奥会津の山形押型文土器 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

奥会津を学ぶ

奥会津の山形押型文土器

2023.12.15

菅家博昭(かんけひろあき)

 合併前の南会津町会津田島では、後原の田島郷土資料室を主宰する樋口弘一氏と渡部康人氏らが小中学生時代から先史時代の遺跡の踏査を行っていた。それは『たじま考古』第5号(田島郷土資料室・たじま考古クラブ 1981)に記載されている。
 私は昭和49年(1974)の5月に小野川で発見された縄文早期の小峠遺跡で、通学の行き来に爪型文土器を表面採集した。中学3年、15歳の時であった。この遺跡は常世式土器の貝殻腹縁文を施文しており、8000年前のもので、たいへん感動した。昭和52年(1977)の6月、高校3年生の時に改めて小峠遺跡の表面採集を行い、考古学に興味を持った。生業は農業であるが、これが機縁となって、地域文化の調査研究をライフワークにすることとなった。
 同じく昭和49年(1974)晩秋、当時田島中学校2年の渡部康人氏が縄文早期の山形押型文土器片を採集し、翌年、田島町教育委員会が発掘することになる(『田島町史』第5巻)。

山型押型文土器(石橋遺跡 縄文早期)

 法政大学の伊藤玄三氏は『法政考古学』第1集(1977)に「福島県田島町石橋遺跡の押型文土器」を執筆している。冒頭の物語を紹介する。

「同年11月初旬に田島町内の遺跡を踏査し、従来の出土資料等についても町史編さん室の方々より教えていただいた。この踏査の折、町内の西部に位置する針生においても数カ所遺物出土地点があるとの事で、それを訪ねるべく車で針生に向かっていた。その途次、針生方向より一中学生が自転車で下ってきた。彼が、田島中学校の渡部康人君であり、その日も針生方面の遺跡を調べての帰路であった。筆者の案内のために同行していた樋口弘一君とともに、この田島町内の遺跡調査についてはかなりの成果をあげている由であった。その日の採集資料を見せてもらったところ、そのなかに紛れもなく一点の山形押型文土器が含まれていたのである。出土個所をたずねたところ、石橋遺跡であるとの事であり、我々もまた期待してその遺跡を訪ねることになった。しかし、その折りには草・前期の土器片が若干見られた程度であり、ついに押型文土器の資料を加えることはできなかった。
 けれども、渡部君の採集した山形押型文土器は、これまでほとんどその種の例を東北地方で聞くことのなかったものであり、近接している北陸・中部・北関東では良く知られている系統の押型文土器文化が東北まで範囲を広げるものとなるという点で極めて注目すべき資料であると思われた。そこで、町史編さん事業の一環として、この問題の認められる石橋遺跡の発掘調査を実施することにした。
 調査は、積雪が融けて農作業が開始される直前の短期間が予定され、昭和50年(1975)4月14日から同25日の12日間行った。調査の結果、石橋遺跡は広い範囲にわたって遺物が散布することが知られたが、良好な包含層もなく、特に顕著なまとまりある遺物の散布することがわかった。ただし、この調査において、期待した押型文土器の出土は確認され、しかも予想外に格子目押型文土器も出土することが知られたのである。出土量としては小破片10点を数えるのみではあるが、東北南部における明瞭な押型文土器出土遺跡を確かめることができたことは大きな収穫ということができよう。」

 また、岡本幸三氏は、『縄紋時代早期 押型文土器の広域編年研究』(雄山閣 2017)で、以下のように記している。
 押型文土器を出す遺跡には他地域からの移動という背景がある。会津田島の石橋遺跡は新潟県の押型文土器に似ているという指摘もあり、いずれ遠方からの狩猟集団が奥会津に来ていたことを思わせる。昭和村の小峠遺跡にも1点ながら押型文土器が確認されている。押型文と常世式の間には時間的な差もあることから、どのように考えるのか難しい。