「令和の奥会津風土記」 むらをあるく(1)柳津町 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

奥会津を学ぶ

「令和の奥会津風土記」 むらをあるく(1)柳津町

2023.01.06

菅家 博昭

 2020年7月17日。福島県立博物館長を退任された赤坂憲雄さん(学習院大教授)と柳津町大野・猪鼻・塩野・軽井沢・鳥屋、三島町滝谷、昭和村大岐を歩いた。感染症防護のため、地元の方々に面談しながらのむら歩きは控えて村人には交わらず、むらのなかの社寺や石造物、風景を観察した。

 奥会津地域の村々は過去のいくつかの記録のなかにその村勢を伝えている。
 「邑鏡(むらかがみ)」や藩・幕府出先に提出した「書上(かきあげ)」に、かつてのむらの姿を知ることができる。
 奥会津の村々を歩く際には、会津藩が編纂した『新編会津風土記』(文化6年、1809年)を道先案内の書としている。ここには200年前の村の姿が記載されている。

大野

柳津町大野は銀山川の右岸の標高410メートルほどの尾根上に位置する村落。

大野集落の中心にある棚田。

その東手の大柳川の東から会津盆地と接する。会津盆地は、里平(さとだいら)と呼ぶ。
 『風土記』の内容を現代語に改め紹介すると「清水、村中にあり、昔、徳一が加持により湧出、今に至るまで水多く清冷なり」、「(光泉寺の縁起に)昔大同年中に徳一がこの地に来り、柳津村に虚空蔵堂を建てしとき、この山中より材木を伐らせた。盛夏の時にて人夫炎熱に苦しみかつ水に渇き、徳一は六株ある喬木の下で加持したところ、たちまち清泉が湧き出し諸人の渇きを癒やして蘇生の思いをした(後略)」

現在、湧出地点から東側に移されている通称「徳一清水」。

 この清水には、次のような伝説がある。

徳一清水(古杉ノ井)と地蔵様のお祭り

  大野集落は尾根の上近くにあり、徳一が虚空蔵堂を造作したときの樹木を伐採した人たちの住む場所だったという伝承が残っています。
 盛夏の炎熱に苦しむ伐採の人々のために、徳一が加治を行うと清水が湧き出し、のどを潤すことができたと伝えられています。この清水のそばに、徳一は光泉寺を建てました。地蔵堂の清水は、現在は近くに移されましたが、清冽な水は大切に維持されています。
 地蔵堂の6体の地蔵様は、子どもを守るためにいつもは家々を回り、お祭りの日に堂に戻ってくるとされています。 柳津町の大野集落に夏の終わりを告げる、つつましやかなお祭りです。

光泉寺と旧清水跡
地蔵堂

現在の大野には、20数戸の村落の北端と南端に熊野神社が鎮座し、西手に白山神社が設けられている。

白山神社
熊野神社裏には村中の祠が合祀されている。

『柳津町誌集落編』(一九七七年)では東に三日月神社がある、としている。村を歩いただけなので今後、大野の皆さんに話を聞いていろいろ教えていただきたいと考えている。

  赤坂さんは村を歩いて、湧水を起点として水田(稲作)を集落内に擁していることに留意したい、と繰り返し語られた。光泉寺から東を望み水田と村落を斎藤清さんが版画にしている。その水田のことを指している。

画家・斎藤清がここを描いている。

軽井沢

 銀山跡

明治時代に建造されたレンガの煙突が残る軽井沢銀山跡地。
集落の中心に建てられた銀山労働者慰霊の碑

 軽井沢集落は、かつては採掘の技術者たちで賑わい、山の斜面は隅々までていねいに開墾し、利用されていた。
 植田雅夫さん(昭和13年生)に話をうかがうと、かつて28戸ほどあった軽井沢は現住7戸である、という。

棚田(1995年撮影)。現在は耕作されておらず、深い緑の海となっていた。

鳥屋

古峰神社の石柱が建つ毘沙門堂。
こて絵を施した土蔵

西向きの斜面に家屋が並ぶ鳥屋は、土手一面をからむしが覆っている

写真:土手一面に繁茂するからむし

 村々には、現在では見えないものがたくさんある。それらに敬意を払い、留意しつつ、奥会津の人々が歩んできた歴史と今を繋ぎ、村々に新しい風景を見つける旅が始まった。