『蘇る風光~東北・会津 竹島善一写真展』 | 奥会津ミュージアム - OKUAIZU MUSEUM

奥会津に生きる

『蘇る風光~東北・会津 竹島善一写真展』

2024.03.15

竹島善一氏 ギャラリートーク

須田 雅子(すだまさこ)

2022年6月18日
三島町交流センター山びこギャラリーにて

会津との馴れ初め

私が会津へそもそも馴れ初めた経緯(いきさつ)については、よく人から聞かれ、そのたびに同じことを、レコードじゃないけど繰り返して話したり、書いたりしてきましたが、この三島町へ初めて乗り込んだのは昭和49年でした。会津西方(にしかた)という駅へ降りた。

あらかじめ、東京で買い求めた五万分の一の地図、僕は五万分の一の地図ってものを東北でこれから行こうと思った所、ほとんど全部買い揃えて、頭の中で地形を読む。それから、道路や町の大きさをそこで計る。まず、「地図を読む」ってことから始めたんですよ。

地図で頭の中に入れた通りに、西方の駅から桜並木に従って村へ入って行った。カメラを一台さりげなく持って、村の中の通りを行ったり来たりしながら。物珍しそうに歩くっていうそぶりを人様の土地で示すっていうのはとても失礼ですから、なんとなくという形でぶらぶらしてた。そしたら、ちょうど昼ぐらいになったんですね。お年寄りの声で、「昼だ!昼だ」って声が聞こえたんですよ。人通りがない所で、誰かに声をかけてる。僕っきり聞いていないはずだと思ったら、おばあさんが私の顔を見ながら、「飯食えや。昼だ。飯食えや」って言ってくれた。「私のことですか?」って言ってね。そのおばあさんの家(うち)の中に入っていったら、なんと!もう昼飯(ひるめし)が出来てるんです。トマトを使った、あれはスパゲッティですね。ナポリタンて言うんですかね。僕に言わせると「西洋うどん」。それと牛乳が置いてある。西洋料理なんですよね。

この山の中で、昔の宿場町の雰囲気の西方のメインストリートに、まだまだ茅葺きの家(うち)が結構多かった。そこで西洋料理!

我が家では滅多に、というか西洋料理なんか食べなかった。東京の食事っていうのはね、もう地(じ)のもの、「江戸前」って言葉ありますけれど、江戸前のものっきり普通の人は食わなかったわけで。ましてね、我が家は保守的な家(うち)だから、三度三度、米の飯が食えたら最高だった。戦争中、うどんは代用食だったし、もっとひどい芋は代用食のまた代用食っていう時、ハイカラなスパゲッティなんてものは我が家で出ることは絶対なかった。僕はまずねえ、生まれて初めてスパゲッティを食べて、牛乳っていうものを、生まれてその時初めて飲んだの。この牛乳も何とも言えない味がしたわけ。「これ、うまいか?」って言うから、「んんんん」っと口を濁してたら、「これ、ヤギの乳だ」って。そう言えばヤギがいた。

僕はねえ、目の前の、生まれて初めてっていう食べ物に驚くと同時にね。一番驚いたのは、「人っ子一人いないな」と思って、「誰か出てきたら写真なり撮らせていただこう」なんて思っていた時に、その人っ子一人いないと思っていた町の中で僕を見てた人がいたんですよね。しかも!昼飯が近づいたら、食堂なんかないんだから、密かにスパゲッティを茹でてたんだねえ。いやあ、この目の前の料理と同時にね、その「接待」だね。見知らぬ人に対して、昼飯を振る舞うってことをね、密かにやってたそのおばあさんに、もう痺(しび)れましたよ。あぁ、これが会津なんだな。いや、これが旅なんだ。本当の旅ってのは、こういうもんなんだって、つくづく思った。

後で聞いたけれども、ちょうど、この町で「ふるさと運動」っていうのを始めた直後だったらしいんですよね。だから、その後だったか、二、三、面識ができた人なんかから一様に、「写真屋さんは、ふるさと運動で来たのかな」ってよく聞かれましたよ。だけど、ふるさと運動なんてことは、僕は全然関心なかった。五万分の一の地図、多少の旅の経験から、「ここには何かある!」そういうふうに思った。これは今にして思うけど「当たり」だった。この西方だけ、三島町だけじゃなくて、会津どこでもそう。

鰻屋の道楽

実は、元々、僕はカメラっていうものを手にしたわけじゃなかったし、写真撮る気があったわけではないんです。どちらかと言えば、絵描きになりたいと思っていたくらいで、絵を描いていた。ところが、私の職業は鰻の蒲焼屋なんですよね。蒲焼屋で水彩画ならいいけど、油絵を描くっていうことはね、においはするし、それから、油絵ってのは乾きが遅いですから、家(うち)じゅうあっちこっち油絵具だらけになっちゃうんです。もちろん手を拭くんだけど、恐らく蒲焼にはつかないけど、重箱の底なんかに絵の具なんかついちゃうっていう恐れもあった。父親なんかから、「もう道楽もほどほどにしろ」ってご法度が出て、絵は断念した。

でも、何かしなくちゃいられない。そんなに繁盛する商売じゃないから、一日中仕事があるわけじゃない。「商(あきな)い」は「飽きない」とはよく言ったもんで、鰻屋なんていう商売は蕎麦屋さんみたいにしょっちゅう客が出入りするわけじゃないから、何もしない時間の方が多い。それで私は本を読む。それから音楽を聴く。そういう道楽を続けて、絵を忘れようとしてた。結構な道楽だったと思いますよ。絵の代わりに読書三昧。何でもいい。読める本を読む。決して高尚な本を読んだわけじゃない。何しろ本なんてものは全然ない時代に、小学校、中学校卒業した。あの戦争のさなかに、教科書だってない時代だったんですからね。新聞紙(がみ)一枚にとりあえずの教科が刷られた教科紙、それが教科書だったんです。だから、活字になっていれば何でもいい。そういう読書。

