檜枝岐の縄文後期「綱取式」 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

奥会津を学ぶ

檜枝岐の縄文後期「綱取式」

2024.01.01

菅家 博昭(かんけひろあき)

 2023年1月31日、「奥会津の縄文展」事前調査で檜枝岐村を訪ねた。事前調査を担当された長島雄一氏が、現在の本村集落立地の場所から縄文後期の人面付き土器、ハート型土偶が出ていることを語られた(写真。『奥会津の縄文』2023年、5ページ)。これは下ノ原遺跡といい、土器片を見ると綱取(つなどり)式や新潟の三十稲場式、関東地方や東北北部地方と共通する土器群がみられ、主体は縄文時代後期前葉である(同77ページ)。

檜枝岐村のハート型土偶

      
「山と考古学」を特集した『季刊考古学』第63号(雄山閣、1998年)で、文化庁の原田昌幸氏は「縄文人と山」の中で、縄文後期のハート型土偶について以下のように論考している。

 「縄文時代後期前半に盛行した”ハート型土偶”の分布がある。この土偶は古くから、群馬県郷原出土例が典型とされ、その分布や系統が論じられてきた。しかし近年の研究で、この土偶の主体的な分布地域は堀之内式土器様式が色濃く分布する東・南関東ではなく、むしろその中心が東北南部・綱取式土器様式との接触地域にあり、それが北関東の山沿いに伝播、群馬の山間部、郷原の地で造形上の頂点とも言える”郷原の土偶”を生み出した、という経緯が明らかにされている(上野修一、1997年)。土器様式の伝播・接触の経路は、一般に河川の流域とか、平地・盆地経由のルートを想定する場合が多い。しかし、このハート型土偶のように、明らかに山を意識した文化の伝播も、考えなければならない場合がある」

 こうしたことから注意したいことは、奥会津における縄文後期・綱取式土器の分布と、周辺(隣県)の広域分布の意味を考えることが必要になっている。同式土器が山間部伝いに出土しているのはなぜなのか、という問題意識を持って考えるべきなのではないか。
 このことは、縄文後期に、中期の立地とは異なる河川沿いに集落を移転することの意味をも含んでいる。
後期になると主河川から枝河川に生業の場所が変化したのではないか。トチの実の利用やその加工のための水場の木組遺構が多くなることなども、河川近くに生活の場を移すことにつながっているだろう(『縄文時代像を探る 水辺に残された履歴から』群馬県埋蔵文化財調査事業団、2021年)。
 また、河川沿いの人の行き来が、尾根越えの交流・交易に変化し、活発化していく背景には、森の奥深く人々が入っていくような生業変化があったのではないか?あるいは塩や石材の流通なども想定される。そうした人々の移動を、後期の土器片は反映している。