菅家 博昭(かんけひろあき)
3月17日(日)、昭和村大字小野川の講中の代表4名で、古峯神社(栃木県鹿沼市草久 古峯ヶ原)に参拝してきた。
火災除けの御札を祈祷してもらい、帰村後に本村神社前にある石塔に木札を納め、各戸には紙の札を配布した。代表が参拝する「代参」で、我が家は今年が当番に当たっていた。
昨年の3月総会のくじ引きで今年3月の代参者が決まり、2月下旬に集まって日程等を確定した。今般の代参では、御札の数量や内容について神社指定の用紙をファクシミリで送付した。その後、社務所から電話があり、『季刊東北学』『会津学』を読んでいることが知らされた。代参時の祈祷後に、その方と少しの時間に会話をすることができた。
毎年春に行われる代参は、地区総会で、くじ引きで参加者が決められる。
かつては3泊4日の日程だった、と91歳になる父親・清一(せいいち)は語る。
戦後すぐのときで、3名で、コブガハラさま(古峯神社)に代参したという。我が家の祖父は博士山の狩猟で表層雪崩に遭い半身不随であったので、まだ13,14歳であった清一少年が父の代理で参拝したのだ。
小野川本村から2名の大人と、少年1名が大岐の代参者であった、という。
朝に家を出て、歩いて5時間かけて滝谷駅まで行き、近くの松葉屋で1泊。始発の列車で会津若松、郡山と乗換え、さらに東北本線で栃木県鹿沼駅まで。そこからバスに乗り古峯神社の一の鳥居バス停で降りた、という。さらに3kmほど歩いて古峯神社に泊まる。翌朝のご開帳で祈祷を受け、村に持ち帰る祈祷札を箱に入れて帰路についたそうだ。帰りは会津若松市内桂林寺町にあった信夫屋旅館に泊まる(3泊目)。翌朝列車で滝谷駅下車、徒歩5時間でようやく大岐に着いたという。
同行の大人は親類2名(新六兄、新八兄)がクジで当たり、気遣いせずに旅が出来たという。
江戸時代の昭和村域等からは、群馬県妙義山(白雲山)にホウインサマ(法印様・山伏)が代参し村の防火札を持ち帰っていた。昭和村では中向、小中津川、大芦に白雲山・妙義山の碑文を持つ江戸時代の石塔がある。明治期になると、神仏分離の影響から、日光山から分離した古峯神社が積極的に教線を拡大する。鉄路の拡大を利に、年に一度の代参を営業し近代から現在まで続く村の火防神となっている。
昭和41年3月に星知次氏の執筆に成る『会津郡長江庄 桧枝岐村 耕古録』には
文化元年から60年間の『万書留帳(抜き書き)』に、次のような記録がある。
天保3年(1832)
2月10日朝六つ時向村、作内火元にて家数26軒焼失、向村徳エ門、伝吉、甚エ門同人空家共四軒残る。2月14日焼小屋掛、人足1軒より2人宛腰から林にて細木切り、2月15日落合法師に頼み、村中安全のきとう、妙義山へ代参相立てる。(略)
安政2年(1855)
ねずみ多く作物荒らし、麦は種も無く村々ねずみ送り、そば半毛談事の上、上州榛名山へ代参立てる。
安政4年(1857)
4月末洪水 所々橋落ちる。当村前川小橋落ちる。当年下野国古峯原へ火防御祈祷村代参始まる。但し、5年目に代参立てるはず、ねずみ、作物荒らし、落合法印様へ頼み御祈祷をする。当年凶作、若松秋値上 当村一分に一斗七升、冬大雪の方。
火災後に群馬県の妙義山に法印(山伏)に依頼し代参。あるいはねずみ除けの代参。そして古峯原に火防祈祷の代参があり、会津でも、かなり早い記録である。
しかし、星知次氏は、翌年12月16日に逝去された。氏は村教育委員会の村史編さんの委員でもあった。『檜枝岐村史』は残った委員により昭和45年に刊行されたが、星知次氏の『耕古録』はその後の昭和53年に68ページの小冊子として発刊されたものである。
『村史』の序文にあたる橘朝良桧枝岐村公民館長の編さんのことばには、
昭和42年12月14日に開かれた桧枝岐村教育委員会・公民館運営委員会の合同委員会において、(略)村政50周年、明治100年を記念し「村史編さん」の企画に取りかかった。然るに不幸にして、翌々日の12月16日突如、星知次君は帰らぬ人となり(略)地下に眠る星知次君の霊に報いることができると信じ(略)」
と記されている。
また、『町の歴史と民俗』(福島県立博物館、1984年)は、会津若松市と須賀川市の町場の古峯神社について詳述している。
「寛保3年(1743)には古峯ヶ原講は成立しており、その後、次第に広範囲に伝播し、特に文政(1820年頃)以後、各地で結講されているようである」
「安政2年(1855)に、堂社修繕の勧発を諸講中に呼びかけ信仰圏が東北まで広がっている」
としている。桧枝岐村の安政4年の代参記録は、こうした流れの中にあるものと思われる。