それから音楽っていうものを、ものすごく多感な時期に初めて西洋音楽を聴いて、すごく痺れちゃった。読書と音楽で結構な趣味を持ってたんだけども、数年間続けているうちに何か物足りない。つまり、読書も音楽を聴くのも、そこに創造がないわけですよ。音楽も自分で演奏するわけじゃないから、何かを創造するってことがない。

とやかくするうちに子どもが生まれた。子どもが生まれると子どものかわいい姿を撮りたいって誰でも思う。有り無しの小遣いで、中(ちゅう)古(ぶる)の安いレンズ、シャッター付きのカメラを買ってきて、子どもの写真を撮り始めた。多少絵心もあったりしたから、まったく幼稚なカメラだったけれども、それなりの写真が写せるようになった。そのうちに、もう少し高級なカメラで、「かわいい、かわいい」だけじゃない子どもの写真を撮りたいって。何しろ、商売してる以上、店を空けるわけにいかないから、家(うち)の中で撮れる写真って言ったら、家族、子どもっきりいない。それで少し高級なカメラを買おうと、中(ちゅう)古(ぶる)でやっとこさっとこ、キャノンの古いカメラを買って子どもを写し始めた。フィルムの現像やプリントは、あの頃は街に現像、焼き付け、引き伸ばしをしてくれる「DPE写真屋さん」てのがいくらでもありましたから、そこへ発注して写真を撮り始めた。最初のうちは、写してれば我が子だからかわいい。その満足から、もう少し光の具合を考え、我が子の写真じゃなくて「子どもの写真」っていうものを撮ってみたい、そういうふうに思い始めた。つまりね、父親が撮る写真じゃなくて、写真家の撮る写真、そういったものにひとりでに移行してったんだな。当時は私みたいに考えた人たちが大勢いたんだと思います。

朝鮮戦争でアメリカの有名なカメラマンがニコンのカメラを使ってる。あの弾丸の雨の中で、塹壕の中に飛び込んでも壊れない。泥だらけになっても洗えばちゃんとシャッターが落ちるっていう。ニッコールのレンズがドイツのライカのカメラと遜色ない写り方をするっていうんで、朝鮮戦争後の特需で日本の経済が急成長したんだけど、その中でもニコンを始めとするカメラ産業っていうのが、今の自動車産業と同じように外貨獲得で、急成長した。そういうさなかに、私のカメラ道楽が一緒に引きずられていったわけです。

カメラで何を撮るか

子どもの写真を、いわゆる「ポートレート」の写真として撮る、に進化させた。だけど、子どもの写真だけじゃ気が済まなくなって、多少は風景写真も撮るようになる。景色のいい、美しい写真。何事も美しいっていうのは、一番大切なスケールっていうか基準ですから、東京じゅうの美しい景色を撮ってみた。じゃあ、「美しい」ってのは、どういうことか。これが問題ですよね。神社仏閣、庭園、そういったものは美しく出来てる。しかし、東京ってのは、一番古いもんだって300年の歴史っきりないわけですよ。その頃、新幹線が昭和39年に開通しましたよね。私は少し生活にゆとりもできたせいもあって、京都とか奈良へ日帰りで旅行して写真を撮るようになった。その時、東京ってのは、向こうの西の人から見たら、もう「東(あずま)乞(こ)食(じき)」ってなもんでね。文化のない所。その逆にこっちから行ってみたら、もう街角のお稲荷さんの祠(ほこら)一つにしたって、石地蔵にしたって、いかにも意味ありげでねえ。名品ばっかりなんですよ。当時は、法隆寺だって何だって拝観料とるわけじゃない。唐招提寺だって何だって、もう門は開けっ放しでねえ、自由に拝観していい(注)。観光客がお寺に来る、なんて前の話だったから、いくらでも写真撮ることができたわけ。だから、奈良、京都の写真たくさん撮りました。しかし、これは長続きしなかった。すぐに飽きちゃった。あまりにも景色が良く出来すぎちゃってる。だから、自分を発揮する余地がないんですよ。被写体の方が偉すぎちゃうわけ。東京で、近所のおばあさんがお百度踏んでいるお地蔵様をなんとかきれいに撮ってみよう。縁日の時に、(お地蔵様の)エプロン変わったから、これ撮ってみよう。そこにはある種の創意工夫をこらす余地があったんだけどね。奈良、京都はその余地がないくらい立派だから、もう飽きたっていうか、こっちが引き下がる以外ない。

未知の国みちのくへ

そんなこんなしてる時に、僕の目を当然惹きつけたのは、「東京村」っきり知らない江戸っ子にとって、うんと未知の世界がある「みちのく」だ。芭蕉と同じことになった。

昨日、高速バスでここまで来ました。阿武隈のサービスエリアはトイレに寄るだけの小さな休憩所でしたけど、トイレの脇に石碑が立っていたんです。「芭蕉の句碑でもあるのかな」と思って、そこまで行ってみましたよ。そしたら、そこにね、「これよりみちのく」って彫ってあった。はぁ、そうか。「これよりみちのく」。そう、「みちのく」。ひらがなで書いてあったけど、道の奥ですよね。つまり、奥羽とか東北っていうものが、ついこの間まで、蝦夷の人たちが住んでた所だったわけだ。本当に未知の国だった。芭蕉を惹きつけたのもそれだと思うんですよね。

