菅家 博昭(かんけひろあき)

野尻川 昭和村野尻 菅家友雄さん、和歌子さん

2025年3月14日、昭和村佐倉のからむし織の里で開催された織姫作品展に行くと、古い1本のマスツキヤスが壁に吊り下げられ、そこに作品のドライフラワーが下げられていた。ヤスの長さを測ってみると216cmあり、うち鉄の刺突部は5本にわかれ長さ22cm・幅10cmあった。
偶然に展示用の長い棒が必要ということで織姫の皆さんが選び、これを使用したのだという。村びとが会場の作品を見るために集まっており、この長いヤスを見ていて、次のような話をされている方がいた。「マス捕りヤス、各家庭でみんな(誰もが)持っていた。村の鍛冶屋が作った」。
私は、この男性は知っていた。昭和村の野尻で、からむし畑の刈り取り、からむし剥ぎをされている菅家友雄さん(昭和15年生)である。2024年の夏、昭和村公民館の昭和学講座で野尻を歩いた際に、もとの学校跡地での作業をされているのも見ていた。野尻にある旧体育館で、からむし引きが行われている。友雄さんが剥いだからむしは流水に浸けてあった。
翌朝、野尻の友雄さん宅に電話をした。マストリヤスの話を聞きたいという用件を伝え、その日の午前10時に訪問することにした。友雄さんは「そんなの誰でも知っている話で自分でなくとも」と遠慮されたが、作品展で聞いた話に縁を感じ、お願いした。聞き取り調査は、偶然の出会いや、その流れに沿って動いていくことが大切だといつも思っている。同時代に生きて暮らしている人々の体験や、聞いてきた内容を、いま記録することにとても意味がある。語るほうも聞くほうも専門家である必要はなく、生活体験と同時代の記録こそが100年後に必要なものになるものだ。
奥会津ミュージアムで館長を務められた赤坂憲雄さんは、「自分のことを書かずに、まわりで生きているひとたちの生活体験を聞いて、編集し、記録に残してください」とよく語る。そして「聞く人の能力が問われ、編集しまとめるにも能力が問われます。自分を活かすのはそのところです」とも。
我が自宅の大岐から喰丸トンネルを通り、野尻川流域を北・下流に向かった。30分ほどで野尻に着いた。参考までに滝谷川上流にある大岐は川の左岸にあり、本村の小野川は右岸にある。昭和村では、南の山塊から北に開けた谷の日当たりのよい右岸に、自然村は発生している。野尻川沿いも同じである。左岸にある村は、開発が遅く中世からの村が多い。野尻も左岸の湿地帯を中世領主の山ノ内家一党が開拓している。下中津川新田も左岸で江戸時代の新田開発による集落である。
いわゆる野尻組の南端の両原と北端の松山は野尻川の両岸に家を配置している。
中向から野尻川の橋を渡った左岸のすぐに友雄さん宅はある。玄関には鉢植えの花があった。居間に通され、こたつの右の横座には友雄さんが座り、左側・向かい側には奥様の和歌子さんが座る。こたつの上に、揚げたてのふくらしもちが出されていた。朝の電話後に準備されたと思われた。和歌子さんが中向の人から教わった作り方でやっているという。もち米に里芋、生卵、砂糖、重曹、油を入れこねるが、ゴマを入れることでゴマが均一に素材が混ざったかどうかを見る目安になるのだという。ふくらしもちは低温の油に入れて加熱しながら揚げていくので、1枚1枚と、時間がかかる。いただくとたいへん風味よく軽い歯ざわりでおいしかった。
友雄さんは生まれ育った喰丸の川・野尻川上流の村中の特定の場所が水浴び場になっていた、という。小学生の夏休みは、毎日、その水浴び場ですごした。もぐって魚も捕った。イワナを捕ったり、カジカを捕ったり、たのしみだった。
結婚で野尻に来たが、マストリヤスはどの家にもあった。しかしマスが来なくなって使い道が無くなり「必要が無いからと皆、出しちまったな」という。ヤスは地元の鍛冶屋が作ったものだ。ここ野尻にも鍛治屋はいた。2m以上ある長いヤスは、川のなかの石の上に立って、川の深いところを泳ぐ大きなマスを突いて捕った。昔はマスはいっぱいいたらしい。
ウグイ捕り、エイショウは、特定の人がやっていた。野尻に来た頃、野尻川にも組合(漁協)が出来て、川漁は制限され厳しくなって簡単にやれなくなった。エイショウも特定の人が許可をもらってやっていた。それまでやたらと川に入って魚捕っていたことができなくなった。
アカハラという魚は野尻ではいっぱいとれた。ほとんどは自分たちで食べたり、近所の家に分けてあげたりして無くなった。また昔は旅館などもあったから、そういうところにアカハラを売ったりした人もいた。
アカハラは紅白で色が良いから、祝い事の膳には必ず出したものだ。祝言(しゅうげん、婚礼)でもアカハラは付きもので出した。北海道に転出したからむし工芸博物館の松尾さんが、祝言の膳のことで話を聞きにきたこともあった(註1)。
和歌子さんは昭和44年(1969)8月12日の水害のことを語られた。(註2)
あの日は、とうちゃんが仕事に行って留守で私は去年還暦になった息子をおぶって、家の年寄りたちとオオミズ(大水)にのまれた家からはしごで2階から出て、小島屋前の橋がまだ流されずにあったのでそれを渡り対岸に逃げた。いまでも思い出すとざわざわする。あのオオミズで家の帯戸(おびど)も流された。家具も何もかもぬれた。婚礼の時に撮影した写真を納めた写真帳、アルバムも水にぬれて、写真がくっついて(融着して)はがせなくなった。それで処分したんだよ。あの時の記録がなにもかも無くなってしまったのが、オオミズ災害でのいちばんの後悔。オオミズはもうやだ。10年ほどまえもオオミズになるって役場から指示され、野尻は徳林寺に避難し対岸の橋本付近は中向(なかむかい)公民館やしらかば荘に避難した。
昭和44年のオオミズの時、黒い水がカミ(上流)から津波のように流れてきた。家の中は1mの高さまで水につかり、その水が引くとヨナ(砂)がたまった。8月13日には会津高田などから消防団員が来て災害復旧をした。
(註1)『昭和村の婚礼料理調査及び再現報告書』(昭和村民俗文化交流事業実行委員会、2022年)
註2)『昭和村の歴史』(昭和村役場、1973年)172ページ。『昭和村のあゆみ』(昭和村のあゆみ編纂委員会、奥会津書房、2011年)135ページ。