6月30日、フォーラム福島シアターにて、民族文化映像研究所『越後奥三面 山に生かされた日々』の上映会がありました。ダムに沈んだ「奥三面」の暮らしを丸ごと残そうとした、記録映画の金字塔ともいわれる作品です。上映後には、民族文化映像研究所理事、姫田蘭氏とフォーラム福島総支配人、阿部泰宏氏のトークショーも行われました。他ブログで紹介されたその内容を、許可を得て再掲します。
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【話し手】
・民族文化映像研究所理事 姫田 蘭
・フォーラム福島総支配人 阿部 泰宏
・記録:小林 茂
(注:簡単な脚注を文中※印の後に適宜配し音声不明瞭のところは伏せ字○○とした)
◆姫田蘭 ご覧いただきまして本当にありがたく思っております。
◆阿部泰宏 僕もこの映画は本当に上映したくてしたくてしょうがなくて30年かかってるんです。
そういう意味でちょっとこの30分の間、もうすごく、ちょっと感傷的になったりしてるもんですから、話がうまくまとめられなくて。ましてや、息子さんの蘭さんに来ていただけると思っていなかったので、本当に自分にとってもこれは忘れられない日になったというふうに思っているんですが。姫田さんがこういう生き方をされるようになったきっかけですね。
姫田忠義という存在を、いかなる人物だったのかということを、すごく興味を抱かざるを得ない、この映画をみてしまってですね。
蘭さんからみて、お父さんというのはどういう存在だったのか、そして忠義さんがなぜこういう道を歩まれたのかというところを、なかなか短時間でご説明いただくのが難しいかもしれないんですけど、ご紹介いただければなと思っております。
◆姫田 ありがとうございます。姫田忠義は昭和で言いますと昭和3年に生まれました、1928年ですね。神戸で生まれました。
姫田家は非常に貧乏なうちだったんですが、でも都会ですね。昭和の初期とはいえ、やはり神戸という、いろいろ文化が入るまちで育ってきたので、農村とか農山村・漁村で育った人間ではないので、逆にこういう世界に、自分の神戸の因習が嫌だとかっていうことは一度もなかったと思います。喜んでこういうふうに、こういうところに興味を持ったと思うんですが。
姫田は16歳。旧制中学四年生で入隊しました。海軍の少年飛行兵いわゆる予科練ですね。予科練で入隊して高知の航空隊で終戦を迎えました。航空隊といっても一度も飛行機に乗れず、松の木から油を取り、穴を掘って上陸に備えていたという、そういうような少年時代で。
それからですね神戸高商、いま神戸大学っていう名前ですけど、旧神戸高商を卒業しまして、住友金属という割と大手の本社に勤めまして、そこで演劇に出会ってしまうんですね。
その昭和20年代というのは、職場で労働演劇っていうのはものすごく盛んだった時代で、そこで、なぜか無縁だった演劇に目覚めて、で仕事を辞めてですね。昭和29年、1954年に東京に出てくるんです。
演劇の劇団に入るんですけど、演出部っていうところに入るんですが、ものすごい速さでまあ挫折するんです。演劇が嫌いになるんですね。
というのは、上京してきた29年に宮本常一さんという―うちでは宮本先生と呼んでいますが―のちには民俗学者として、あのご存知の方も今多いと思うんですけど、当時は民俗研究家。全国離島振興協議会の初代事務局長をなさってましたけど、それに出会うんです。
で一日にして、「この人は僕の師匠だ」と思ってたらしいんですね。そこから昭和29年、宮本先生の話を聞くにつれ、興味がそっちに。
ただ生きていかなきゃいけないので、当時、始まりましたテレビ業界、「チロリン村とくるみの木」という、その人形劇が、まあ知ってる世代もいらっしゃるようですけど、その演出を3年やりまして。でももう毎日のことだったのであのやってられなかったらしいです。
それでやめて、いろいろ教育テレビのシナリオ放送作家ですね、今でいう。シナリオライターとして生活しています。だからまだここでも映画には無縁なんですね。
であの今、ドキュメンタリー映画監督って言う方いらっしゃると思うんですけど、実は民映研作品119本でいわゆる姫田忠義監督作品一作もない。で、監督とは名乗ってないんですね。
