菅家 博昭(かんけひろあき)
福島県南会津郡桧枝岐村で暮らした人々が、母村から離れ出作り小屋で農業をした時代が長く続いたが、その最後の現場を訪ね、あるいはその思い出を聞き書きの手法で、土地の言葉を残し記録した書籍がある。
東京新宿の白日社の志村俊司氏(故人)がまとめた人である。
朝日新聞社の編集委員の佐藤国雄氏(新潟県)が志村氏を取材している。週刊誌『アエラ』1991年3月5日号に掲載された。この記事はアエラ編集部編『現代の脇役』(新潮社、1991年9月刊)に「山人の暮らしを語り継ぐ出版人」として収められている。
それによれば1991年取材時に志村氏は69歳。10年間で上信越・会津の山奥に生きた人々の古老から聞き書きした「人間」の記録が11冊。取材当時の1991年2月1日、桧枝岐の福朔じいが死んだと聞き、桧枝岐村に向かっていることを書いているので取材者も同行したのだろう。
志村氏は神奈川県秦野で生まれ、東大仏文から学生で大陸戦線に。帰国し出版の仕事をしながら独立し50歳すぎて「白日社」を設立。一人の話をまとめるのに1年から5年。平均年に1冊。3000部から5000部刊行しているが、現在は完売し古書店等でも見かけることは少ない。
桧枝岐村の聞き書きで、私が読んだのは『山人の賦(うた)Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』(1984・1985・1988年)である。すべて話者の著述・志村編として刊行している。動物と人間の交渉譚が数多く語られている。
今回、野ネズミと人間について『Ⅰ』『Ⅲ』の記述を紹介したい。
『Ⅰ』には、平野惣吉氏(明治33年生)の大津岐の開拓で「ネズミ年・餓死年」がある。
大津岐では大きく開墾したから、1町歩(約99アール)はあったなあ、だから豊作の時は来年の春までは楽に食っていかれたが、今年のようにブナの実がたくさんなった翌年は、ネズミ、あの腹の白い小さいやつ、ハツカネズミって言うだかなあ、あいつがたくさん出てなあ、ネズミ年というだが、そういう年はネズミに作物荒らされてしまうから、よくよく食う物なくなるだ。
ブナがたくさんなるとネズミがものすごく殖えるだ。ブナ実の落ちる今頃(十月初め)から山に入って、冬中雪の下にいてそれ食べてるだから、餌がいくらだってあるから、来年の春までにはものすごく殖えるだ。そうして雪が消えても、山に落ちたブナの実があるうちはいいだ、それ食べてるから。こんだブナ実がみんな芽を出して大きくなると、食うものなくなるから、六月になんねえ頃から、山から出てくるだ。
そうして昼間でもなんでも、家の中でもなんでも、ゾロゾロゾロゾロと走り回ってるだから、そこら中、踏んづけるほどいるだから、そこらにあるもの、畑にあるものでもなんでも、みんな食べてしまうだ。百匹や千匹でねえだから、それ退治しるなんてこと、とてもできるもんでねえだ。そうしてみんな食べてしまって、食うものねえから、やるせなさに歩き回って、川越えてっから、川さはまり込んで流れて死ぬやつに、食うものなくなって死ぬやつに、秋の頃になればだいたい死んでしまうだが、それまでには作物はみんな食われてしまっているだ。そういう時はひどかった。
そうでなくも、天候が悪くってから不作の年もあったしな。大津岐にいるうちに子供は五人になったが、家族七人でまあ大変だっただ。それでも秋から狩り場やったから、テンボウの皮の値がよかったし、バンドリも値がよかったし、ウサギも売れたし、それ峠背負い越してっから、売った金でコメ買ったりムギ買ったり、食糧買ってそんでなんとか暮らしていただ。まあ本当にひどかっただ、そのネズミ年の時は、15年いるうちに3回ぐれえあったな。
それでも子供がいい子で、家の手伝いしてくれて、養蚕なんども、クワ(桑)採りやってくれたから、大きく開墾やって畑の道の端両側ずっとクワ植えたから、道にいてっからクワ採れたから、子供でも、木の皮で作った蚕飼うオリというのがあっただが、それ子供は大きくって持つってことはなんねえから、それ紐つけて、クワの葉のせて、道引き歩いただ。そしてっから春はゼンマイ採りもやったし、夏は魚釣りもやって、それから秋から冬うち春さきと狩り場やって、金とることやって、そうして暮らしただ。そんなことして苦労して、まあやっと暮らせるようになったと思ったら、戦争おっぱじまって・・・・・。
また「砂子平の開拓」でも「ネズミとアリは・・・」(55ページから)。
ネズミとアリは、リスもそうだが人間より利口だから、今食わねえでみんな方々へひき集めとくだな。そして後でそこさ行ってみんな食うから。それから草木(そうもく)は秋のうちに、全部来年の準備しとくしなあ。秋になって葉が落ちると、ちゃんと芽が出来るわな、来年の分。
