五十嵐 乃里枝(いがらしのりえ)
頃は葉月。山の様相もその名のとおり、いちめんの緑が層をなして生い茂っている。セミの鳴き声も相まって、山々はいのちの最盛期を迎えている。
奥会津に戻って三十年余り、夫と共に山の仕事に関わって数年が過ぎた。林業の世界に関係するようになってから奥会津の山を見てみると、いたるところに杉林があることに気づく。裾野ばかりでなく、稜線から山の頂近くまでも杉林に覆われているのは、当時の人たちが苗を背負ってその場所まで行って植えたということなのだろう。そう思うと、その労力にあらためて感服してしまう。
もう知っている人は少なくなってしまっただろうが、「お山の杉の子」という童謡がある。「むかしむかしのそのむかし 椎の木林のすぐそばに 小さなお山があったとさ あったとさ」で始まる歌で、小さな杉の子がお日さまに起こされて、椎の木よりも大きく育って立派に役に立つようになる、という歌だ。戦中に作られたときの歌詞には「国のため」とか「兵隊さん」という言葉もあり、戦後はその部分が「皆のため」などと改変されて、全国の植樹祭に歌われたという。
戦後の復興期から杉の植林はどんどん進み、国からの補助が出たため、そのあともずっと私有地に杉を植え続ける人も多かった。
子供のころ、春になると “杉オッタテ”に行くぞ、と父や祖父母に連れられて近くの山に行ったものだ。雪が積もって曲がってしまった杉苗を起こして縄で結わえてまっすぐにするという作業だ。子供の私はそこらへんで花摘みをして遊んでいただけだったが、林業家でもない勤め人の実家でさえそうやって杉を植えていたのだから、なるほど奥会津も杉林だらけになったわけである。
それほど皆が熱心に植林した杉の木だが、その多くは現在伐期を迎えていてもなかなか活用が進んでいない。理由はいろいろあるが、まず何といっても、植えただけで手入れがされていない杉林が多すぎることだ。よい杉材として活用するためには、真直ぐで枝下が長く、なるべく節が少ないという条件を満たしていないとならない。そういう杉を育てるためには、除伐、間伐、枝打ちという手入れが必要となるわけだが、苗は補助金で手に入っても手入れするところまでの補助金はなかった。そして追い打ちをかけたのが昭和三十五年の木材貿易自由化で丸太の関税が撤廃され、それ以降国産材は安い輸入材に押されてしまって現在に至っている。これ以降の林業の衰退は、貿易の自由化が国内産業を弱体化するに至った典型的な例だと思う。

このように、林業という仕事は決して楽な状況下にはないけれど、山林を維持し暮らしの安全を守っていくためになくてはならない重要な仕事で、そこに誇りをもってやっている。
杉林を間伐するときに親方である夫がよく言うのが「この杉林が、この後百年、あるいは二百年たった時に、どのような林になっていてほしいかを想像して、手入れしていかなくてはならない。」ということだ。初めて聞いたとき、私にとってそれはあまりにも遠い先のことで想像などできなかった。しかし、木とかかわるということは、そういう時間のスパンを生きることなのだと納得した。もちろん、百年後、この地域にどのような風景が残っているのかを、我々は生きて目にすることはないのだけれど。
(会津嶺7月号より転載)