が、どれほど大きく厳しいものであったかを知りませんでした。

玉梨地区に着くと、角田さんは穏やかな笑顔でわたしたちを迎え、壁一面にネガフィルムを収めたアルバムが並ぶ、私設の玉梨映像アーカイブとも呼ぶべき元暗室に案内してくださいました。生活を共にする玉梨地区の人々を、長期間にわたって村の暮らしの内側から捉えた角田さんの写真に、わたしは息を呑みました。角田さんがとらえた、人々の柔らかくひらかれた表情や姿に、心を奪われたのです。そしてそれからは、ネガのデジタル化が進展する度に、角田さんのご自宅に通って資料についての聞き取りを行って目録を作り、成果報告として新潟や金山町で角田さんの写真展を企画するという日々が3年ほど続きました。

親戚一同での田植え/金山町玉梨地区/1950年代(推定)/角田勝之助撮影
(資料提供:新潟大学地域映像アーカイブ研究センター)

角田さんは写真だけではなく、ラジオ、テレビ、8ミリフィルム、ビデオ、さらにはコンピュータやインターネットまで、折々の最新メディアを率先して生活のなかに取り入れ、技術を学びながら、その恩恵を地元玉梨地区や八町地区の仲間と分かち合ってきた方でした。通信教育で真空管式テレビの修理技師資格を取得し、新潟からの電波が届きやすい山中にアンテナを立てて中継地となる自宅で電波を増幅し、野尻川対岸までケーブルを渡して八町にテレビ放送を届けた。こうした話をお聞きしていると、テレビというメディアのイメージが、鮮やかに書き換えられてゆくようでした。角田さんは、都市を離れた山深い土地だからこそ、時と距離を越えて情報を運ぶメディアや技術に果たせる役割があることを、実体験として深く理解されていました。

角田さんの資料を整理してゆくうちに、わたしは、これまでの自分がいかに都市を前提としたものの見方で生きていたのかを知りました。そして、角田さんが教えてくれた奥会津での暮らしを、自分自身でも経験してみたいという思いが、日毎に高まってくるのでした。しかし、将来の見通しもないままに奥会津に暮らすなどということは、あまりに無謀と感じられて、躊躇してしまうのも正直なところでした。

ところがその時、わたしのお腹に数百グラムの大きな腫瘍が見つかったのです。手術の結果、腫瘍は恐れる必要のないものであることが判明しましたが、わたしはこの経験を通じて、生まれて初めて自分の命に限りがあるということを切実に感じました。まだ若いということもあり、それまでのわたしは、いつか訪れるはずの自分の死を切実なものと捉えたことがなかったのです。この体験に背中を押されて、わたしは奥会津に暮らすことを決めました。限りある時間は、惜しまずに使わなければならない。そう思っての決断でした。

新潟大学での任期を終えた2016年5月、わたしは金山町大志地区に家を借りて暮らし始めました。引越し後まもなく、当時の教育委員会の非常勤スタッフが声をかけてくれたのをきっかけに、金山町内に残る写真を対象とした映像デジタルアーカイブ事業〈かねやま「村の肖像」プロジェクト〉をスタートさせました。多くの方々が貴重な写真を提供し、ご自分の経験や記憶を語ってくださったことにより、2019年には『山のさざめき 川のとどろき』という一冊の写真集を完成させることができました。

〈かねやま「村の肖像」プロジェクト〉ワークショップ会場風景

ふしぎな巡り合わせと様々な人々の助けを借りながら、わたしはこの10年、奥会津でデジタルアーカイブに関わる仕事を続けることができました。

これからわたしたちが作る奥会津デジタルアーカイブは、奥会津の記録や記憶と奥会津内外の多様な人々が、時と距離を越えて、にぎやかに行き交う場となるはずです。来るべきアーカイブ開設のその後には、わたしの物語に続く、いくつもの豊かな物語が紡がれてゆくことでしょう。