子どものころの川との記憶を訪ねて (20)資料編2 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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子どものころの川との記憶を訪ねて (20)資料編2 NEW

2026.04.01

菅家 博昭(かんけひろあき)

 芳賀英一さんより教示された資料を福島県立図書館で3部を閲覧した。
・『福島県内水面漁業実態調査書』昭和26年度 昭和27年5月 150ページ 福島県経済部水産課 1951
・『只見川水系漁業実態調査報告 第2報』昭和29年3月 419ページ 福島県経済部水産課 1954
・『只見川水系漁業実態調査報告 第3報』昭和30年3月 43ページ、福島県経済部水産課 1955

 この『第2報』1954年の22ページ
 定置漁業権の多くは梁(やな)で明治後期から大正中期にかけて設定され、主として集落の権利として入札が行われ個人または数人の共同によって営まれてきた。たとえば滝谷では 畑平2ヶ所、上ノ館、下ノ館、下蒔沢各1ヶ所計5ヶ所に慣行による梁があって毎年入札によって漁業専業者または小農が参加し、遡河性マス及びアユを捕獲して極めて有利にこれを経営し、また入札金は集落費の約1/3をまかなうことができたという。
 しかし阿賀野川下流に鹿瀬(昭和3年)、豊実(昭和4年)の発電所が建設されるに及んで、その魚道があっても余り効果がなく遡河性マスの漁獲はなくなり、電源会社及び県によって行われた放流アユを昭和11年頃まで捕獲していた。

 檜枝岐村では、大正10年に木賊沢、大津岐、片貝沢、袖沢の4ヶ所に梁を設定し、檜枝岐村の村内開墾移民の生活補助対策として、イワナ、マス等を捕獲させた。これらの梁は6尺×8尺くらいの小さな規模で沢を堰き止めるものであったが、海産魚の全く入らぬ山村では唯一の鮮魚供給源として充分なものであった。ここでは漁業権の免許料(手続経費)等一切が村が負担した。漁業またはマスの漁獲がなくなってからも存続し、昭和15年には更新したが、5年後に消滅している。
 このように、定置漁業権の果たしてきた社会的な役割は大きかったが、これが遡河性魚類を対象としていたことは、商品生産を主な目的とした地方において、漁獲の減少による経営が次第に困難が次第に顕著となり、ついに下流の発電所設置によって多くは期限満了とともに消滅していった。
 区画漁業権は、奥地の山間部である尾瀬沼及び伊北村田子倉(現只見村)に設定されたが、これは組合設立の困難な地域の河川において個人に専用漁業権的排他権を与えようとするものであったと思われる。河川では組合による放流事業が行われるようになって、また沼沢沼ではその後しばらくたって組合に専用漁協権が認可されたが、河川の一部には漁業権の設定をみない場所もあった。しかし河川では一般に漁獲高の減少とともに個人による企業的生産から組合管理による個人の生計補充的または遊漁的探捕へ次第に移行してきた。そして今次の漁業制度改革においては組合に共同漁業権が免許され、特に第5種には放流事業が義務付けられるに及んで、河川漁業の公共性は極めて強いものとなった。

 第二報63ページに檜枝岐村の漁業について記載があるので紹介する。昭和28年の調査である。
 檜枝岐村における漁業は、檜枝岐川をはじめ只見川本流及び尾瀬沼ならびに深山に源を発する数多の沢で古くから行われていた。釣りは3月中旬より4月末までミミズをエサとしてイワナをとり、5月から10月までは(6月より8月までが盛期)毛針(鶏羽毛)によってヤマベ、マス、イワナをとった。
 マスはヤスによっても、またイワナとともに小規模な秋の下り梁(やな)によっても捕獲された。ウケも用いられイワナ、ヤマベが主にとれた。既述のように大正10年に定置漁業権が設置された意義は移住民の動物蛋白給源にあったが、昭和3年に下流の発電所ができて2~3年後マスが全く河川より姿を消すまでは、土地をもたぬ全くの漁業事業から3反くらいまでの耕作を行う副業者(5~10人)をはじめ、村の約90戸の世帯がヤマベ釣りその他を行って生計を補充していた。
 この河川ではマスが上流まで遡河していたためヤマベが完全にランド・ロックされておらず、マスの遡上が絶えるとヤマベもいなくなり、それまでは限られた場所ではあったが技能に関係なく漁獲できたのが、それ以降は技能をもつもののみがイワナ釣りを続けてきた。
 しかし昭和17年に南会西部漁業会へ入るまでは全くの自由操業で、イワナの棲む沢は個人が管理し、滝によって隔てられている沢や洪水により魚の流された後の沢へは篤志家がなみなみならぬ苦労をしてイワナの稚魚を移植していた。漁業に参加するものが組合に加入して漁業権を取得した後は、他村からの密漁を防ぐため在郷軍人会及び青年団が監視にあたったが、放流を行えないので負担金も少なく、組合の機能からは全く遊離されてした。漁業会は昭和20年終戦とともに解散されたが、その後昭和26年までは空白時代として過ぎ、密漁、毒流し等が行われた。監視組織を改め、村の力として河川管理を全うするため、村民のなかから女家族及び最下層のものを除いてすべての加入をはかって(少人数では経営できぬので)、昭和26年10月5日に組合を設立し、昭和27年10月より檜枝岐川、尾瀬沼、大津岐川等に共同漁業権を取得して、伊北、朝日、舘岩等の他村から入っての濫獲する者を排除し禁漁区設定等による新しい河川管理の体系を確立した。