武藤 弘毅(むとうこうき)
木の文化を想う(奥会津の風土と杉・五葉松)
人々が身近に木々を利用する山が近くにあってこそ、木の文化が醸成されるのだろう。日本列島は木がよく茂る国土であり、世界に冠たる木の国である。特に福島県の西部、新潟県と越後山脈を隔てて隣り合う「奥会津」と呼ばれる地は、航空写真を見ても圧倒的に縁が濃い。そこに住む人は深い山々に囲まれ少ない平坦地に身を寄せ合い、木々を適材適所に利用しながら生活してきた。木材利用が生活文化の基層を成してきたともいえる。木々に囲まれた生活はいくつもの時代を超え、山野利用の風習や多種多様な森林資源を活用する技術を体得してきたが、近代の産業・流通構造の変容により山や森で培われた技術が生活の表舞台から消えようとしている。かつての盛んであった木に関わる産業は、プラスチック等の木の代替え素材に置き変わった影響でその多くが衰退し、木の温もりを感じる機会と耳に心地よい木を加工する音が暮らしから消えていった。
奥会津の林業は降雪を伴う過酷な長い冬、急傾斜地の作業環境など、材の品質管理に難があるところもあり、多様な営林方法や流通経路が発達した林業の適地と比べると生産効率という点において及ばない。かつては地域の基幹産業であった木に関わる仕事が過去の隆盛を取り戻すことはむずかしい。しかし、いにしえより無尽蔵の森林資源を用いて築かれた木に関する知恵と技の結晶は、今でも当時の生活を支えた小屋や建物(板倉・蒸籠倉)、木製品(和舟・木端屋根等)などに見ることができ、その合理的で美しい形は我々を魅了する。

なぜこのような深い木の文化が、この地域に根付いたのだろう。奥会津は膨大な樹木の量だけでなく木の文化を育む風土があった。この風土を形成する特に大事な要素とは、用材となる樹木の生育環境をつくり、流通を支えた「雪」と「川」であった。奥会津では多様な樹種を材として利用したが、その中で板倉や蒸籠倉(井倉)に多く利用された、杉と五葉松に焦点を当てて、雪と川という奥会津を代表する風土的特性がどのように生育環境を育み用材の生産と供給に寄与したかを紹介したい。
雪
奥会津は世界有数の豪雪地帯として知られている。日本海側に多く雪を降らせるメカニズムは、南の海から流れてくる暖かい海流が日本海を北上するとき、海面から水蒸気を大量に放出し、冬季に吹く大陸からの冷たい偏西風(西風)にさらされる。その気流が山脈に達し、山を超える際に気流が上昇することで雪雲ができる。この雪雲が上空に流れる強烈な寒波にさらされると雪となる。雪が木々にもたらす生育環境への変化、あるいは産業に対する影響は実に多様だ。特に杉や五葉松に対しては、冬に降り積もった雪はやがて春先に溶け出し、雪解け水としてゆっくりと流れ地面を少しずつ潤していくことが関係している。
本来天然杉はシトシトと地面を伝う水分を好み緩やかに成長するそうだ。春先に決まって同じ場所でおこる雪崩は、山肌を雪が滑り落ちる際に肥沃な土壌も一緒にさらっていってしまい、その効果によって表土の薄い「雪食地形」を形成する。土壌の水分と栄養が豊かな地にはブナなどの広葉樹が群生するが、雪食地形のような他の樹種が生育しづらい痩せた場所には天然杉や五葉松が成長する。

秋田、山形、立山など、日本海側の主だった杉の天然林の群生地が点在するが、他の杉の天然林として著名な地域と同様に、奥会津もまた天然杉の産地であったことは、同じ豪雪地帯であることに由来する。それらの尾根沿いに生育している天然杉を奥会津では「山杉」と呼び戦中戦後に盛んに植林された成長の早い杉と区別し、その材に付加価値をつけた。山杉の特徴としては植林された杉に比べ美しい(年輪の緻密性、木理の通直性、赤身の均質性に優位)その代表的な存在であるブランドの本名杉は良材を産出する杉の天然林として古くから知られ、江戸時代の末期(屋根葺木端材)、あるいは昭和の初期(建材・板材)に材を生産するため大規根に伐採され、現在はあまり残されていない。

川
奥会津を舞台とした木材の流通を考えるとき、雪と共に川の存在が大事である。木の流通は雪を用いて地面を滑らせ、沢沿いを引っ張り、川に浮かばせて遠方の消費地へと運ばれた。これらの材は奥会津方々の流域から集められ、当時日本において人口の面で最大規模の都市であった新潟の川湊へ筏(いかだ)に組まれて流送された。奥会津を流れる川は越後山脈によって流れが遮られているため、大小の山々を縫うように蛇行を繰り返しながら流れる。
やがて本流の只見川から阿賀野川に接続され日本海へ流れ入るが、その上流にある山々の尾根筋には無数の沢が存在する。伐採された用木は、深山から春先に堅雪の上を滑らせ沢に流される。川沿いの雪食地形に自生していた杉や五葉松は、切り立った斜面から直接、水深が深く流れの緩やかな川の溜まりに材を落として運んだ。沢から本流に至り、川の流れの緩やか場所では、筏組の職人によって材が組まれ(奥会津では筏を組むことを「筏をかく」という)新湯などの川下(消費地)へ流した。

明治45年の木材の生産・流通の詳細を確認できる「伊南木材共同組木材買入帳」という帳簿が残されている。この資料によると、奥会津から産出された木材の割合は、五葉松が52.4%、次いで杉が28.7%、朴木が11.1%、赤松が6.4%、ケヤキが0.1%(以下雑木)であった。五葉松の割合が特に多いのは、奥会津が五葉松の群生地があったことに加え、幹がまっすぐで扱いやすく、材の強度と合わせて加工性において秀でていたこと、さらには木の成分に油分を多く含むことが流通に寄与した。
筏による流送の際や杣(そま)角(かく)としてマサカリによって山で製材された用材の運搬時において、木口やはつり面からの水分の吸収は材の損傷リスクとなり五葉松材の適度な油分と硬さが流通の過程で生じる材の劣化を防いだ。例えば現存する板倉・蒸篭倉で有名な奥会津西部の桧枝岐村で使用された木材に五葉松材が使われた背景は、地域に杉の立ち木が少なかっただけではなく、五葉松が扱いやすい材だったということも理由の一つとして挙げられる。
只見川を舞台とした筏による流送は水力発電所のダム建段によって終焉を迎え、昭和初期に一大ブームとなった杉の大規模植林が行われた以降は、五葉松の需要も減り杉の時代となった。
以上奥会津の木の文化が生まれた風土について述べた。
参考文献
・遠山富大郎「杉のきた道 -日本人の暮らしを支えて-」
・只見川電源流域振興協議会「奥会津の流送文化-明治40年代から昭和20年代を中心に-」「奥会津の川 筏をかく-奥会津の川を下った筏を造る-」