今日ご覧頂きました、エンドロールずらっと名前が書いてある。スタッフでデスクも撮影も録音も一律に書くっていう、なんか妙な変な民主主義を姫田が考えちゃったので、姫田忠義監督作品って一つもないんです。
で、自分は映画界とは無縁だと。まあ、ドキュメンタリー映画界とも無縁だ、アカデミズムとも無縁だっていうことをよく言ってまして。まあ、始まりはどっちかというとテレビ業界なんだと。
自分はテレビの人間から始まって、それで仲間を得まして、カメラマンに伊藤碩男(いとう・みつお)さんって、今でも、90を超えましてお元気なんですけど、出会ったことによって2人で映像を撮るようになっています。
民族文化映像研究所の第一作目は、演出が姫田ではなく、伊藤さんなんです。で撮影しながら演出して、姫田が何やってたかというと、お膳立てと録音と。自分が見つけた九州の村を撮りに行ったわけですけど、まあそんなような始まりがあって。そうですね、ほかのドキュメンタリーの映画作家の方は見たことがないと思います。
あのお歴々。晩年、土本典昭(※土本典昭1928年12月11日〜2008年6月24日)さんと(阿部 あ、水俣のね)、土本さんと映画祭でお会いすることがあって、それで2人が登壇したらですね、「お互い見ないよね。人の作品は」「そうだよね」って言いあったらしいんですけど。確かによその方が何をやってるか全く知らないでまあ亡くなりました。
◆阿部 そうすると姫田さん、僕、姫田監督ってさっき言っちゃいましたけど、正確には監督と言うよりは制作者というか、そういった制作総指揮みたいな形で今の言葉で言うと、といった方が当てはまるでしょうか。
◆姫田 そうですね、自分で企画してっていうことが多いです。ただ、あのクレジットで名乗るとしたら演出なんです。
今、演出っていうとなんか演劇とかなんか、もうちょっと違う感じに思うかもしれないんですけど、当時ドキュメンタリー界は監督っていうのは劇映画の人が名乗るものなので、ドキュメンタリーで監督ってなかったんですよ。
テレビもそうですね。テレビのあれも今なんか監督って、あまりみない、NHKは出さないようにしてますけど、演出っていうディレクターですよね。ディレクターなんで同じなんですけど。それがまあ名前ですよね。
◆阿部 『越後奥三面』は、ほかの姫田作品に比べると、姫田さんが自分でナレーションを入れて、映像の推移とともにこう解説を入れてくっていうスタイルはほかの作品でもあるんですけれども、この映画はどちらかというと姫田さんの作品にしては社会性と言いますか?それが強いかな?と印象をもったんですね。
やはりまず最初のうちに、この村はいずれ水没してなくなってしまう、反対運動もあったんだけれども、あえなく、まあ高度経済成長期の波に抗えずに、あえなく妥結されてしまって、村人の人たちのいく末も決まってしまっているっていうところをまず紹介して。で、いわゆるその村の生業ですとか、いろんな民俗学的な映像というのがずっと続くんですけど、ことあるごとに姫田さんはムラがなくなってしまうことについてどう思うか?と言うことをお聞きになってらっしゃるというのがすごいあるなというふうに思ったんですね。
第二部に至っては、最初に姫田さんがもう自分は、俺はもうこの村ごと持ってどっかに飛んでしまいたい、みたいなところの、何か苛立ちの言葉をぶつけて、そこから始まるんですけどね。
そういう意味では、非常に姫田作品の中では特殊だなという気がしたんですね。でやはり僕が興味を持っているのは戦中戦後派の、あの映像作家というのは、やはり価値観がひっくり返ってしまった、すごく挫折を経験している。
そこで、クリエイターになっていた人たちにある種、共通するものがあるなというふうに思っているんです。
ところが、往々にして映画作家は、政治的な映画ですとかそういう人たちは社会派の監督になったりとか、あるいは市民活動家になっているだとかであるんですけど。姫田さんはその民俗っていうアプローチ、こういうジャンルに行ったっていうところが非常にユニークだなと思ってるんですけど、蘭さんからご覧になって、そういう生き方というのは?どんな風に捉えていらっしゃるんでしょうか?