芭蕉は関西の人ですから、関西の人が東京へ来て、そして、その次に旅心誘(いざな)ったのはやっぱり「みちのく」だった。芭蕉なんてその頃、別に常識の下ぐらいっきり知らなかったけど、そういうものが東北っていう所にあるんだよ。

僕は最初に新潟県辺りから始めました。新潟から始めて、日本海へ出る。そして、羽越線っていう汽車を、ずっと酒田を通って秋田まで行きますけれども、その汽車も、どこそこ行きの切符っていう旅ではなくて、東北周遊券って、あの頃、自由に乗り放題、一週間でいくらっていうような切符をとても安く、当時の国鉄が売り出していましたから、その切符を買って夜行列車にもぐりこむ。夜が白々と明ける頃、左側に日本海の海が見える。それを北上して頃合いの所で降りる。そして、夜行列車に乗っかって帰ってくる。

商人(あきんど)で、特に飲食店で、連休するなんて、週休二日制なんてことはありえませんでしたから、夜行で行って夜行で帰ってくる旅を続けた。だから、冬なんか夜行列車で帰る前に太陽は日本海へ沈んでいってしまうわけ。写真にならない。しかも、僕を一番驚かしたのは、まったく超当たり前のことなんでしょうけども、太陽が海に沈むってのを初めて見た。

表(おもて)日本(にっぽん)に住んでる人間というのは、「初日の出」っていうのを拝む。東京の人間も正月元旦に海を見に行きますよね。そして、昇ってくる太陽に向かって手を合わせる。会津の田舎でも正月に「天照皇大神」の軸なんか掛けてありましたけど、農業国である日本国民にとっては、「太陽神」っていうものは、宗教以前の信心だったわけです。その太陽が沈んでってしまうっていう所に住んでいる同胞もいるんだ。僕にとっちゃこれは、天動説だか地動説だかの「コペルニクス的転換」でしたね。結局、そこで太陽の写真撮ったわけじゃない。それ撮ったって、「これ日の出?」と、東京で見せたやつは100人中99人はそう言いますよ。だから、僕は写真には撮らないで、陽が沈んでいくのをただ呆然と眺めた。

会津にたどり着くまでの東北地方は、私をなんとなく「こちらの方面へ行ってみよう」っていう気にさせました。そういったものを感じる能力、「嗅覚」っていうものは必要ですよね。旅ってのは、未知の場所へ足を踏み込むのが旅だと、私(わたくし)は思ってますから、団体旅行くらい大嫌いなものはないですよね。とは言え、団体旅行で行かなければ行けないっていう時には、仕方なしについてったりしましたけれども。

僕は『奥の細道』を書いた芭蕉をよく思い出すんです。芭蕉が「漂泊の思いやまず」と言って、江戸から日光街道、千住から北上して行きましたよね。あてどがないようだけども、芭蕉には確としたあてはあったわけですよ。みちのくを訪ねてみる。だけども、どこそこへ行くっていう、そういうものじゃない。歩く。歩くっていうこと以外に移動の方法がなかったわけですから、細かなスケジュールを立てようがない。芭蕉はどちらかというと太平洋側から北上して途中から鳴子温泉を越えて、日本海に出たんですけど、私はその芭蕉と逆回りに東北へ行ってみようと思った。芭蕉に逆らったわけじゃない。

偶然の成果

会津の写真行脚でもそうでしたけれど、僕がこの50年間、そういうハードスケジュールを続けてきたことの一つの成果は、決してフィルムだけじゃなかった。つまり、フィルムに映らない旅の成果こそ!僕をこれだけ駆り立てたものだった。

私がそのようにして感じたことなんかは、あとから、書物なんか読んだり、偉い人の論文だとか何かに書かれたのを見ると、一行か、二、三の言葉でビシッて語ってますよね。しかし、僕は書物で語られてる立派な言葉の前に、自分でそれを現場で確認したっていう、その発見が、僕の旅だった。これは、会津へ来始めて、こういう写真がたまってきた原動力の原点だと思うんですよ。

まず、自分に無いものを追う、自分の常識、自分の固定観念っていうものを確認する、追認するっていう、そういう旅ではなかった。結局ね、「偶然の成果」っていうかな。偶然の成果っていうものはね、期待した成果なんかよりも遥かに勝る!と思うんです。

この写真、全部、行き当たりばったりのもんですよ。お祭りの写真もある。葬式の写真もありますよ。今から思うと、当時、この西方なんかでも土葬でしたから、土に返す。もちろん、東京でもお骨にして、墓にして、土に返すために埋めるわけですけども、ここでは、亡骸をそのまんま言葉通りに土に埋める。そして村の人たちが本当にそれぞれの役割を果たして、墓地まで行列を作っていく。霊柩車に乗っけて、「はい、出発ですよ」と、あとを遺族たちがマイクロバスでついていくっていう葬式っきり知らなかった私が、西方でたまたま葬儀に出会ったんですよ。その日いつものように、春先だったけれども、お寺の後ろの山へ、なんとか雪道を登って上から俯瞰した。西方の部落を撮りたいと思って、カメラ持ってきたら、いつも人がいない部落ではあるけども、その日はまったく誰にも会わなかった。それで、西方の一番下(しも)の所へ山から下りてきたら、黒い装束を着た人が道端にずーっと並んでて、「あ、葬式があったんだ。それで村じゅうの人たちがここへ来ちゃってたんだ」って僕は思ったんですけども、たまたま、そこで葬儀の写真を撮らしてもらいました。

