鮭立摩崖仏 比定された尊像名 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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鮭立摩崖仏 比定された尊像名 NEW

2025.07.15

遠藤 由美子(えんどうゆみこ)

 金山町、鮭立集落の山裾に、会津に只一ヵ所の磨崖仏群が鎮座する。
 長閑な集落の背後、緑為す田畑の中に、ポッカリと置き忘れられたような小高い岩山があり、今は全体が鞘堂に覆われている。
 折れた帯のように横長に穿たれた‟ゆう“の壁面には、大小五十一体の磨崖仏が刻まれていて、田園の中に突如として曼陀羅の世界が現成したかのようだ。
 風化して磨耗した像はあどけないほどにおぼろで、彩色されていた名残の朱が、わずかに残る。少し欠けた湯呑茶碗と供物を載せるらしい小さな皿が、今も人々の祈りが捧げられていることを物語っていた。
 この磨崖仏を知ったのは三十数年前、著者の名前がどこにも記されていない一冊の本に出合った時だった。
『鮭立磨崖仏』。発行は金山町山入近隣会。調査をされたのは、今は故人となられた金山町松前寺の前住職・今井亮修師の、積年の労苦に成る貴重な写真集である。
 輪郭も定かではない仏たちが、どんな役目を負った尊像なのか、消え行く寸前の一体一体について考証を極め、比定し、慎ましやかに解説をされている。消えたノミ跡を追いかけ、彫り続けた修験者の心を辿り、何年もかけて人知れず仏たちと語り合われた姿が見えるようだ。
 柔らかな岩に、半ば眠りかけてもの言わぬ仏たちは、確実に風化していく。
 讃とも呼ぶべき解説からは、今、遺しておかなければ、という師の悲願が響いてくる。この敬虔な姿勢は、相次ぐ災難とその惨状から民衆を救おうと、修験者の法印宥尊から法印賢誉まで、二代に亘って岸壁に尊像を彫ったと伝わる壮絶な覚悟にも思いを繋げておられたからではなかったか。
 配置された仏たちの役目を確かめながらも、今井師の眼は、刻んだ二人の修験者が見た惨状と、村人の祈りの心情に注がれている。手のひらほどの小さな仏像から、大きくても五、六十センチの仏像まで、鮮明な表情を残しているものは少ないが、のびやかで和やかな空気を纏っている。
 曼荼羅の中心に位置するのは、そこだけ特異な彫りが施された不動明王のようだ。火炎が透かし彫りされた中に、宝剣を持った不動明王が立つ。炎は像の光背にではなく、まさしく全身を包み込むように像の前面で燃え盛っている。炎の中には、迦楼羅(かるら)という竜を食らうといわれる伝説の巨鳥が現れる。
 火炎と像の間に広がる不思議な空間は、無限の宇宙を象徴しているようにも、犯しがたい時の貯蔵庫のようにも思えた。
 鮭立に磨崖仏が彫られたのは、天明・天保の飢饉の頃だったという。民衆の救済を願って刻まれた磨崖仏は人々の拠り所となり、やがて、流行り病の麻疹(ましん)やしょう紅熱を治してくれる「ほろしの神様」ともなって、長く信仰を集めてきた。
麻疹などにかかると豆腐半丁を供えて平癒を祈願し、治れば更に半丁の豆腐を供えてお礼参りをしたという。
 観音菩薩、深沙大将、九頭竜権現、飯繩(いづな)権現など、現世利益を強く願って刻まれた仏たちが、今も集落を見下ろしている。

「月刊会津嶺 2025年7月号より転載