五十嵐 乃里枝(いがらしのりえ)
初夏、奥会津では桐の花が紫にけむる。その桐の花より一足早く、杉林のあちこちに紫色の花を咲かせるのは藤の花だ。杉の木の先から花穂が垂れ下がっている様を天然の藤棚だ、などと喜んでいた時期もあったが、実はこの状態は山が手入れされなくなっている証だということを知った。間伐や下刈りなどの手入れがされない杉林には藤や蔦がうっそうと生い茂り、冬になると積もった雪で枝や木が折れ度々停電を引き起こす。
そんな荒れた山を手入れし、活用するには、まず伐期を過ぎた木を伐ることから始めなくてはならない。そのためには木を伐る人を育てることが急務であるということで、チェーンソーの目立てと基本的な伐採技術を身につけてもらう「山学校」が始まったのは8年前だ。木を伐るといっても一本一本の状況、立地の状態が違うわけだから、安全な伐採にはそれなりの技術が必要だ。とはいえ毎年5月から11月まで、1月に1回の開催学べることは限られているが、リピーターも含めて毎回有意義な機会となっている。そういえば、この山学校がきっかけで林業の世界に足を踏み入れ、木こりになることを決意した青年もいるから、それなりに意味があるのだと思う。
毎年5月の第1回目の山学校で、現場の林に行くと親方が決まって言うことがある。
「山を手入れする時には、この林を100年後、200年後、どんな杉林にしたいのかを考えるんだ。そう考えてはじめて、どのタイミングで、どの木を伐っていくのかを決めることができる。」
初めてこの言葉を聞いた時、自分は一瞬戸惑った。そんな先のイメージを思い描けなかった。100年後とか200年後には自分はもちろんこの世からいなくなっているし、子どもたちや孫たちも、どこで何をして暮らしているかもわからない。ましてやこの地域に人が住み続けているかどうかもわからない。その時にこの杉林がどうなっているかなど、そんな先のことは自分の想像の範囲を超えていた。しかし、この目の前にある杉林は、先人がそういう未来を描きながら苗木を植えたからこそ、ここに存在している。自分の代で切ることはできなくても、子どもや孫、または曾孫の代に残して、100年後、200年後の未来に役立てるために、苗木を植えて、育ててきた結果の杉林なのだ。
一方世の中では、近年スマートツリーとか、早生桐とかいう成長の早い樹木が開発されている。比較的成長の早い桐の木でも製品になるのに少なくとも35年程はかかるが、この早生桐は5年で15mにもなり、商品化も可能という触れ込みだ。つまり植えた人の代でその木が利用でき、さらにそれをバイオマス燃料にして燃やして発電していこうという流れになっているようだ。しかし、それってどうなのだろう?と思う。
ネイティブアメリカンのイロコイ族の教えに「どんなことでも7世代先のことを考えて決めなくてはならない」という言葉があるが、この自然は7世代先の子孫からの借りものだという考え方だ。大いなる自然の時間の中では、人間の一生など短いものだ。それが、都合のいいように自然をコントロールし、自分の代でとにかく儲けるために、いいところだけ利用していけばいい、などと思っているとしたら、それは思い上がりというものだ。
この人間の無礼な振る舞いに対して、自然はどのようなやり方で教えを示してくれるのだろうか。