僕は人様の葬儀にカメラを向けるってのは、本当に失礼なことだとは思ったけれど、自分としては精いっぱいの弔意を表明しながら、写真を撮らしてもらいました。その時に払子(ほっす)を持って立派な袈裟を着たご僧侶が出てきて、それが遠藤太禅師だったんですよ。遠藤太禅師っていう人を垣間見た最初はその時でした。あの日のことは忘れられない。

「野辺の送り」、そういう言葉は僕知っていた。しかし、火葬場へハイヤーの行列を連ねて大通りを突っ走っていくのとは違う。それぞれの飾り物をつけて、役割が決まっているんでしょうね。全員が何とも言えない弔意を表明してるってのは、もう村の雰囲気そのものだった。たまたま結婚式の場面に遭遇した時なんかは、「いやあ、これは縁起がいい。素晴らしい」と思ったけども、あの葬儀の写真を撮らしてもらった時のことは忘れられません。

撮影の姿勢方針

結局、そういったことを続けながら、「そうだ、一枚の傑作写真を撮ろう」なんていうようなアマチュアカメラマンの気持ちで何年会津へ通っても、所詮は「これだったら、応募したらコンテストで一等になるかな」ってようなね、そんなアマチュアな楽しみでしかない。「そうだ、ここで人々の行われている日常の営み、そういったものが作り出した景色、情景っていうものを、丹念に積み重ねて撮っていこう」と、しっかりした姿勢方針が決まってきた。これが決まってから、私は初めて写真を撮れるようになりました。それまでは、自分の目で、自分の目ってのはとりもなおさず、自分の心で価値観を決めたものを会津の土地の中でピックアップ、探してたんですよね。紳士的に振る舞っていたかもしれないけど、心の中では、「おいしいもの」、自分にとっておいしいものを探してた。

しかし、そうじゃない。この今、この地域、この村を形作っている、その一つ一つの些細な出来事、人々が生きてきた証の道具、そういったものを丹念に記録しておこう。そして、何よりも私の強みは、私には写真の他に職業があって、その本業さえ怠らなければ、この写真で利益を上げる必要はないんだ。つまり、写真を飯の種にしなくて済む。飯を食う以上は、それなりの技量がなくちゃ人様から銭はもらえない。しかし、プロだから立派な作品を、立派な写真を撮ってるか。必ずしもそうではないわけ。プロっていうのは、そのことによって生計を立ててる人をプロっていう。だから私のプロとしての仕事は鰻職人ですよね。「あきんど」ですよ。だから、写真で食う必要ないから、本業で稼いだ剰余のものを写真につぎ込めるわけ。だから、写真を撮ってる段階で世に問う必要がないってことなんだ。つまり、撮り溜(だ)めていけばよい。

最初の写真展

今回、こんなふうに思いもかけない写真展になりましたが、僕は写真展ってものを開く意図はまったくありませんでした。僕の一等最初の写真展は、会津で写真を撮り始めて極めて初期だったけど、昭和52年、昭和村で合併開村50周年記念っていう、えらい大きなイベントをやった時があったんです。大芦村やら何やら合併して、その名も昭和の御代(みよ)に「昭和村」って名乗った。それで村を挙げてすごい大イベントを企画した時に、誰からどう伝わったのか、この辺りを徘徊してる東京のアマチュアカメラマンがいる。だから、このイベントに合わせて、その人の写真展を、小学校と役場の一室使って開いてくれないか、そういう話があって、昭和52年に僕の最初の写真展をやった。全紙に自分でプリントして、パネルに貼って。僕は白黒を本分としていたんですけど、その時はカラーの写真も撮ったんですよ。

その当時、カラー写真っていうのが初めて出て、色のついてる写真は高級品で、白黒写真じゃなくて、「え!カラーなの!?すごい!」っていう時代になったから、私もお座敷がかかった以上は、カラーの写真を作って皆さんに応えたいって。「白黒の写真だけでなくて、カラーの写真を今から少し大至急撮れば、その展示に間に合う」って言ったら、役場の人が、「じゃあ、役場のジープを一日竹島さんに提供する。村じゅう案内するから撮って、その会の展示に間に合わせてくれ」と。

会津川口の駅に着いたら役場のジープが停まってましたよ。それで、金山町過ぎて松山の手前の所から、アスファルトが切れて砂利道になる。それが村境(むらざかい)で、昭和村へ入ったとすぐ分かるんですよ。そこから村の中だけ申し訳に舗装してあるだけで、あとは全部砂利道だった。まさにジープじゃなかったらうまく走らないっていうような所。それで一日まわって、写真を撮ったんですけど、あれは贅沢にして貴重な撮影でした。小野川の方まで上がって、あの時でもう廃村になった見沢って村。日落沢はもうなくなっちゃったな。そっちの方へ行って、最後の木地小屋の方や大芦もちょっとまわったりして。それが最初の写真展。

僕のささやかな記録精神

その例外を除くと、僕はまた原点に帰って、ただ、ただ写真を撮り集めていくことを続けた。自分で白黒の写真をプリントして、ネガをしっかりとっておけば、私が死んだあとで、(絶対に写真の良し悪しじゃなくて)「あ、ここに写っていた事実が、50年前、60年前にここの地に存在していた!」と。それだけですごい意味を持ってくるに違いない。

例えば、私がある人物を撮ったとします。そうすると、その背景に部落が遠景として写ってる。もしくは鉄道線路が写ってる。そういったものが、背景のちょっとした寸景が、実は、意味を持ってくるかもしれない。「あの頃、ここに電信柱立ってたよな」とか、逆に、「いや、ここには電信柱立ってなかった」とか。

