【むら歩き】 先人の経験・コメカボイ | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

奥会津を学ぶ

【むら歩き】 先人の経験・コメカボイ 

2023.08.15

菅家 博昭(かんけひろあき)

 1990年10月、『舘岩村史』のための発掘調査で湯ノ花温泉の民宿に逗留した。クルミ、クリ、カヤの実、トチの実を利用したといい、詳細を聞き書きしたことがある。その際、奥会津に暮らしながらはじめて知ったのはトチの実のアク抜き技法が異なる点であった。我が家では木灰を利用し流水に浸けていたのだが、湯ノ花ではトチの実を「温泉に浸けた」といい、流水より早くアクが抜けたという。トチモチ、トチガユにして食べたという。
 秋彼岸のお帰りの日が、トチの実とカヤの実の山の口開けで、その日だけでも1~2俵拾った。トチモチは「コメカボイ」で、昭和時代のはじめころまでコメは秋上げで3斗5升で1俵を6、7人家族で一冬喰った。湯ノ花で田んぼができたのは100年前(星昭太郎氏・昭和2年生)だという。
 1986年1月25日、私の祖母・トシ(明治生)に聞いたのは、風呂についての話だった。隣家に行き、もらい風呂をすることで我が家の風呂を焚かずに薪木を節約したという。そうしたことは集落内で特に冬に輪番のようにした。
 「ふたばんげでたてけえしを、みばんげにして木をかぼう」(2晩おきを3晩おきに風呂を焚き、薪を節約する)と語った。また出稼ぎは「コメカボイ」であり、家の穀類を減らさない工夫として、出稼ぎがあったという。
 冬期間のコメカボイ(米庇い)について『只見町史第3巻・民俗編』(1993年、73ページ)は、雑穀ならびに野菜のカテ飯を中心とする食事を行って米の消費を抑えること、これがコメカオイである。雑穀食は、もちと粉食が主で、夏期の粒食と対照をなしている。冬期は、年末ならびに望(もち)の正月など、もちをつく機会がたびたびあって、その都度雑穀もちをたくさんつく。アワモチがそれである。それとともに、トチもち・クサもち・イモもちをつく。クサもちは、屑米粉にヨモギまたはヤマゴボウ(オヤマボクチ)の葉をつき混ぜ、イモもちはモチ米にサツマイモまたはジャガイモをつき混ぜる。これらのもちを、ご飯に代えて日常的に食する。また、クサもちとサツマイモもちは、寒気にさらして加工し、耕起などの農作業の際のコビルとして食するのである。粉食はソバ粉中心で、ヤキモチまたはダンゴにして食する。ヤキモチはソバ粉だけのものと、中にアンや納豆または漬け菜を入れたものとがある。
 ご飯のカテはダイコンまたは菜っ葉で、夏期のムギ・アワと対照をなしている。ダイコンをダイコツキで突いたうえ、さらに細かく包丁でたたき、ご飯に炊き混ぜるのがダイコマンマである。一方、菜っ葉はダイコンの葉とカブの葉が材料で、干し菜と漬け菜との別があるが、ともにカテ切り包丁を用いて盤の上でたたいて細かくし、ご飯に炊き混ぜるのである。
 
 縄文時代の中期に、奥会津でも家屋内に複式炉が登場する。土器埋設部・石組部・前庭部の3つの構造を持つ炉である。東北地方から北陸地方に複式炉は分布するが、福島県内の中通りが分布の中心のようである。積雪地帯で、トチノミなどを食するための木灰を確保するための機能と言われもいる。
 冷涼化がはじまる4.3ka(4300年前)イベントに関連(?)して複式炉は登場し、寒気のピークに姿を消した。後・晩期の冷涼期に重要な食糧源となったトチの実は、もはや複式炉から排出される灰で処理できる量をはるかに超えてしまった。トチの実を大量に灰汁抜きできる新しい装置(水場の木組み遺構など)に取って代わられた。注口付浅鉢が複式炉(火)への信仰に関連するとすれば、これも冷涼化した環境へ対応するための、技術(複式炉)、生業(トチ)と絡んだ精神的対応とみなせる。注口付浅鉢は煮沸による油脂利用や油脂を多く含む煮沸料理の可能性がある(安斎正人『縄紋時代史・中』敬文社、2019年、365ページ、376ページ)。

 磐梯町・猪苗代町の法正尻遺跡では、磐越道工事前に1988年から2年におよぶ大規模発掘で縄文中期の住居跡127基が確認されその推移が明らかになっている。福島県文化財センター白河館では、2021年に2回にわたり法正尻遺跡の討論を行った。当時発掘調査を担当した松本茂氏と再検討を行った本間宏氏で行っている。
 私が興味深く感じたのは季節性への配慮とした考察である。多雪地帯において定住集落を営む場合は、冬季に使用する焚き木の保管場所が必須となる。縄文中期の長方形住居跡で炉の位置が偏在する事例が中越地方などに認められるが、住居の片側半分を焚き木の保管場所とした可能性も考慮する必要があると松本氏は指摘した。この視点に立てば、法正尻遺跡では、炉を持たない小型の竪穴遺構を「住居跡」と取り扱っているが、物置小屋の機能を有する竪穴遺構があった可能性も考慮しなければならない。また、同一の住居跡に複数の炉が存在する場合、使用頻度の高い炉と少ない炉の違いが季節性を反映している可能性がある(本間宏ら「縄文中期法正尻遺跡の再検討」『研究紀要』第20号、2022年、75ページ)

 法正尻遺跡の貯蔵穴の分析を松本茂氏が行っている(『研究紀要』2018)。1㎥の容量の土坑に貯蔵されたどんぐりで、2.92人の基礎代謝量をⅠ年間賄うことができると仮定、遺跡の総容量を掛け、何人が一年間食べていけるかを算出。検出された住居から算出した総人口で割り、その値を遺跡の人口支持力として遺跡ごとに比較した。
 8㎥を超えるような超大型の貯蔵穴を持つ遺跡では、人口支持力が8以上、4~6㎥の土坑が造られている遺跡では、人口支持力が2~3,1㎥以下の小型の土坑が80%以上を占め、大きなものでも2㎥を超えないような遺跡では、人口支持力が1未満の集落が多い。
 人口支持力が2程度の評価については、住居の存在期間の半分が土坑の存続期間とすれば2の数字は理解しやすい。また、どんぐりが豊作・凶作を隔年ごとに繰り返すため、豊作の年に2年分蓄えている可能性を考えても良い。人口支持力が8もあるような遺跡は異常な貯蔵量であり、消費者は集落の構成員だけなのか、より広い地域の人も含んでいるのか、そもそも消費者は人間だけなのか、さらにどんぐり採集のシステムはどのようなものか、としている。