【むら歩き】 定住狩猟民の狩り | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

奥会津を学ぶ

【むら歩き】 定住狩猟民の狩り 

2023.10.01

菅家 博昭(かんけひろあき)

 芳賀英一氏らが発掘した西会津町の塩喰岩陰遺跡の報告書の分析をした山内利秋氏(執筆当時は吉備国際大学、現在は九州保健福祉大学)による表題の論考はたいへん興味深い(佐藤宏之編『食糧獲得社会の考古学』朝倉書店、2005年)。 副題は「縄文・弥生のハンティング・システム」。
 奥会津に隣接する新潟県の草創期の小瀬が沢洞穴からは動物依存体ではシカ・イノシシ・クマが確認されたが、漁撈活動や植物性食料の採集や加工を行っていた可能性が高い。漁撈具と考えられる大量の石槍や骨格器、石皿・磨石を出土している。複合的な生業活動に利用され各地の環境への適応により差異がある。
 長野県の湯倉洞穴は早期押型文の時期に女性の埋葬人骨があり、栃原岩陰遺跡では落盤による事故死とされる小児遺体が確認されている。縄文早期では、狩猟(漁労)活動に女性が関与したと予測している。罠の見回り、加工・運搬といった役割を果たしていたのではないかと考えられている。
 洞窟遺跡で確認されるツキノワグマについては、オクヤマ(奥山)まで積極的に狩猟に出向くべく、特別な理由として儀礼的狩猟が考えられるとしている。高度な狩猟技術を必要とし、時には自らの命さえ失ってしまう大型獣への攻撃的狩猟は、定量的に獲得できる動物性食料としては期待されていない。困難な狩猟活動を遂行する専門集団を組織化させ、共同体の紐帯としての役割を負わせた大型獣を捕獲することで、共同体全体における生業活動のシステム化と社会を構成する組織編成がはかられるからである。
 サトヤマ(里山)や集落・耕地へ進入してくる小型動物への防御的狩猟であっても、動物の生態や地理・植生に対する経験的知識と、それをうまく活用できる応用力や空間認識、管理能力が不可欠である。サトヤマにおける防御的狩猟は、農耕システムの管理・運営上からも不可欠であり、これらの活動に関して退役狩猟民が活動していた。
 塩喰岩陰は標高195m前後に位置し、サケ・マス類を遺跡からすぐ近くの安座川から獲得できる地理的環境にある。そして近くには標高150m~180mの野沢盆地が広がっており、塩喰岩陰から半径5kmの距離にある盆地西側では、縄文中期以降オープンサイトが存在することから、これらを拠点として塩喰岩陰を利用したと考えられる。塩喰岩陰ではサケ科の骨が確認されており、縄文草創期・早期・前期・後期に多い。
 低地部への作業空間の拡大が一般化する縄文後期以降に洞窟岩陰の利用が再び増加するのは、狩猟活動を実行する構成員の組織的変化を意味している。塩喰岩陰の事例では石皿・磨石が縄文後期で減少しているが、これは植物質食料の採取・加工の作業が低地部に移行していったことと関連する。作業空間が移動したことにより女性の季節的活動領域が「麓」の集落や、二次林である里山(サトヤマ)へと限定され作業空間の性的分化がはっきりしていったことを予測させる。
 塩喰岩陰の縄文早期の田戸上層期から石器組成が多様化し、掻器・削器・石匙・石箆・トランシェ様石器と礫石錘が確認される。芳賀英一氏は礫石錘の登場は、この時期の東北日本における漁撈活動の再編を意味するとしており、沿海州との関係性を指摘している。漁撈活動の技術的変化があるが、石皿・磨石類は下層と同様に出土しており、基本的な生業活動の変化は現れていない。

 『南郷村史』第1巻(南会津郡南郷村、1987年)で周東一也氏は、昭和60年(1985)に解村した新潟県朝日村の三面(みおもて)の人々の生活で、米作を除外すれば東北の縄文晩期以来続いてきた生活の姿であると考察している。
 粗製土器の文様に網目があり、川漁の存在を予見させ、槍先状につくってある石鏃は弓・矢による水棲動物の漁用に開発されたものかもしれない、としている(102ページ)。
縄文後期から晩期の村下A遺跡では、細身の石鏃、擦切石錘も多い(『村下遺跡A地点の調査』1991年、85ページから90ページ)。