昭和52年に昭和村へ行ったとき、家(うち)の中で石油ランプがぶら下がってる家(うち)がまだ何軒かありましたよ。もちろん電灯はついてました。それはどういうことかっていうと、ついこの間まで、昭和村でこのランプは現役だったってことを物語ってるわけですよ。会津だけじゃない、昭和村だけじゃない、日本の最後の、幕末時代からの名残の最後の香りが残っていたのが、昭和50年代だったんじゃないか、と僕は思っています。そこに、僕のささやかな記録精神がなんとか間に合った。

こんなふうにして、あっちこっちまわってる時に、我ながら自分のやってる行為に自分自身を激励させたのは、これだけ会津の土地を、こんなに足繫く通っているのに、僕が撮ってるものを写してるカメラマンに会ったことがない。「そうだ!僕が撮らなければ、この村、この町、この集落、写真に残らない!」と思った。

秋になると今年の紅葉の具合は、尾瀬はどうだ、裏磐梯はどうだ、そういうニュースはテレビでも新聞でも出る。そういった所はね、尾瀬なんかは、オーバーユースなんて言葉がはやって、「利用のし過ぎだ」と入山制限する。あの一番格好のいい木が生えてる所では、もう「早くどいてくれ」、「その次、私の番だ」って、あの木道の上に、シャッターを押す順番待ちの人がいる。そういう所には殺到する。しかし、尾瀬だけじゃないんですよね、水芭蕉は。僕が行く南郷村の何でもない農家の勝手口の所に、水芭蕉咲いてますよ。人が住まなくなった廃屋の、昔は「あぁ、これ、庭、築山にしたんだな」なんて所に、水芭蕉がちゃんと咲いてる。その一輪か二輪の水芭蕉、それこそが、僕にとっての水芭蕉なんだ。紅葉もそうですよね。桜もそうだ。

結局は旅!

僕はこれだけ通って、まだ裏磐梯も東山温泉も飯森山も尾瀬も、一度も行ったことないですよ。会津若松のお城も見たことない。会津若松ってのは、次のローカル線に乗り換えるターミナル駅。それだけのことで、会津若松で食事をしたことはない。会津若松で僕が食べる食事ってのは、帰りの上り「ばんだい5号」に乗る時、只見線でそれに接続するってえと、30分間、時間がある。その時に食べる駅蕎麦。それっきり会津若松の食事ってのはない。その駅蕎麦もホームの駅蕎麦より、改札の所にある伯養軒の駅蕎麦の方が値段は同じだけどおいしい。僕のB級グルメですよね。

僕は、この会津へ来る時でも、売れ残った鰻を折箱に詰めて、弁当一食持って、こっちへ通ってきた。食堂がなかったからじゃない。食堂で飯なんか食ってる暇がない。もったいない。その持ってきた折詰めを食べるんでも、屋根の下で食べたくない。「いいなあ!あそこの一本杉に当たってる陽の光。もう少しまわってくると、もっと良くなるんだ!」と、その一本杉と太陽の光の加減を眺めながら、草の上へどっかと座って、持ってきた弁当を食べて飢えを満たす。これがね、僕にとっちゃ無上の幸せ。僕にとって会津へ何百回通おうと、高邁な「記録に徹しよう」とか、いろんなことを言ってるけど、結局ね、旅だったんですよ。面白いから続くわけでね。人の決心なんてものは長続きしない。商売でも何でもね、面白くあってこなくちゃだめですね。

農の風景

働くのも何でも、農業なんかでも、僕そうだと思う。このじゃがいも育ててキロいくらになるとか、今年の米の値段はどうのこうのと商品を作るんじゃなくて、僕はね、農業ってものは、やっぱり「育てる」っていう喜びがあるから作るんじゃないかと思うんですよね。

僕が宿にしてた西方のある農家では、僕があんまりそこの家(うち)の里芋を誉めるもんだから、「竹島さんのために、いつでも一畝。竹島さんの里芋の畝はここなんだ」って作ってくれるようになった。そうすっと、もう本当にね、その家(うち)に行くといつでも、朝なんか一番に行くと、私の里芋の葉っぱの上に水滴が転がってますよね。「いやあ、随分あれだねえ、今年、俺の芋、育ちがいいね」って言うと、「いや、駄目なんだよ、竹島さん。葉っぱばっかり育っちゃってっから、芋はいいものはできねえ」。「なーるほどな」ってね。

そんなこんなやってるうちにね、刈り入れ前の稲穂を見て、「今年、七俵ぐらい出来るかな」なんて言うと、「そう、今年は七俵できるな」とかね。大体の反あたり収量も当たるようになりましたよ。

僕が会津で一番撮ったものは、「農」の作り出した景色。それはすぐ分かりました。結局、何を撮ろうと、何にカメラを向けようと、その基盤を成しているのは農業なんだ。なくなっていくものから写真に撮る。写真は絵と違うから、現物がなかったら写真が撮れないわけです。

ひと頃、SLブームなんていうのがあって、僕が来始めた頃なんかはもう、夜行列車に乗ってくるとSL目当てのカメラマンてのは必ず乗ってたものでした。その人たちはSLがなくなっちゃったら、もう会津には来ないんです。その次、SLが走っている所へ今度行くわけです。だけど僕はその時つくづく思った。「ああ、この次なくなるのはSLじゃない。この線路だ。この線路がなくなっちゃう」。私は意地が悪くてそういうふうに悲愴に見るわけじゃないけど、そういうのが見えてくるわけですよ。

なぜかって言うと、僕が初めて来た頃に人が住んでいた家が空き家になってる。人が住んでいても、ついこの間まで、軒下や納屋に、鎌やらね、ソラックチだとか、田植えの道具だとかね、それから何だか知らねえけど、大きな丸太だとか。「これは何だ?」と思ったら、ははあ!これで田を均(なら)すのか、あれに紐付けて。田んぼの中を引っ張ったり。これはすごいな。弥生時代以来の農機具じゃないか。

