菅家 博昭(かんけひろあき)
研究の進展したものに磨製石斧がある。
日本の後期旧石器時代には打製石斧の先端のみを磨いた刃部磨製石斧が利用された。縄文時代には伐採斧、加工斧として磨製石斧は広く使用されている。縄文石器を特徴づける複合技術系列の石器群で、膨大な時間を要する研磨加工を効率的に行うためにも前段階の原石の直接打撃による剥離調整(敲製技術)や切断調整、擦切技法による石の分割なども行われている。特に敲製技術が重要である。
この石の形態を変える敲製技術は、欠損を顧みずに大量の素材・石材を利用できる環境での磨製石斧製作が必要となる。そのため石材産地による原産地型製作、磨製石斧の移動・交換が行われるようになり縄文時代の交換組織網が確立していく(長田友也『縄文石器提要』2020年、79ページ)。
縄文中期の定角式磨製石斧は河川流域などの小地域ごとに、地域の石材(火成岩類)などを用いて加工した。小規模な磨製石斧分布圏を形成し石製儀器の石棒があり、晩期になると細長い石棒、石剣、環状石斧、独鈷石などが製作された。
北海道・東北北部では早期に成立した擦切磨製石斧のなかで、特に北海道日高地方に産するアオトラ石(緑色岩、縞模様)が注目されている。これは縄文前期以降も使用されている(長田前掲書)。
福島県内のアオトラ石の資料は芳賀英一氏が集成している(「北の国から まほろん収蔵アオトラ石製磨製石斧」『福島県文化財センター白河館研究紀要2015』2016年)。まほろん収蔵資料のなかで21遺跡・69点の実測図を掲載している。
会津地方では会津美里町(旧・会津高田町)の冑宮西遺跡の前期の資料が出土している。磐梯町・猪苗代町の法正尻遺跡からは8点で前期から中期のものである。
奥会津の各町村の石斧を見直し、個人所有等も含めて調査が待たれる。
磨製石斧類は北陸からということに加えて北方からの流入も考える時代になっている。
喜多方市(旧・高郷村)の縄文中期の博毛遺跡は古川利意氏らが発掘調査をしたが、ここで磨製石斧4点を土器に入れて埋めた(埋納)ものが発見された。
この類例調査を行った栗島義明氏は「磨製石斧の土器収納」(『資源環境と人類』第12号、2022年)で、
「縄文人にとって生活必需品である磨製石斧は黒曜石などと同じく、基本的には生活圏内での入手が不可能な搬入資材として位置づけられていた道具であった。しかも、大型品ともなる15cm以上の製品ではその重量が200~500gにも及ぶのが通常で、大口径の原木伐採からその加工、浅鉢や壺、皿、椀などの木製容器から石斧柄、丸木弓など木製用具の製作、更には住居用木材の分断・加工、水場の貯水升の設置や木杭の製作など、磨製石斧の用途範囲と使用頻度は実に後半に及び、縄文人にとって磨製石斧の装備確保とその維持は、生活を続けるうえで決して避けて通れない重要事項であったと認識される。土器に収納された定角式の石斧はそのような様々な生活・生産の場面で効力を発揮する道具であり、大中小の形態差はそのまま上記した場面での使い分けを反映していた」
「磨製石斧は、道具としての汎用性が極めてたかい必需品で、多くの集落は他地域からの定期的な供給を待つしかなかった。磨製石斧が破損後も大切に扱われ、貴重な石材を究極まで使い切るという縄文人の「道具扱い」については、改めて説明するまでもない周知の事実と言えよう」