舟木 志子(ふなきゆきこ)
「母を在宅で看取ることが出来るだろうか」そんな由美さんの不安を払しょくしてくれたのは、入院先である宮下病院の医師の「全面的にバックアップします。」という力強い言葉だった。
令和3年秋。この前年から流行し始めた新型コロナウイルス感染症の影響もあり、病院での面会は限られていた。「悔いのないよう母を看取りたい。」由美さんはその想いを強くしていた。
由美さんの母、角田ハルヨさんは昭和5年、柳津町西山地区の黒沢集落に生まれる。両親は早くに他界してしまったため、きょうだい達と共に、とにかく働いた。湯八木沢に嫁いでからも、夏はご夫婦で土木作業員として、冬は出稼ぎに出ていた夫に代わり、雪かきをし家を守りながら針仕事。由美さんの記憶にあるのは「よく働き、きれい好きで、気丈で厳しい母」だったと言う。
3人の子供を育て上げ、夫婦2人でようやく少しはのんびりできると思った矢先の平成9年、交通事故でご主人を亡くされる。突然の夫の死にもハルヨさんは気丈だった。泣き言を言わない母の事が、由美さんは心配だった。口に出さないだけで心の整理がついていないことを、よく分かっていたからだ。一人にしておくのは心配で頻繁に実家に通う由美さんが、少し長居をすると「自分は大丈夫だから、家の人が待っているから、早く家に帰って」と、娘を気遣った。
時々体調を崩したり、不安感に駆られる様子の時はあったが、畑仕事を楽しみながら、湯八木沢の家で一人暮らしを続けた。子供たちや孫たちが来るのを何よりも楽しみに、励みにしていた様子だった。
平成27年、柳津町の西山地区のちょうど入り口に「柳の杜」というグループホームが出来た。ハルヨさんはこの施設の前を通るたび「ここにだけは入りたくない」と言っていたそうだ。その前後から薬の飲み間違えがあったり、食事の支度が思うように出来なくなったり、使い慣れたはずの家電の使い方が分からなくなったりしていて、デイサービスやホームペルパーなど、介護保険のサービスを利用し始めたころだった。由美さんは時間を見つけてはハルヨさんの身の回りの世話に通っていた。しかし冬の雪かきなどはご近所の方に頼るしかなく、申し訳なく思っていた。
柳津町には「高齢者生活福祉センターのぞみ」という、一人暮らしの方が冬の間だけ入居できる施設がある。平成29年の晩秋、ハルヨさんはこの施設に「しぶしぶ」入居し、ホームヘルパーなどの介護保険サービスを利用しながら一冬を過ごした。その頃には食事の支度、洗濯や掃除、薬の管理など、生活の様々な面において介護が必要な状態になっていた。
翌年、平成30年の春、ハルヨさんは「もう家で一人暮らしするのは無理。」と言い、グループホーム「柳の杜」に行くことを自ら選んだ。以前に「ここにだけは入りたくない」と言った施設だ。
柳の杜に入所したハルヨさんは、由美さんが驚くほど、見る見る元気になっていった。グループホームとは、介護保険法上は認知症対応型共同生活介護と言われる施設で、少人数のグループで支援や介護を受けながら、家庭に近い環境の中で生活を送ることが出来るのが特徴となっている。
ハルヨさんはここで、9人のお年寄りと、数人の職員とともに家族のように過ごした。一緒に食事をし、お茶を飲み、テレビを見て、他愛もない話に笑いあった。モップがけは日課となり、職員と一緒に料理を作ったりもした。ここにはハルヨさんの役割があり、大事な居場所となっていった。何より認知症のことをよく理解している職員はとても頼もしかった。
入所当初、由美さんは「あんなに入りたくないと言っていたのに」と、申し訳ないような、後ろめたいような気持ちでいたそうだ。しかし晩年ハルヨさんは言った。
「自分はここに来て一度も嫌だと思ったことは無い。ここに来て良かった。」
由美さんは心から救われた思いがしたという。
出稼ぎの父を見送る母の背は大きくもあり小さくもあり