そういう農業の仕方。そういったものが残っていた。そうだ。この次なくなるのはSLじゃない。下手すりゃ、農業かもしれない。

お金以外のものは何でもある

僕は決して、そんなふうに悲劇的に見てるわけじゃないけども、やはり、今の価値観では人口が減ってしまう。「これじゃあ、金にならない」っていうような発想でいったら、やはり、私(わたくし)がネガティブに見ざるを得なかったっていうことに帰着しちゃうかもしれない。

しばらく私の都合で会津へ来なかったんだけれども、昨日久しぶりに会津に来て、僕がつくづく感じたのはね。「ここにはお金以外のものは何でもある」と僕思いましたよ。人知れず、廃屋の前にね、あるじがいなくても今年もきれいな花が咲いてるわけですよ。丹精して眺めたであろう、菖蒲だとか牡丹が見事な花つけて。まったくねえ、ここは空気だけでもいい。

今朝も起きて、食事しようと思ったら、宿の女将さんが「テレビつけましょうか」って言うから、「いや、テレビつけないでくれ」と。今、何の音もしない。音がないっていうことはどんなに素晴らしいことか。どうかテレビつけないでほしい。音がなくて寂しいと思うか、音があると賑やかでいいと思うか。違う。音がないからこそ、音楽が発生するわけでね。朝から晩まで音楽がジャガジャガ鳴ってる。駅で電車が3分ごとに来るたんびに、自動的に音楽が鳴る。この駅は何の音楽だ、あの駅は何の音楽だって決まってるみたい。それをね、朝5時から夜中の1時半までやってるわけですよ。そういう所から来たらね。音がないってことの贅沢。素晴らしいと思いましたねえ、つくづく。昨日は柳津で泊まったけども、まったく音がない。この贅沢ってものは代えがたい。だから、僕はこれからね、この地方で何が豊かなのかっていう価値観ってものを、個々がね、見定めていくっていう時代に、それ以外ないと思うんですよね。

千人の村を豊かに生きる

先だって奥会津書房で発刊した『別冊会津学vol.2』っていう本、分厚い本でしたけれども、最初に巻頭言の所に赤坂さんが、少し長い講座の話をしてくれて、柳田国男という民俗学の大家から日本の民俗学が始まったって。だけど、いっときね。赤坂さんの著述の中で、あまりにも柳田さんがしっかりしたものを作っちゃったから、「私は」って赤坂さん思ったんじゃないかな。柳田国男と違った視座の民俗学を提唱したっていうような時期があったように僕は思ったんですけど。今回、柳田国男という原点に帰って、今さらながらに柳田国男って人の偉さに開眼したってのを、あの文章から僕読みとって、「赤坂さん、エライ!」。そして、僕に「エライ!」と思わせた、最後の総括した所は、この言葉が、僕すごく忘れられなかったんだけど、「千人の村を豊かに生きるために」って。それで、その長い講座を締め括った。

「これだ!」。よく言ってくれた。「千人の村を豊かに生きるために」。そう。これ一つの禅問答の提唱ですよ。これをよく吟味してほしい。「千人の村で豊かに生きる」じゃないの。「千人の村を」なの。「千人の村で豊かに生きる」っていうのはね、東京で食い詰めちゃったし空気が悪いから、田舎へ移住しようっていうね、ある種のエゴでしかないと思う。そうじゃない。千人の村で完結する。減っていく人口統計に、いちいち心を煩わせないで、千人で生きてく術(すべ)っていうものを、これからは考えていくべきじゃないか。その時に本当にね、お金以外は何でもあるっていうことに帰着してほしいと思うんですよ。

そのためには、役場がどうの、県庁がどうの、今度の選挙はどうのじゃなくてねえ、誰に何に期待するじゃなくて、一人一人がね、本当に強く生きる!そういう人たちが千人いる。これですよ!そういう村を目指すべきだと思う。だから、「美しい村」連盟じゃなくてね、千人がみんな、本当に教養の「もののふ」になって生き残ったらね、この町だって、奥会津のどこの村だって、生き残っていけると思う。それを他の所の人が見てね、身勝手で独り善がりだと思ったって、それこそ草野心平じゃないけども、「ゲロゲロゲロ」ってカエル語で返事してやりゃあいいわけですよ。先輩はいるんだよ、いくらでも。

余技の効用

また写真に戻るけども、上手な風景写真の撮り方、上手なポートレートの撮り方、なんていうハウトゥー(How to)ものの本を、技術をいくら身につけたって、それはそのことでっきり、役に立たない。もっと普遍性のある「自分」っていうものを、融通のきく、普遍性のある教養っていうか、「知的武装」っていうもの、それを強固にしていくってことが、結局、写真でも文章を書くんでも、一番早道だってね。

写真だけやってたんじゃあ、すぐ行き詰っちゃう。それは、僕が奈良行ったり、京都行った時に、もう行き詰っちゃったもんと同じなんだ。だから、やはり、写真をやろうとしたら、音楽を聴いてみる、本を読んでみる。逆のこともあると思うんですよね。文学やってたから、僕は写真も素人だけど、他の人と違った写真が撮れる。そういうことがあると思う。だから、やろうとしていること、やってることの他にどのくらい無駄飯食ってるかっていうことが、結局その人を決めていく。「無駄飯の効用」、「道草の効用」、これを薦めたい。つまり、学校までマイクロバスで集めて登校するんじゃなくて、学校の行き帰り、近い人も遠い子どもも自分の足で行ったり来たりするってこと。その途中でカエルつかまえてみたり、なんだかんだって、ね、人んちの柿もいで食ってみたり。やっぱりねえ、そういう「道草」っていう言葉、「人生の道草」。僕の写真のこの道楽なんかでも、ある意味じゃ道草ですよ。このことを本業にしてればね、私は鰻屋のチェーン店の社長だか専務になれたかもしれない。しかし、私はそういった方には進まなかった。

