子どものころの川との記憶を訪ねて(3)湯ノ岐川 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

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子どものころの川との記憶を訪ねて(3)湯ノ岐川 NEW

2025.07.15

菅家 博昭(かんけひろあき)

(3)湯ノ岐川 南会津町舘岩地区水引 橘一明さん

 2025年4月2日、奥会津博物館に、館長として着任されたばかりの橘一明さん(昭和44年生)を訪ねた。橘さんは、舘岩地区の水引生まれで、川との暮らしを伺った。
 伊南川から上流の舘岩川へ、その支流の湯ノ岐川上流端に水引集落があり、茅葺家屋が有名な場所になっている。

 橘さんは語る。
「水引集落の東側には、田代山から湯ノ岐川が流れている。その本流には砂防ダムがあって、その砂防ダムから上流部で川遊びをした。小学生になってからの夏休みは「がんきょう(眼鏡)」を着用して、先端が3つに分かれたヤスを持ってサカナトリをした」
「黒っぽいイワナや、体側の斑点が大きく、ふっくらした美しいヤマメを捕った。食べてはヤマメがおいしい」
「一人では川には出かけない。同級生や弟、その友人という4、5人で行った」
「水浴び場にはフカバ(深い場所)があって、飛び込んで遊んだ。寒くてくちびるが青くなると、大きな石の上で体を温めた。水引集落の前の川は源流なので水が冷たかった」
「台風のたびに増水して川の流れは変化した」

 2025年4月29日、茅葺集落のある水引に行ってみたいという父・清一(昭和7年生)と弟も同乗して、再び水引集落を訪ねた。自宅のある昭和村大岐から喰丸峠、船鼻峠、会津田島街路から南に向かい、中山峠のトンネルを過ぎると、広葉樹の山麓には山桜がたくさん咲いていた。舘岩地区の役場所在地から左折して、湯ノ岐川に沿って水引まで約70km。
 橘さんから教えられた集落入り口近くにある大きな砂防ダムは、雪どけ水を集めて堰堤から水しぶきを上げている。墓地が近くにあった。集落内の家屋の並びにも墓地がある。
 集落入り口の諸沢に橋があり、旧道には木橋が架けてある。この沢の右岸に神社があり、参道の石段、鳥居も旧道から登るように設計してある。もう少し山際に神社は位置することが多いのだが、何か理由があるのだろう。中世の館跡が立地するような位置にあるので、廃絶後、山際から神社を移転させたのかもしれない。
 昭和村の小中津川の気多神社は、まさにそうで、土塁をまわし、堰を抱えた中世の館跡だったところに、尾根部にあった社を移転している。中世の意味ある聖地には一般の人々は住まわず、公共施設である神社・寺等を置く場合が多い。
 水引には茅葺きの家屋が7棟あるが、1棟の南側屋根が今年の大雪で破損していた。桜が美しかった。集落の畑では、蕎麦を栽培している痕跡が見られた。

 会津藩が編纂した『新編会津風土記』を概訳すれば、以下の通り。

 <<水引村 家数十五軒、山中に住し、東に水引川あり。水源三あり、ひとつは田代山より伯母又沢、大毛無山の中島田というところより新道沢、この2水と田代瀬沢というところより出る渓水と日詰滝(高二丈余、約六m)で合わせ水引川となる。水引村の境内より来たり渡沢を得て北に流れ湯岐川となる。水引村の山神社、村の戊亥(北西)の方にあり、鳥居有り、村民の持なり。>>

 『舘岩村史第3巻』(1995年)によれば、水引には遺跡があることになっていると福島県の遺跡台帳に記載がある。しかし本件執筆者の周東一也氏によれば、「正確には遺跡として把握できていない」としている。刷毛目文の弥生土器が出土したというが、持ち込まれ捨てられた土砂のなかから出た破片1点ということで、断定できないとまとめている(417ページ)。