菅家 博昭(かんけひろあき)
2020年7月13日、金山町大志の中丸太一さん(昭和6年生)、澄子さん(昭和9年生)ご夫妻にかつてのカノ(焼畑)について教えていただいた。
大志から只見川を舟(大小の2艘あった)で渡り、左(対)岸の山塊でカノをやったのだ、という。特に戦中戦後の食糧不足時期には盛んに焼いた。ソバ、アワ、小豆など豆類、その後はいろいろ栽培し野に戻した。肥料は何もいらなかった。
カノは傾斜地だから、ススキや柴を根っこからていねいに刈って、乾かして焼いた。夏ガノは草をていねいに刈らないとうまく焼けないという。何年も作っていて常畑のようになると、刈った草を集めて、瓜を作るとほんとうに良い瓜が出来て、うまかった。
「あーだうまいもん、ない。ほんとうに、うまかった」。
「戦中戦後の食料不足の時だったからかもしれないな」と語られた。
川向こうのカノの場所は、オンダシ、デンジョウ、ヒナタ、ササバタケなどと呼ぶ斜面を利用した。周囲の森林に火が付かないように三メートルほど焼く場所と森林の間を空けたという。
会津美里町新鶴地区出身の故・山口弥一郎さんは『東北の焼畑慣行』(1944年)という名著のなかに、昭和13年、18年に現在の金山町地域等で焼畑の調査をされ、詳述している。172町歩(ヘクタール)の焼畑とは、とても広大である。
現在では、想像も出来ないし、見えないものがたくさんある。なぜ戦前の金山町では、こうした広大な焼畑が存在したのだろうか?日本一の焼畑の場所としても良い。しかしそれは本当になんだったのか…。
雪食地形の下部斜面を利用したと思えるのだが、前述の写真は、山に樹木は何も無い広大な草地、焼畑があったことを示している。
『金山町の民俗』(大沼郡金山町、1985年)は、金山町在住の坂内宗平さん(玉梨)、滝沢三雄さん、星賢正さんの協力で、加藤文弥さんが執筆され、「焼畑耕作」について以下のように書かれている。
「太平洋戦争中、極度の食料不足に苦しんだ地方民は、ひとしく焼畑農耕にいそしみ、雑穀を収穫して食糧の一部を補っていた。それは集落から遠く離れた山腹の一部を利用したものであるが、遠い昔は現在人家のあるところも、焼畑農耕が行われていたに違いない。
焼畑のことを当地では「カノ」と言っている。近代まで耕地をほどんど持たない貧農は、もっぱら国有地とか村の入会地を借り、カノによって雑穀を得ていた。
カノでは1年目はソバ、2年目はアワ、3年目はアズキというのが普通である。しかし、2年目にマメを蒔き、3年目にアワというように必ず一定していなかった。
長くても数年後にはこの焼畑を放棄し、十数年は草木の繁茂するに任せ、地力の回復を待つ。焼畑の周囲、特に下方の耕土のやや深いところには、わずかではあるがカボチャ・馬鈴薯などを作ったこともあるが、それは多くを期待してのことではなかった。
金山町の横田地区では、「春(はる)ガノ」と「夏(なつ)ガノ」の2回行われたこともあり、春ガノにはアワ・ダイズ・アズキ・夏ソバを蒔き、夏ガノにはダイコン・カブ・秋ソバを作った」