職業ってものは大事だ。なぜかっていうと、自分が写真やりたいんだったら、写真につぎ込めるだけの元手は、この本業以外に稼ぐ方法がないんだから。だから、本業でエキスパートにならなければ、余技の仕事だってできない。だけども、やっぱりねえ、余技を支えるためには、余技のまた余技ってものもやっぱり必要だと思っています。僕のその余技で一番手身近なのは、「本を読む」っていうことだと思うんですよね。自分でものを書いたりする。僕は写真で来たんだけど、本にするなんていうと、やっぱり多少、文章書いてくれ、なんてことになったりもする。そうすると自分でわずかな文章でも書くっていうことになると、今まで何気なく意味を汲み取るだけでページをめくっていた小説でも解説書でも「いやあ、うまい言い回しがあるなあ!」とか、「ああ、この人の文章は調子がいいなあ」とか、そういうものが分かってくる。意味を汲み取れればいいだけじゃない本の読み方ってものをするようになってくるわけですよ。

荷風への憧れ

その点で、最近、僕は開眼して、すっかり今惚れ込んでんのは、永井荷風っていう作家がいましたよねえ。『墨東奇譚』が有名です。色街で男が女性とどんなに猥らなことしたかっていうね。それをあの人は一生やり続けた、とんでもない人だったわけ。文化勲章もらいましたけれどもね。だけども、あの人の書く文章の素晴らしさ!文章によって情景を描き出す。文章による「絵」だね。あれにはもうほとほと。それからあの人が見る風景論。「論」なんて言ってね。あの人は僕とよっぽどよく似てる…、じゃないんだよ。あの人に僕が少し似てきた。あの人は決して名所旧跡には行かない。そして、自分は東京の一等地に住んでるくせに、東京の一番貧しい所、誰も行かない所、色街でも一番安い色街を歩くわけです。そして、江戸の真ん中を流れてる隅田川じゃなくて、千葉県との間の荒川だとか江戸川のへり。それが今、ディズニーランドになっちゃってるけど、海に流れ込む、葦だらけで人が一人もいない。そういった所を歩いて、そこの所で、なんともいえない筆の描写をしてる。あてどもなく場末の終点まで行くバス。その車中で見たことを、自分の家(うち)へ帰って文章に、日記に書く。その、なんでもない文章。荷風が只見まで、只見線に乗ったら、どういう文章を書いたろうか。僕、つくづくそれを思いますよ。そのことを思ったら、逆に、荷風はここへ来なかったに違いない。荷風にしてみたら、ここは景色が良すぎる!だけども、私はやっぱり、「文学の力」ってものを永井荷風によって、今さらながら嫌っていうほど思い知って、今も夢中になって永井荷風の膨大な、大正6年から昭和34年の死ぬ二日前まで書いた日記『断腸亭日乗』を読み直してます。「断腸の思い」っていう、その「断腸亭」って。この言葉がいいよねえ。もう、ありあまるほどね、素晴らしい家庭に生まれて、昭和34年に一人で死んだ時に、貯金通帳に3,400万円。今だって3,400万円あったら(死ぬまでに2,000万円って政府は言ってるけど)、昭和34年の、三島町買えたんじゃないかな?それくらいの金を残してた。しかし、彼はね、毎夜のごとく浅草まで行って、安い洋食屋さんでストリップの踊り子たちに、飯をご馳走してやるわけですよ。五百円札で。

あの人は、晩年は、駅前の蕎麦屋でカツ丼きり食わなかった。僕は会津へ来て一番食ったのはカツ丼ですよ。なぜか。僕は永井荷風のファンだった。それも、ソースカツ丼を僕は注文しない。つまり、東京でカツ丼って言ったら、いわゆる煮込みカツ丼。つまり、永井荷風に憧れてた。だから、この辺ではね、僕は中野屋さんのカツ丼をね、しょっちゅう食べてたわけ。

そういうね、及びもつかないけど尊敬する人たち。文学なんてものにまったく関係ないけども、彼の「ものを見る目」っていうものに共感するわけです。だからね、永井荷風の全集っていうの、僕、二十年ぐらい前に神田の古本市で見つけてね。歩道の上に、ビニールの紐で二つにこうやって括って売ってるわけですよ。僕は、それまでは岩波の文庫本で読んでたけど、全集が20年ぐらい前で、1万円で売ってましたよ。一冊数千円していたのが、28巻で1万円なの。一冊が一杯の駅蕎麦の値段なの。本当にねぇ、そういう時代なんだ。だからね、これだったら、6万円の国民年金で『荷風全集』を6セット買えるんですよ。

これからにふさわしい秤

今朝、福島民報だかの新聞に本の広告だったかな。『三千円の使いかた』とかなんとかって書いてある。その三千円ってお金をあなたが何に使うか。それがあなたを決める。あなたを育てる。僕は本当にこれだと思うんですよ。本当に。今の世の中ね、国も村も個人も稼ぐことばっかり考えてる。違うの。稼ぐことを考えて人生を計るのは、もうやめよう。赤坂さんはそれを言ってるんだ。「もっと」っていうんじゃない。これからにふさわしい秤(はかり)。財政が赤字だ。村ももう出費は削れないから、これを平衡させるために、こっちの分銅をもっと大きくしなくちゃいけない。もう国家が破綻してるわけでしょう。今、国民全体が、一人一千万円近い借財を負ってるわけでしょう?あの国債の残高見たら、量を増やすことによって天秤を均衡させるっていう考え方は、国も個人もやめて、今、手中にできるもので均衡を図る。そういう発想の転換が必要じゃないかって、僕つくづく思ってますよ。赤坂さんの「千人の村を豊かに生きるために」これですよ!話は終わり。