◆姫田 映画を撮りたくて映画を作っているのではないっていうのがまあ大前提にありますよね。もともとはその宮本常一先生をですね、まあ、追っかける部分は本当に最初の最初でしたんですね。
その映画を作るためにその村に行くわけではなく、たまたま行ったところで、これはなくなってしまう、特に自主制作の作品はそうなんですけど、この村はダム問題になりました。
あとはもう、例えば『椿山』(※7作目、副題 焼畑に生きる1977年)っていう作品がありますけど、それは焼畑の村なんですね。当時でも焼畑をやってる、これは記録しなくてはいけないという使命感があって、それがまあ作品になっているわけですけど。
社会派とかですね。そういうところは本当にある意味、避けてましたよね。その憤ってますよ。例えば何か事故があったとか、事件があったりとかすると出向いて行ったりするんですけど。
それを作品にしようと、例えば水俣の仕事は、それは土本さんがやってるからとか。まあ、成田の問題は小川さん(※小川紳介1935年6月25日〜1992年2月7日。山形国際ドキュメンタリー映画祭創設の提唱者)がやってるからということはあったと思いますけど、それは自分でやるべきことじゃない。それはやっぱり宮本常一という存在が大きくてですね。何でしょう?生きてる間はとにかく宮本先生っていうことを、私はあの生まれた時から知っている先生だったんで、あのうちに来た人がですね。中学三年生の時に亡くなりましたけど。とても普通のおじさん、偉いまあ先生、先生と言っておりましたので、偉い方だとは思ってましたけど、おじいさんだと思ってました。
その影響がやっぱり。ただ、80年に宮本先生が亡くなって、変わりました。あまり言わなくなったんですね。この作品のときには宮本常一先生が――という言葉はほとんどなかったと思います。
ある意味、自分が出会った場所で作品を作っていくっていうことがごく自然な流れとして、出会いがあって、やっぱり趣味の映画を撮る前、日本全国こうテレビ番組作ったりしてたんですけど、それはやっぱり宮本先生が監修者だったりすることもあるんですけど、先生がここに行け、あそこに行ったら何かあるからそこに行ってみれば――っていうようなところから始まったんだと思うんですよ。亡くなったあと本当に自分の世界になったなと思います。
◆阿部 宮本常一さんとのエピソードというのは、この『ほんとうの自分を求めて』(ちくま少年図書館1977年)という姫田さんがお書きになった中にあるんですけど、これ非常に面白いですよね。出会いがね。
たまたま宮本先生の本を読んだ姫田忠義さんが、アポなしで、たしか研究所に訪ねて行かれるわけですよね。
どこの学生、どこの若者ともよくわからない、たったひとりたずねてきた若者に対して、朝の10時ぐらいから自分のオフィス、デスクの部屋に招じ入れてですね。いま何をやってるかっていうのを語り出したら、なんと夜中の10時までで、途中で店屋物を取ってくれたとかいうエピソードが書かれているんですけど。
◆姫田 はい、それが昭和29年。どこへ行ったかというとですね、東京の三田っていうところに渋沢邸というのがあって、渋沢栄一、今度1万円札になります。渋沢家のその当時の惣領である渋沢敬三先生の渋沢邸に「アチック・ミューゼアム」(※屋根裏博物館)という、戦中にちょっと名前を変えて、日本常民文化研究所。日本常民文化研究所をその豪邸の中に作ってたんですね。
で、姫田は「読書新聞」という新聞雑誌に、瀬戸内海の海賊の話を先生が書いて、それを読んで、まあ自分は瀬戸内海の生まれですっていうか、神戸なんですが、あの母親は岡山の北木島というところなので身近に感じて突然会いに行って、そしたら招じ入れてくれて、その一日中本当に――割とエリートサラリーマンだったわけですね、大阪本社それが東京出てきて極貧になったので玉ねぎをガリガリ生で食べて出かけたらしいです――だから宮本先生は玉ネギ臭かったんじゃないかなと言ってましたけど。
そこでカツ丼をご馳走になり帰ってきたって言うんですが、それでいっきにもう信奉してしまいましてですね。それにまだ宮本先生は36年か、昭和36年に武蔵野美術大学の教授になりますけど、まだその頃は民俗研究者でしたし。
うちの父母が昭和35年に結婚したんです。何月何日かっていうことは両親とも覚えてなかったんですけど、宮本先生の日記でちゃんと書いてありましてね。「今日は姫田君の結婚式だった。芸能人がいっぱいいて面白かった」って書いてるんですよ。
まあテレビ業界の人たちはいたんでしょうけど、芸能人はいないはずなんですが、宮本先生からしたら芸能界の人たちがいて、自分の知らない世界の人たちが(音声不明瞭)が周りにいてびっくりしたと書いてるんですね。
それぐらい大学の先生になるまでには、特にお世話になって、うちの家族も、兄が先生に抱っこされたり、写真撮ってもらったりとかして。ちょっとよけい脱線しましたけど。
◆阿部 渋沢敬三、宮本常一、姫田忠義という系譜、なんて言うか師弟関係ですかね?系譜を見ていると、非常に面白いなというふうに思いました。
時間もそろそろなくなってきたので、ここで僕もうかがいたいのは、今ロビーに張り出しているんですけれども、三面が今どうなっているか?っていうことです。ダムがあるわけですけど、今も姫田さんは三面ダムとかあちらの方に出かけられたりすることっていうのはありますか?
