菅家 博昭(かんけひろあき)
会津美里町(新鶴村)大谷地 菊地敏雄さん
2025年5月4日、大沼郡会津美里町新鶴地区でかすみ草栽培をされている菊地敏雄さん(昭和26年生)のビニールハウスで、話を聞いた。
ある育種会社の現地試験をされており、植物の見立ての力がある。時折訪ねては、話を聞く。

出身地の大谷地(標高670m)は、佐賀瀬川の上平川の源流で、西に高尾嶺(869m)がありその先が河沼郡柳津町久保田、北には軽井沢銀山がある。南は蛇喰、明神ヶ岳(1074m)で、炭焼きで仁王に搬出していた時代もあった。文化圏は柳津・高田である。

この大谷地に、江戸時代の文化6年(1809)から14年にかけ、土堤が造成され稲作の灌漑の溜め池となり、集落は第1次の移転をしている。昭和27年(1952)全戸焼失、昭和30年(1955)の堤決壊事故などがあり、昭和50年(1975)第2次の集落移転により廃村となっている。平成16年(2004)に新宮川ダム完成による灌漑路新設で、溜め池の補償が行われた(註1)(註2)。
菊地敏雄さんの少年時代、昭和30年代の様子を聞いた。
夏休みは、大谷地溜め池の2ヶ所で川遊びをした。大谷地堤の下が、子どもが遊んで良い場所だった。堤の中では、泳いだり遊んだりすることは禁止されていた。溜め池は長さが120mで、周囲は600m~700mの大きさがあった。小学1年生から23歳くらいまで泳いだ。
堤の下は川に石を並べて、使わなくなった古いムシロやコモを持ち寄ってせき止めていた。15人ほどの子どもがいた。
堤の中には入らないこと、水遊びも堤の中ではやってはいけないとされ、遊泳禁止だった。しかし、高学年・中学生になるころ、堤の中を泳いで120mを往復できないと一人前の子どもとして認められなかった。実際に堤下の水遊びは女子、堤の中は男子という具合だった。
サカナトリは、5cmほどのゴリを溜め池で釣った。3mの篠竹を伐ってきて、5本20円の木綿糸に10cmのテグス付きの仕掛けを付けて釣り竿にした。エサはミミズ。ゴリは臭くてあまり食わないが、食うこともあった。干したものは味噌汁の具になった。イワナはいない。いまは放流によりヤマメ・イワナはいるが、昔は堤下に魚は棲まなかった。
ゴリは、ゴリカジカとも言って、黒い色のヨシノボリとの中間の型で5系統ほどいる。
5cmほどのエビやドジョウもいて、これらは食った。
江戸時代から堤ではコイの養殖が行われていた。この出資には、稚魚1貫目を1株として、毎年30株集まっていた。一人1~3株持った。稚魚は会津坂下の牛沢や新鶴の立行事から買って放流した。桶に入れ天秤棒で担いで大谷地堤までは13kmほどあり、たいへんな労力が要った。水を引く権利を持っている大農(オヤカッツアマ・肝煎ら)が稚魚を放流し、秋、210日の堤干しの時に収穫した。「210日のコイ上げ」と言った。秋の収穫時の総貫目数の2割は地元大谷地がもらう決まりであった。当時大谷地は5軒だったので、それを5軒で分けた。家周りにコイを飼う池があり、正月には「アカサカナ(新巻サケ)」を買うので、それまではコイで食いつなぐ。
こうした大農らが計画して江戸時代に出来た堤には、代表者3人で堤守人を置いた。
(註1)『新鶴村史「ふるさと新鶴村」』(新鶴村、2005年)216ページ。
(註2)大谷地堤の決壊については山口弥一郎『奥州会津新鶴村誌』(新鶴村、1959年)159ページ。