われわれも今は来年の秋まで食うだけのものを、みんな買ったりとったりして蓄えておくだ。昔一生懸命働いている頃は、ただ夢中で働いているきりで、そういう考えもなくて、その日ぎりぎりだったから、こんだ餓死年にでも遭えば食うものがなくて、ひでえ目に遭っただ。利口な人はみんな蔵さ貯めといただがな。まあなあ、考えてみれば貯められる人はよかっただ、オラなんかその日食うのがやっとでそんな余裕なかった。
『Ⅲ』169頁~ 平野勘三郎氏(明治39年生)
「出作り・ひどかったネズミ年と終戦の頃」
鳴滝では、百姓やって、養蚕のいい頃は養蚕もやったです。まあ出作りはどこでも、みんな同じようなことやってましたね。穀類ではアワ、ソバをいちばんたくさん作って、ヒエはあまり作んなかったね。ヒエは作るのは簡単で、とれるのもとれたけれど、あれは食べるまでにするのが厄介だったからね。
栗山の方ではヒエを主に作ってましたね。アワなんどあまり作んなかった。こっちの方が贅沢だったね、ヒエは面倒臭えなんど言って、あまり作んなかっただから。そうして足りない分、高いおコメ買って食べたからね。それで、わたしはやらなかったこど、本家ではコメも作ったです。田んぼで。鳴滝はここより低いから、いくらかとれたね。だけど水が冷たいからね、溜池作って、水引いて、暖めないとだめでしたね。
ここではソバとジャガイモはとれたです。出作りではいちばん奥の矢櫃(やびつ)ちゅうとこなんでもね。あそこは高いとこですがね、だから、あそこは、アワは、この辺で作るアワではだめでしたね、極早生でないと。矢櫃アワだなんて言って、別に種類があったです。トウモロコシも沢山作ったね、夏の食糧に。只見川の方の開拓に入った人はね、あれをたくさん作って主食にしたらしいね。荒挽きしてね、粉は焼酎にして、粉になんないやつは、ご飯にして食べる。ソバなんかも、そうしてたらしいね。向うへ入った人は大変だったよ、コメなんども駒ヶ岳背負い越ただから。
昔は食うことが大変だったからね、家族が多い人はそれだけ大変だったです。私は子供は3人で、昔にしては少なかったね、みんな7、8人あったからね。だから家族は5人だったから、多い人に比べると、まあ楽な方でしたね。
それでも、やっぱり作物は天気次第だからね、天候不順の時は困ったです。何年かにいっぺんあったからね。それからネズミ年、ブナの実がたくさんなった年の翌年はネズミ年と言ってね、ネズミがもの凄くふえて大変だったです、畑荒らされて。鳴滝はブナ山が近いから、周りブナばなりだからね、そこからいっぱい出て来て、そうして、あすこは出作りの場所としては広くなかったから、そこにみんな集まったから、とってもひどかったですわ。あれは、ちっとやそっとの数ではないからね、ネズミと戦争するようなもんだったね。
農作物だけじゃないからね、やられるのは、まあ養蚕飼えば、カイコも食べるし、繭も、あれ食い破って、中の蛹(さなぎ)食べるから。それだから、オラ家なんども養蚕やっていたからね、養蚕棚、下からネズミが上がんなにように、地べたから一尺くらい離して吊して、上からも下からも行かれねえようにして、そうしてやったです。それでも跳び上がるだかなんだか、食べられたね。
まあ、ひどかったですよ。あの小さいやつが、六月の終わり頃になれば、もう山に食べ物がないから、みんな山から下がってきて、本当にいっぱいだったね。もう、どこを見てもネズミが、そこらゾロゾロと歩ってるだ、日の中でもなんでも。まあネズミは畑なんど、なに作ってもみんなネズミにやられて、人間の食べる分、半分も残らないんだから、まあとてもひどかったです。
それでもわたしなんどは、年に百日以上は屋根屋で外に出ていたから、その間は、行った先で三度三度、ご飯食べさせてもらったから、その分は助かるわけで、だからその点でもよかったです。あの終戦の当時の食糧不足の時でも、ワシラ向うへ出てたから、配給の頃は、それそっくり残ったからね、そん時も助かったです。猟師やシャクシぶちの人は、食糧自分の家から持ってかねえなんねえだけど、ワシラは向うで食べさせてもらったからね。
これらの野ネズミ大発生は、私たちの想像しえない世界であるが、森林の中に暮らす場合には数年に一度襲ってきたことを推察させる。集落のまわりを毎年春に焼き払って草地として維持し森林と距離をおく。そして縄文時代の貯蔵穴、特にフラスコ状土坑。ドングリなどを貯蔵したであろう装置は集落から離した。あるいは水場に植物繊維のカゴに入れて貯蔵(灰汁抜きを兼ねて)したものだろう。
柳津町の石生前遺跡等の巨大な縄文土器は、貯蔵坑と同じように野ネズミ等から集落の堅果類を護るために作られたのではないだろうか?