子どものころの川との記憶を訪ねて(16) | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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子どものころの川との記憶を訪ねて(16) NEW

2026.01.15

菅家 博昭(かんけひろあき)

野尻川 昭和村野尻 小林弥吉さん

 2025年3月31日、午前9時。野尻川の右岸、中向地区の並びの野尻の小林弥吉さん(昭和23年生)に話を聞いた。大きな村落の野尻中心部は左岸にある。
 弥吉さんは、小さいころ、野尻のツネイチ君(常一さん、昭和21年生)の家の後ろ、「オセンドブチ」で水浴びをしたという。7月、水遊びしてよいとなれば学校から家に帰ってカバン(ランドセル)を置いて、オセンドブチに向かった。みんな集まって水浴びした。上流にはシシイワと呼ぶ場所もあった。オセンドブチで体が冷えると大きな岩や石の上に乗って体を温めた(註)。
 サカナ取る人は、一年中川を観察している。枯れ木が川端にあるとか、サカナが付く場所を見ている。小学4年ころから5本刃のヤスでアユを突いた。野尻川の下流に途中沢(近世文献では栃尾沢)が合わさる近くに、ナガトロっていう場所があって、「ガンカラ」をやった。4歳年上の人と秋口の9月から11月上旬までやってサカナ、ハヤをとった。丸い缶の上に、麻布をかぶせる。その中心に入口を作る。設置は上流側の角に枕石というものを置いて、エサの出方の水流調整をした。エサは米糠(こぬか)を練って固めたもので、中心の口から徐々に流出するように設定していた。夜に雨が降り増水するようなときはガンカラを引き上げてくる。そうしないと仕掛けが流される。小学4年から6年ころまで夢中でやった。途中沢には大きな沢ガニもいた。
 「エイショウ」をやる人はサカナとりが上手な人だ。中向だとトミイチさん、野尻のヤマツの源三郎さん、野尻徳林寺の玄牛和尚も上手だった。寺のシモの堰で玄牛和尚はやっていた。雪を入れて冬にとる場合は秋から良い場所を探しておく。投網をやる人もいた。下流の玉梨では簗場があった。許可制だから、野尻でもヤマツのコウバの下、中向の関根の上で簗場を設置して落ち鮎をとった。
 夜のサカナとりは禁止されていた。松山の白沢に手づかみでイワナとりに行ったこともある。石の下のキシに潜んでいる。素手でつかみ取ることを「ネジリ」と言った。
 自分の父の数弥(明治42年生)は野尻郵便局の宿直終わってから、アユの投網作りをしていた。昔、村中の畑で作っていたアサから繊維を取り、糸にしていた。その糸を編む。そして強化・腐蝕防止のため柿渋に浸ける。原料のマメガキはどこにでも植えてあった。柿渋は和紙にも塗って防水加工した。下中津川新田の平喜さんは柿渋のとりかたもよく知っていた。
 カジカツキは、解禁日があった。箱メガネ(ガラス箱とも)で水中を見てヤスで突いた。とったカジカは腰に付けたハケゴに入れる。逃げないよう、ハケゴには手ぬぐいでふたをした。
 ドジョウツキは青木良一さんがよくやっていた。梅雨のころ、田の上堀でのドジョウトリは、仕掛けを6、7個設置した。1個に50ヒキも入った。エサは入れない。ただカイコの繭の中のサナギを入れた人もいる。
 川の小さなザッコ(雑魚)は浅いところにいるサカナで、年寄りがとったものだ。
 マスを突いた話は、小林蔵田爺(元村長)がよく言っていた。のぼってくるマスを寺の下の橋の上で待っていて長い柄のヤスで突いてとった。
 ここは良いところだ。昔は遊んでばっかりいたな。人間らしく生きるには昭和村は最高の場所だと思うよ。今年は雪が深かったから春が楽しみだ。

(註)須田雅子『奥会津昭和村 百年の昔語り 青木梅之助さんの聞き書きより』(会津若松・歴史春秋社、2021年)は、野尻の暮らしが詳述されている。23ページから「おせんどう淵」について100歳の梅之助さん(大正10年生)の思い出が語られる。常一さんも25ページに紹介されている。