<質疑応答>

地域で容認される

(写真1枚目)
竹島 : 私はねえ、たとえばこの写真。この人、どういう人だか知らないけど、この家(うち)はよく知ってる。しかし、この人も私の名前なんか知らないけど、もうこの部落全体で、私ってものは容認されちゃってるのよ。つまり、この写真を撮る前に、この部落に20回か30回行って、これ南郷村ですけど、まず、私の存在を知らしめておくために、空(から)シャッターを切るってことがあるけれども、カメラを持ち出す前にもう肥しをやってるわけ。

(写真2枚目)

この写真は、会津で一番最初に撮った写真。下郷町の大内です。今、観光地化してる。年間、百万人集まるって言ってるけどね。これ正月の元旦。僕の初詣は会津だから、大晦日に夜行列車に乗っかって。ここへ着くまで湯野上からタクシー乗っかってきて、ここで写真撮ってたら、この父(と)っつぁまが出てきて、私なんかに関係なく、正月に雪の具合を見てるわけ。つまり、雪を今日は下ろさなきゃなんねえかどうか。

(写真3枚目)

私は人畜無害な人間なんだってことを周囲に知ってもらう。瞬時に知ってもらう時もあるし、この写真のように、20回も30回も通って、地域全体で知ってもらう時もある。

この三島町でもそうですよ。西方っていう集落、僕、一番長くお世話になったけど。ある時、カメラ持って村中を歩いてると、「ああ、あんたかね!留(とめ)記(き)さんの所に出入りしてるって客人はあんたのことかね?」と。これですよ!こういうふうになってきて初めて、安心して写真を撮らさせてもらえる。人間じゃなくて、人様の軒下や足元に転がってるものを、そういったものを撮る。それ、不審ですよね。だから、そういうのを違和感ないよう、受け入れてもらえるようになるために、まず、変な言い方だけど、カメラを持ち出すまでに種を蒔いとくわけですよ。そこに時間がかかる。

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今から数年前に、有楽町の「無印良品」本店で写真展をやってくれました。その時の写真があそこにあるものなんです。その時、こういう席で対談するっていうイベントを企画してくれて。誰かと対談するって時に、僕ね、「もし、できたら赤坂先生と話してみたい」って。なんと下打ち合わせなし。打ち合わせしちゃうと対談にならない。だから、「先生、今日よろしくお願いします」と、小一時間対談したんです。その時、赤坂先生がこう言った。「竹島さんが会津に千回近く通(かよ)った。で、奥会津書房に写真が二万枚預けてある。そうすると、私は、数学は不得手だけど、千回で二万枚っていうと、一回に20枚ぐらい。ちょっと少ないんじゃないですか?」って(笑)。つまり、「千回っていうのは嘘なんじゃないか」って。だけど、そこなんだ。ガシャガシャガシャガシャ撮るわけじゃないんだ。今言ったように、ぶらぶら行って、おばあさんにスパゲッティご馳走になってね、終わったから「じゃあ、さよなら」ってもんじゃない。そこでね、「おれがここへ嫁に来た時は…」っていうような話が始まるわけ。つまり、赤坂さんが、リサーチでやりたいような、聞き出したいような話ってものを、メモとったり録音するんじゃなくて、僕はそれ聞き流すんだけど、おばあさんの話し相手をしてやるわけよ。嫁らがいない時に。
会場:(笑)
竹島 : それがね、僕が、会津でモテる理由の一つ。僕がこんなにしょっちゅう会津へ通い始めて、休みのたんびに僕、家にいないわけよ。十年ぐらいだか二十年ぐらいだか経った時に、近所の人が私の妻にね、「お宅の旦那、会津へ写真撮りに夢中になって通ってるって言うけどね。男がそんなに夢中になって通い続けるっていうのは、普通じゃ考えられない。会津に行くなんて話は嘘じゃないかもしれないけど…、絶対に女ができたのよ」。
会場:(笑)
竹島 : これ…、正しい。世間一般は皆、常識で考えたらそう言う。その時、「そうだ」って僕言ったの。「そうなんだよ、女がいる。ただね、おばあさんなの」。
会場:(笑)
竹島 : 伊南村の内川のおばあさんがたまたまね、「ちょっと寄っていきな」って言うから寄ったらね、俺に飯をご馳走してくれるって。その家(うち)はね、なんと、昼飯はパンだった。本当に会津の人は新しいもの好きだね。この米が余ってる時に、我が家で昼にパンを食う、そういう生活はなくて。内川のおばあさんの所では、パン食でジャムがね、トマトのジャム!「おれんとこで作ったトマトの、それを食ってけ」って。で、やっぱり食べてる間、話聞く羽目になる。こっちはもう、写真撮りたい、時間がない、写真の宝庫みたいな所ですから。そしたら、そのおばあさんがね、俺の心を見抜いてんだ。「おれの話引っかけていったら本一冊できるぞ」って。僕、本当にそう思う。それをプロでやったのが赤坂さん。そうだよ。おばあさん10人に会えば、10冊本ができるんだよ。だから、民俗学は写真に比べれば易しいな。
会場:(笑)(拍手)
竹島 : 赤坂さんいないだろうな(笑)。
会場:(笑)