◆姫田 あの、ちょっとノスタルジックなので、うちの父は9月10日生まれなんで割と9月10日に行くことが多いんですよ、時間作って。でもあの当時は何時間もかけた三面ですけど、東京から車で日帰りしちゃうぐらいなんですね。
あとダムです。寂しくありませんでした。人っ子一人いない時間がとても寂しいところなんですけど、春になりますとね山菜を取りにくる方が。危なくないのかなと思うんですけど、舟まで持ってきて、ダム湖を横断して山菜を取りに行ってるらしいんですね。そういうおじさんに話を聞いたりすると、三面の人じゃないんです。そこに来る人はもう三面の人じゃないんですね。
◆阿部 僕もこの映画をみて、行こうと思ったんですけど、途中までしか入れないんですよね。特に秋口。冬はとても行くのは難しい。四駆じゃないと落ち葉がすごい、滑っちゃうので。なかなかすごいところだなというふうに改めて思ったんで。この映画を見て感慨を受けられた方はですね、暖かい季節、今の時期なんか行けるかな?と思うので、ぜひ見ていただくと余計アクチュアリティが増すと思うんですよね。
◆姫田 そうですね。これから午後の会がありますので、その時にはいろいろ話したいと思いますけど、どうしてあんなものを作ってしまったのかなっていう疑問ありながら、私はいつもみていますので、これに関しては。あ、宣伝してもいいですか?
今回、このプログラムを作りました。ぜひお買い求めいただけますと、ありがたいです。1000円です。そしてですね。この先ほどから紹介しています『民映研作品総覧』(※副題 日本の基層文化を撮る2021年)、これ、ちょっと高いんです。1980円なんですけど、残りが3冊となっております。
それから『ほんとうの自分を求めて』。これは実はちくま少年文庫というところ、筑摩書房から出てたんですけど、姫田が亡くなった後に再版しまして、姫田が書き下ろした最初の本です。これもあと2冊。1500円。(阿部 でも書店に注文すればあるんですよね)はい。
◆阿部 民映研でも取り扱っていらっしゃいますよね。
◆姫田 はいそうです。「はる書房」というところで検索していただけます。まあ、これはアマゾンでも買えますけど。
◆阿部 パンフレットはすごく販売率が良くてですね、だいたい3割ぐらいのお客様が買って行かれます。だいたい映画のパンフレットって、1割弱なんですけど、でもこのパンフレットはすごくよくできていますし、やはり映画の中を深掘りしてますので、これで1000円だと非常に安いですので、お買い求めいただければなと思います。
本当に僕自身ナビゲーターうまくいかなくて申し訳なかったんですけれども、時間になってしまったので、この辺でお開きにしたいなと思っています。この後はですね。カフェ・ド・ロゴスという市民対話サークルの方々の主催によるお話し会をやるんですけども。その件について主催者の荒川さんから。
◆荒川信一 皆さん、こんにちは今ご案内ありましたけれども、カフェ・ド・ロゴスということで、この映画で語り合おうというイベントを企画しておりました。場所は如春荘というところで、県立美術館の方へ歩いて10分かかんないくらいのところに、昭和チックな古民家なんですけれども、そこで語り合う会を企画しておりました。
そこにですね当初、阿部支配人に来ていただくことを思っていたところに、今いらっしゃった姫田蘭さん、それからですね福島大学の准教授であります林薫平さんをお招きして、この話の続きを聞かせていただけるというふうになりました。林先生につきましては、宮本常一との関係を語っていただくというふうに聞いております。
時間なんですけれども、SNS等では1時半と告知しておりましたが、時間が押してきましたので2時からということで、今までお知らせしていた時間30分遅らせて2時からの開始としたいと思います。入場無料・予約なしで結構ですので、ご都合が合えば来ていただければと思います。以上です。よろしくお願いします。